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ええ、突然お電話をいただいて、私も夫も大層驚きました。お話の内容もですが、まさか若いシニョーレからだなんて。仕方がないとは言え、あの子にはそういったことが今まで全くと言っていいほどありませんでしたから。
……もちろん、存じておりますとも。
マンシーニさんは実際にはあの子と話したことすらない。名前だってつい最近知ったばかり。でも、ご存知なのでしょう。あの子のことを。
あの子は昔から人見知りをしない子でした。弟とは違って。ああ、さっきは息子が失礼しました。あの子ったらもう十二になるのに、知らない人にきちんとご挨拶できなくて。ごめんなさいね。それで、そうそう。だからあの子にとっては―― 娘にとっては、たとえ話したことがなくても、貴方はもう他人ではないのだと思います。あの子の好きそうな言い回しで“三◯二号室のルームメイト”といったところかしら。勝手に友達にされてしまった貴方からすれば、とても迷惑なことでしょうけど。
そうね。ではそろそろお話しましょうか。あの子と、あの“海”について。
まず最初に、マンシーニさん、貴方は海が好きですか?
……髪がベタベタするから嫌い?
フフフ、娘が喜びそうな返事だわ。勘違いしないでくださいね、悪い意味ではないの。
……いいえ、いいえ。
あの子は海が大好きです。近くに海があったら毎日でも泳ぎにいく、って小さな時分に鼻息荒く訴えてきたくらい。ジェノヴァ、ヴェネツィア、ナポリ。娘は昔から海辺の暮らしに憧れておりました。アリーフェだってナポリまでほんの少し、アベッツァノやリエーティに比べれば、はるかに海に近い街ではあるのですけれど。娘にとっては山奥の牢獄みたいなものだったんでしょう。大人になり、反対を押し切って一人暮らしを始めると言い出した時も、海の側に行くと言って聞きませんでした。
……それなのに、結局はなぜ海のないあの街に住むようになったか、ですか。
ええ、そうです。それなんです。可哀想だけど、止めるしかなかった。
……若い娘だから?
いえいえとんでもありません。元気に生きていてくれさえすれば、私たちはそれは良いんです。海が好きなら海の側へ、都会が好きなら都会へ。自由に行きたいところへ……娘が、普通の―― 健康な身体であったのなら、ね。
とても珍しい病です。他にも多くの症状を伴いますが、最もあの子を苦しめたのは“塩”でした。塩気に当たると、肌が爛れ落ちてしまう。塩の含まれたものを口にすること、汗をかくこと……海で泳ぐことはもちろん、潮風にあたることさえ。特別な薬で足りないものを補いながら、あの子は育ちました。
親の贔屓目かもしれませんが、とても強い子なんです。生き物が生きるために欠かせない、命とも言えるものに背かれてしまったにもかかわらず、どんな時も笑っている。昔、雑誌のインタビューで問われた時、私はそう答えました。ええ、もちろん気丈な子なのはその通りですよ。ですが、強いだけの人間なんているはずがないんです……あの病は娘に、涙を流すことさえ許しませんでした。
話を戻しましょう。
海に焦がれたあの子は、ある日、いいことを思いつきました。『海がないなら、作ってしまえばいいじゃない』と、まるで昔の王妃のようなことをね。娘は一生懸命、海を探しました。私たちも手伝うと言ったのだけれど、あの子は一人でやると言ってきかなかった。本当に強情な子です。
その結末については―― マンシーニさん、貴方はもうご存知でしょう。数年かけて、娘はとうとう“海”を手に入れました。
“明星の瞳”と名付けられたそれは、とある職人が妻のために作り上げた唯一無二の宝です。見た目はただのガラス球ですが、そばに絵や写真を置き、特殊なやり方で光を通すと、内部で非常に複雑な反射をして、まるで本物のような像を浮き上がらせるのです。光量や角度によっては、生きて動いているように見えることさえ。
ええ、そうです、シニョーレ。貴方のような方ならまだしも、私たち田舎の夫婦などには手の届く品ではございませんでした。ですが“明星の瞳”を所持していた資産家は、娘の病のことを聞くと、快く譲ってくれました。娘が自分の病身を理由に、誰かに頼みごとをしたのは生まれて初めてのことでございます。
そうして手に入れた“明星の瞳”を、娘はこっそり自分の住処―― つまり貴方が今住んでいるあの部屋の床下に隠したのです。入院のたびに増えていった海の絵葉書や写真の中から、一番のお気に入りを選び、さらには自分の映った写真も添えました。太陽と月の光によって、お気に入りの“海”が浮かび上がってくるように。その中に自分の姿を見られるように、と。
……え?
ああ、なんてこと! あの子ったら大家さんに断りを入れていなかったの。勝手に穴まで開けたのに? ああもう本当に、あの子は昔から。
すみません、シニョーレ。話が逸れましたね。
とにもかくにも、娘が“海”の置き場所に選んだのはこの家ではなく、アパートの一室だったわけです。売れば車ひとつ、小さな家ひとつ買えてしまえるそれを、ただの貸家の中に。その理由については……わざわざ口に出すのは野暮ね。今貴方がここにいる、つまりはそういうこと。
長くなりましたが、これが娘と“海”の秘密です。聞いてくださってありがとう。
ええ、ええ。あと少しだけ時間がありますね。何かご質問はあるかしら?