翌日の朝、大家を訪ねた。
 訊きたいことがある、と切り出すと、大家は少々怯んだ。前日、ガールフレンドに捨てられたばかりのシニョーレ・マンシーニが、未練タラタラで転居先を問いただしに来た、と固く信じ込んでいるのである。
「マンシーニさん、気持ちは分かるがね、退去した住人のことを教えるのは管理人として――
そっち二〇二はもうどうでもいい」
  素っ気なく返したスクアーロに、大家はぽかんと口を開いた。
 二〇二号室の天井に穴は開いていなかった。つまり、スクアーロは階下の部屋を覗いていたわけではなかったのだ。昨日出て行ったとかいう二〇二号室の元住人と、“海”の女ははじめから無関係だった。
「まあ、ナポリ男は潔くてナンボだけど……」
「訊きたいのは俺の部屋三〇二だァ。以前の住人に、女がいただろう」
 
 

見下ろす明星、見上げる虫獣

Cinque


 
 二週間後、国外任務から帰還したスクアーロは、数カ月ぶりにシャッターを開けて、マセラティのハンドルを握った。
 南イタリアの急峻な山岳を左右に見つつ、田園の国道を走る。クラシックな銀の車体が夏の陽光をカーヴィーに弾いていた。左手に見えるのはナポリに向かう際に見慣れた山々―― のちょうど裏側である。ヴェスヴィオの赤茶けた山肌は当然視界に入らない。
 乾燥した初夏の風が、首元を吹き通って行った。屋根のない車はイタリアの気候にこの上なく合っている。ぐずぐずと湿った日本を訪れてから、スクアーロはより強くそう思うようになった。
 久々の外出にもかかわらずすこぶる上機嫌のスパイダーは、空いた道路を飛ぶように走り、半時間と少しで目的地についた。
『あの子が出て行ってから、もう三年近くになるかねえ。アンタが越してくるまで、あの部屋には何人か入ったが、みぃんな男だったよ。若い娘はこんなボロアパートに住みたがらないからねえ。あの子の転居先? さあねえ、実家に帰るようなことを言ってたけど……マンシーニさん、若い男が熱烈なのは悪いことじゃない。誰から聞いたか分からないけど、一度も会ったことのない相手に“一目惚れ”ならぬ“一耳惚れ”ってのもロマンチックだしね。でも昨日ラウラと別れたばっかりなのに、いくらなんでもちょっと気が早すぎ―― 』 
 元来話し好きらしい大家は、守秘義務がどうのと言いつつも、必要な内容をぽろりぽろりと口の端からこぼした。そうして得た情報の断片を有用な個人情報に化けさせるのは、彼のコネと金に拠れば、そう難しいことではなかった。
 カゼルタ県アリーフェ。ナポリの北東に位置するこの街は人口七千人前後の、至って平均的なコムーネである。
 一旦市街に乗り入れた彼は、メインストリートと呼ぶには狭隘な道から、網目状に伸びる一本を選び、郊外に向かった。
 石畳が切れて五分もすると、景色は再びオリーブ並木である。道はどんどん細くなり、車幅と同じかそこらになってきた頃、ようやく最奥に行き当たった。
 オリーブに囲まれたレンガの家。イタリア人の郷愁をもれなく誘う平和的で牧歌的な佇まいだった。はるか向こうにマテーゼの山々が見える。
 “海”の女が生まれ育った家は、地中海のあの光に溢れた波打ち際とは正反対の、閑静な山裾にあった。
 畑の脇に鼻先を突っ込んで、強引に停車する。
 大股でずかずかと敷地内に入り込むと、「あっ」と子供の声がした。ブラウンの短髪を見咎めた彼は、背を屈めることなく高い位置から言い放った。
「おいガキ、テメェのマンマに客だ」
 地べたに座り込んでいた子供は、幼子独特のはにかみでちらりちらりとスクアーロの顔を見てから、黙って裏へ駆けて行った。子供と入れ替わりに、老いたポインターがのろのろ挨拶に近づいてくる。待っている間スクアーロはその毛艶の悪い頭を荒っぽく撫で回した。
 しばらくして、家のドアが開き、女が顔を出した。齢は四十の半ば頃、品よく痩せたその女は、彼を見て恭しく頭を下げた。
「シニョーレ・マンシーニ。お待ちしておりました」

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