見下ろす明星、見上げる虫獣

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 春が終わり、長い夏が来た。
 徹夜の仕事を終え帰宅したスクアーロは、早々にコートを脱ぎ捨てた。シャツのボタンを外し、だらしのない格好でソファに寝そべる。いつもは閉め切っている窓も、今朝ばかりは堪らず全開にした。
 昨日に引き続き、ボスの機嫌は大荒れだった。
 下っ端の一人が尋問用の捕虜を取り逃がす、という失態を犯し、それがあまつさえボンゴレ本部の知るところとなったのである。ミスをした隊員はもちろん“かっ消さ”れ、ミスをしていない者にも火の粉が飛んだ。文字通り。折り悪しく他の任務も重なり、ここ数日のスクアーロの心労と疲労は、あのベルフェゴールをして『隊長じゃなきゃ死んでる』と言わしめるに至った。
 寝る間もなく働き回っていた身体は、緊張を緩めた途端にズタ袋のように重くなり、ソファの肘置きからはこれまたダラリと長髪が垂れ落ちた。蔦のように床を這う髪、その毛先が赤黒く固まっているのを見て、スクアーロは卑屈な笑みを浮かべた。
 昨夜の敵には心底同情する。
 鬱憤の矛先となった男共の死体は、棺桶に収めるのも一苦労に違いなかった。本能に身を任せ、見えるもの全てを斬って殺す。強敵と戦う時の研ぎ澄まされた高揚とはほど遠い、泥のような愉悦だった。深く嵌まれば二度と上がっては来られない。
 己の本質がそちら側にあることを、彼は良く理解していた。だが、どんなに牙を磨いたところで、見境なく噛みつくならば犬にも劣る。ただ殺したいだけの獣ならこの世界にはごまんといて、だからこそ、彼は自身に対して最高の冷徹をつきつけていた。
 衝動、情動、享楽、快楽。その全てを排除して、ようやく相応しい価値を手に入れる。薄汚い野良犬では、あの男を仰ぎ見ることさえ許されない。
「女ァ」
 スクアーロはソファから身を乗り出し、階下の女を呼んだ。反応がないのはいつものことだが、今日はなおのこと腹立たしい。三枚くらいにおろしてやりたい、とさえ彼は真剣に考えた。
 夜は明けきって、街の空気には朝の活気が混じり始めていた。舌打ちをしたスクアーロは荒々しく窓を閉めた。
 怠惰に首を傾け、のぞきこんだ先の“階下の海”もまた、夜や明け方とは打って変わって、爽快な夏の匂いを漂わせていた。
 光を弾くような眩しい風景の中には、やはり海と浜以外には何もなく、遠目には二つの色しか見えない。が、目を凝らせば白の中にはさらに白があり、青の中にはさらに青があるのだ。緑や紫すらも見出だせるかもしれず、事実そのような色彩を捉えてしまった己の目に、彼はささくれだった。
 子供の頃は単純で分かりやすかったものが、年を重ねるにつれ、別の様相を帯びてくる。見えなかった色が見えてきて、二色のクレパスでは足りなくなる。世の人間がこぞって“成長”だと呼び習わすその現象も、彼に言わせれば鬱屈と妥協の副産物にすぎなかった。
 錯綜した人間関係、絡み合う人生。世界が複雑に見えるのは、誰のせいでもない。取るに足りない人間ほど、斜に構えて物を見る。余計な色でやかましく視界を塗りつぶし、言い訳し、正当化するのだ。
 だが、自分がそうでないかというと―― と彼は自嘲した。一人前にまっすぐ駆けてきたつもりが、所詮はたいした意思もない一匹の虫獣にすぎないと思い知ったのだ。あの時。
 思うままに生きる。たったそれだけのことがひどく難しい。その難しいことを、あの男は簡単にやってのける。白か黒か。一かゼロか。進むべき道、ただそれだけを見続けられる者こそ―― 。八年先を生きてもなお、じりじりと背が熱かった。
 ざざあ、という波の音とともに、色はかき混ぜられ、より複雑な白と青へと変化した。忌々しい、と思いつつも、何故か目を離せなかった。
 その時、女が顔を上げた。長い髪が潮風に舞っている。どんな顔をしているのかははっきりと分からなかったが、唯一ちらりと覗いた女の口元は、笑っているようにも悲嘆に暮れているようにも見えた。

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