女はずっと笑っていた。
「待ってますから。約束ですよ」
気まぐれと戯れで口にした、守るつもりのない約束だった。しかし女は心底嬉しそうに微笑んでいた。
ああ、そうだった。
彼はようやく女の顔を思い出した。
Otto
「お客さん、ついたよ。お客さん」
かけられた声に、スクアーロは比喩でなく飛び上がった。目の前には眉毛の繋がった、暑苦しいドライバーの顔がある。
自分の腑抜け具合にいいかげん嫌気がさしてきた彼は、中年ドライバーの脂っぽい顔面めがけて、枚数も数えずに札束を叩きつけた。ずれてしまったサングラスも、むしり取ってぶつけておく。
足音荒くタクシーから降りた。仕事内容に対し過剰な報酬を得たドライバーは、お大尽の気が変わらないうちに、とアクセルを踏み、そそくさと逃げていった。
巨大なブーツのつま先、カラブリアの太陽は、相変わらずナポリのそれよりもかしましい。色素の薄い虹彩がさっそく悲鳴をあげていた。ドライバーなんぞに一本きりのサングラスをくれてやるんじゃなかった、とスクアーロは珍しく先の行動を後悔した。
国外任務の帰り、何の手違いかナポリではなくサレルノの空港で降ろされたスクアーロは、この際ならと数日の休暇を取り、タクシーで高速道路を下った。バジリカータを抜けたあたりで、少しだけと目をつぶり、次に開いた時にはカラブリアである。いくら疲れていたとはいえ、非常にやるせない気持ちだった。
何もかも、あの女のせいだ。
とりあえず黒いコートを脱いだ後、スクアーロは目的地を目指した。地図はすべて頭の中に入っている。
『こちらを。あの子が今いる場所です』
アリーフェからの帰り際、母親が渡してきた紙切れにはイタリア南方の住所が書かれていた。だが実際のところ、彼には必要のないものだった。女のいる場所など、とうの昔に知っている。
母親はただメモを渡しただけで、彼にそれ以上の何かを願うことはなかったし、彼もまた女の母親とは何ら約束をしなかった。それなのに、母親は彼の後ろ姿を見送りながら深く腰を折った。
『ありがとう。本当にありがとう、シニョーレ』
人のいない炎天下の道路を、ひたすら歩いていった。
なぜ。理由は。どうして。そんなことを訊かれたとて、答えることなどできない。どうでも良いと言えば、どうでも良かった。だがそうせずにはいられない。つまりは衝動である。衝動故に理由などない。
濡れたようなゆらめきが、常に彼の先を行っていた。ぐにゃぐにゃと歪む視界。触れもせず、追いつけもせず、どうすることもできないその亡霊を“foschia secca”、日本語で“陽炎”という。老いたⅨ世は日本語が達者だった。何かと日本贔屓なドン・ボンゴレお歴々とは反対に、スクアーロはかの国にはあまり興味がない。が、言え得て妙な言葉だとは思っていた。陽炎、カゲロウ、蜉蝣。命短い虫の名と、どちらが先に言葉の形を成したのか。
陽光が容赦なく地面を焼く。
それにしても熱い。こんな日にこんな場所にいること自体が間違っている。現状をジャッポネーゼ流に表すならば、飛んで火に入るなんとやら。こんな言い回しを好むあたり、日本人はやはり卑屈である。
下らないことを考えながら、三十分ほど歩き続けて、彼はとうとう住所の場所に辿り着いた。カラブリアの南端にして、イタリア半島の南端。
ようやく行き着いたそこは何もない、だだ広いだけの浜辺だった。人影はただのひとつも、ない。
特に失望することもなく、スクアーロは革靴のまま、白い砂浜に降りていった。じゅうじゅうと焼けそうな熱気が、靴底から伝わってくる。尖った貝殻とガラスの欠片が上等な革にひっかき傷をつけた。
いわゆる名所と言われるポイントではなく、わざわざこんな場所を選ぶあたり、やはり奇妙な女だったし、言われるままにこんなところまで来てしまった自分も、やはり奇妙な男に違いなかった。
波打ち際に立ち、彼はポケットから写真を取り出した。そこに描かれた海岸線と、目の前に広がる景色と並べてみれば、一目瞭然だった。空から写した写真と、浜辺から見る景色。視点に違いはあれど、全く同じ場所である。
彼は息を吐いた。
そうだ、確かにここにいた。ここに立って、俺を見上げていた。