「鮫がいるから」
笑うのをやめて、瞳を伏せた。女の肩はひどく痩せていて、ヒビの入ったガラスのように危うい。夜明けの海は静かで、衣擦れの音さえ聞こえてきそうだった。
囁くように女が言う。
「だって、全部食べてしまう」
その途端、海がざわめいた。波が立ち、それに乗って大きな何かが現れる。背びれがどんどん近づいてきて、浜辺の女は逃げるまもなく血腥い顎の餌食になった。
ガラスの砕ける音がする。
大鮫は女を頭からバリバリと喰らい、骨の欠片も残さなかった。
Quattro
ガチャリ、と階下で鍵の開く音がした。常人には拾えない、ほんのかすかな音を聴きつけ、次の瞬間には、スクアーロはソファから立ち上がっていた。
床に脱ぎ落としていたシャツを羽織り、乱れた髪もそのままに廊下へ出る。階段を降り、すぐ下のフロアに出た彼は、人の気配を追って角を曲がった。
間に合うか。
並んだドアのうち、とあるひとつの前に人影があった。そこはスクアーロの部屋の真下、“海”のある二〇二号室の前だった。
スクアーロの存在に気付いて、女のシルエットが振り向いた。彼は息を詰めた。
「おやまあ、こんにちは。マンシーニさん」
部屋の前に立っていたのは、かの大家だった。拍子抜けしたスクアーロは、その場に立ち尽くした。
「どうしたんだい?」
「いや……」
我に返って己を見れば、取るものも取りあえず、おおよそ半裸である。だが、気を取り直し、それがどうしたと言わんばかりに大家を見下ろした。
「ここの女に貸した物がある。中にいるか」
前を肌蹴たスクアーロの姿を、年甲斐もなく凝視していた大家だったが、はっと顔を上げた。言われた言葉を反芻した結果、彼女の脳内はどうやらゴシップ方面の想像に辿り着いたらしい。部屋のドアとスクアーロを交互に見て、口をパクパクさせた。
「まだ一ヶ月なのに……いや、でもこの男前じゃ仕方ないか……」
「話を聞け」
眉を歪めて言う。部屋の中には、確かに人の気配があった。
「き、聞いてるとも。でも、マンシーニさん、アンタ本当に知らないのかい?」
「何がだ」
「ここに住んでたアンタのガールフレンド、今日の午前中に退居したけど」
「ハァ?」
我ながら驚くほどとぼけた声が出た。大家は気の毒がるような恐ろしがるような複雑な表情で、スクアーロを見上げていた。
「おい待て、じゃあさっき部屋に入っていったのは誰だ」
「ルームクリーニングの業者だよ。見てたんじゃないのかい?」
問い返されて、スクアーロはもう何も言えなくなった。
夜が更けてから、彼は静かに自室を出た。
コンクリートの廊下の上、身体に見合った大きな革のブーツがコツリとも音を立てない。黒いコートをまとった瞬間から、彼はもうそこに居ても、居なかった。夜陰に乗じる豹のしなやかさで、スクアーロは階下を目指した。
彼がこれからしようとしていることは、一般的な世の人々にとってはひどく縁遠いが、“その他”に分類される極少数とっては、息をするのと同程度に初歩的なことである。
二〇二号室にはすぐ辿り着いた。
扉の横に立ち、室内の気配を探った。重要なのは、目標に動きがあるかどうか。起きていれば、客を装ってチャイムを押す。
では、動きがなければ―― スクアーロは手袋で鍵穴に触れた。確認するまでもない、良くある仕組みの錠である。
そういえば久し振りだな、と口角を上げた。スクアーロの仕事は、開かれた密室に踊り込み、護衛を黙らせ、対象を命令通りのやり方で死体にすることである。人払いをしたり、鍵を開けたりといった雑作業は、組織が拡大した今や、数多くいる木っ端工作員のやることだった。
そんなことを考えながらも、あっさり鍵を開けてしまった彼は、何の躊躇いもなく室内に踏み込んだ。
古い、だが丁寧に磨かれたフローリングの上を、これまた音もなく進んでいく。明かりは一切なく、物の輪郭さえ危ういくらいの暗さである。ところが、スクアーロの歩みは少しも乱れなかった。夜に慣れたスクアーロにとって、暗闇は敵ではなく、決して裏切られることのない親しい相手だった。といっても今回の場合、たとえ彼の目が常人と同じ性能だったとしても、何ら問題は起こらなかっただろう。なにせ自分の家と全く同じ間取りである。
キッチンを通り過ぎ、スクアーロはとうとうリビングに続くドアの前に立った。
女はもうここにはいない。そんなことは当然理解している。
仕事とは無縁の事柄に、労力と時間を費やす。そのらしくなさも当然、理解している。しかし自分の奥深くに潜む、ひどく衝動的な部分がこの行為を欲していた。衝動故に理由などなかった。
実際のところ、スクアーロは多分に衝動的で、情動的で、享楽的で、快楽主義的な人間であり、そういった性質こそが現在の彼を生み出した重要なファクターであることを彼はよく理解していた。分水嶺となったあの時―― あの男を王にすると決めた時も、彼はやはり名状しがたい衝動に襲われたのだ。強さへの憧憬、畏敬……辞書を繰り、名付けたところで意味などないが。
ひとつ付け加えておくならば、彼は衝動的ではあったが、浅慮ではなかった。悲願成就のために、己の本質がかえって邪魔になると悟った彼は、それを最初の敵に定め、殺すに等しく抑えつけることにした。忠誠や責任、その他要るだけの錘と鎖でもって。
さて、スクアーロはとうとうドアノブに手をかけた。あるのかないのか。白か黒か。
ゆっくりとドアを押し開けた先、リビングには―― 何もなかった。
今や誰のものでもない二◯二号室は、隅々まで磨き上げられ、家具のひとつも、ゴミのひとつも転がってはいなかった。海なぞ、もちろんどこにもない。
「あーあァ」
自室の真下に立ち、彼は喉の奥で笑った。
「これじゃ鮫は飼えねェなァ」
床下の海で、鮫を飼って、女を飼って、さぞ良い気晴らしになったことだろう。
愉快げに喉を鳴らしながらも、スクアーロは天井を見上げた。彼がソファを置いているすぐ近く、天井板を貫いているはずの穴はどこにも見当たらなかった。まさか、とスクアーロは柳眉を顰めた。
行きとは正反対のやり方で、彼は静かに、しかし急いで部屋を出た。階段をのぼり、自室に戻る。
部屋に戻ったスクアーロは勢い良く例の穴をのぞきこんだ。驚いたことに、“階下の海”はいつもと変わらずそこにあった。
次の瞬間、彼はもう剣を抜き、切り下ろす挙動に入っていた。
一閃。傍目にはそう見えた。白刃が光る間もなく、床板に四角の切り込みが入り、首の皮一枚を残してダラリと真下に垂れ下がった。
即席で床に扉を作った彼は、手を突っ込み、その中をまさぐった。
即席で床に扉を作った彼は、手を突っ込み、その中をまさぐった。
しばらくして、指先に挟まれて出てきたものは―― 一枚の写真だった。
航空写真のように海辺を俯瞰したそれは、見覚えのある海岸線を描いていた。白と青。浜と海。穴の底に写真が一枚貼り付いていただけ。
つまりはそれが事の真相だった。“階下の海”ならぬ写真の中の海は、味気ない蛍光灯の下で、波の揺らめきや、砂の照り返し、海を形作っていたすべての魔法を解き、凡庸な一枚の絵に成り下がっていた。
つまりはそれが事の真相だった。“階下の海”ならぬ写真の中の海は、味気ない蛍光灯の下で、波の揺らめきや、砂の照り返し、海を形作っていたすべての魔法を解き、凡庸な一枚の絵に成り下がっていた。
潮の引くように、興味が失われていくのが分かった。失望というほど、大層なものでもない。
「まァ、暇つぶしにはなったか」
写真を放り捨てようとした彼だったが、あることに気づいてその手を止めた。
―― 女がいない。
写真を凝視するも、豆粒のような女の頭はどこにも見えなかった。自然の成り行きとして、彼は写真を裏返した。
そこには、青いペンで一言綴られていた。
“Si prega di guardare per me .”