三年前、場所は確かベネヴェントの市民公園だった。
 


見下ろす明星、見上げる虫獣

Nove


 
 どすん、と尻を下ろす大きな音がして、ベンチが揺れた。読書に勤しんでいたスクアーロは、彼にしてはかなり控えめに、騒音の主を睨めつけた。恐れられてこそのマフィアだが、昼下がりの公園で、一般市民を加虐することは彼の望みにそぐわない。
 といっても、元来目つきの悪い彼のこと、睨まれた方は「ヒッ」やら「ゲッ」やら、たわいのない悲鳴を上げて(もしくは声すら出せずに)、逃げ去っていくのが常である。
「引っ越すんですか?」
 あてが外れて、溌剌とした声だった。目を輝かせこちらを見ていたのは、二十を少し過ぎたくらいの若い女だった。
「アア?」
「本に挟まってるそのチラシ、不動産屋さんのものですよね。しかも格安アパート特集」
「それがどうした」
 ドスの効いた声も、眉間の皺もまるで気にせず、女は身を乗り出してきた。
「つまり引っ越すんですよね。それなら私にお任せを。ああ、ご安心ください。私は業者じゃありません。通りすがりの近所の人です」
 スクアーロの脳が今まさに思い浮かべていた疑惑を、女はぺろりと舌に載せた。通りすがり? 何言ってんだこいつは。スクアーロは本を閉じて、立ち上がろうとした。
「ああ、ああ! ちょっと待って。ちょっと待ってください。どうどう」
「テメェ、何のつもりだ」
 馬の手綱を取るように、女はスクアーロの袖―― 運のよいことに、本物の手の方―― を掴んで引き留めていた。スクアーロはひどく苦々しい思いになった。腕を掴まれた事実より、どちらかと言えば、その手のぞっとするばかりの白さと力のなさに。
「お願いします。最初で最後、一生に一度のお願い」
 ふざけた態度の女が、この時ばかりは神妙に頭を下げた。
 振り払う気にもなれず、スクアーロは舌打ちしつつ腰を下ろした。“最初で最後”も、“一生に一度”も、もう二度と会うつもりはないが。
「五分だけだァ。それが過ぎたら帰る」
「ありがとうございます。では時間が惜しいので、早速。お引越しならあそこの角のアパートがお勧めです。もうすぐ一部屋空きますし」
 女は細い指で通りの向こうの建物を指した。遠目にもレンガの劣化が良く分かる、ひどく古いアパートだった。塗られたばかりなのか、壁だけがいやに白い。熱心に白塗りをした老婆のような、涙ぐましい哀れっぽさがあった。
「ただのボロアパートじゃねェか」
「見た目はね。でも、素敵な秘密が隠されているんです」
 女はフフフと人差し指を立てた。
「なんと、部屋の中に海があるんで―― ちょっと、まだ五分経っていませんよ!」
「くだらねェ話なら帰る」
「気の短い人だなあ。分かりました。種明かししましょう。あのアパートの庭には大きなポプラの木が植わっているんです。ほらあそこ、見えるでしょう。普通にしていると分からないんですが、床の隙間に耳をすました時だけ、葉っぱの擦れる音が波の音みたいに聞こえるんです。ざざあ、ざざあって」
 どうです、と女は自信たっぷりに言った。
「それだけかァ。波の音? そんなもん、ナポリにいた時、嫌になるほど聞いた」
「お兄さん、海の魅力が分かってないですねえ。海っていうのはね、ずうっと眺めているとたくさんの色が見えてくるんです。青一色に思える中にも、いろいろなものが重なり合っていて、その日の気分とか、生きてきた人生とか、そういったものによって、拾い上げる色が変わる。見える景色が変わる。見えたものが本人の好みに合うかどうかは別の話ですけどね。海は誰にでも開かれている……」
 はずなんです、と少し心配そうに付け加えた。分かりたくもねェ、と吐き捨てると、女は不思議そうに顔を覗き込んできた。
「ねえ、どうして嫌いなんですか?」
「テメエに教える義理はねェ」
「髪の毛がベタベタするから? 磯臭いから?」
「うるせェな……どっちもだ」
 そう言うと、女はベンチの上でひっくり返って大笑いした。育ちの良さそうな容姿にまるで似合わない、豪快な笑い方だった。
「うんうん。綺麗な髪だものね。キシキシしたら一大事」
「ついでに言うとテメェも嫌いだ」
「うんうん。急に声をかけてきて面倒くさいものね……ってもう、ひどい言い草」
 泣いてしまいますよ、と言って、女は大袈裟に涙を拭う真似をした。そこには一片の深刻さもなく、スクアーロは女が本心から涙を流すところをまるで想像できなかった。
「あーあ、海に行きたいな」
「勝手に行け」
「できることなら、そうしたいんですけどね」
 視線を落とした女は、これみよがしにモジモジした。
「言いたいことがあるなら、はっきり言いやがれ。面倒くせェ」
「だって、海には鮫がいるじゃないですか」
「鮫ェ?」
 予想外の答えに、スクアーロは思わず隣を振り向いてしまい、とうとう正面から女と目を合わせることになった。こちらを伺うように、小さな顔がそっと見上げてくる。
 言うに事欠いて、鮫とは。
 複雑な思いに囚われつつ、女の鼻先を見下ろした。
「鮫に食われて死ぬより、病気や事故で死ぬ方を心配しとけ」
「ぷ……あっはっは!」
 真面目に答えてやったのに、女はまたスクアーロの顔を見て吹き出した。
「テメェ」
「嘘、さっきのは嘘です。ごめんなさい。見かけによらず優しいんですね」
 秒ごとに凶相を深めていくスクアーロを、女は再び「どうどう」となだめた。怖いもの知らず、という言葉に目鼻をつけたような女だった。
「正直に言うと、鮫は大好き。だからそんなに怒らないで」
「鮫が好きィ?」
 物好きにもほどがある。自分のことを棚に上げ、彼は半眼になった。
「どう考えても、女が好きなモンじゃねェだろうがァ」
「人を殺して食べるから?」
 女の瞳は透きとおって無邪気だった。言葉に詰まったスクアーロを放って、女の白い手が上気した頬をうっとりと撫でた。
「そう。そうなの。どんな獲物でも頭から足の先まで、バリバリ食べてしまう。骨も残さず、好き嫌いもせず。見ていてすごく気持ちがいいわ」
 女は見てきたように言った。迫り来る鮫の背びれ。血糊だらけの顎。暗転。ぼんやりと赤く染まる海。
「へェ」
 映画の一シーンには仮初の死しか映らない、と彼は内心冷笑した。
 猟奇趣味かただの悪趣味か、目の前の女がどちらであったとしても、所詮は非日常だからこその熱狂に違いない。猟奇殺人も同じである。殺戮の中でも最も行き過ぎているように見えるそれも、スクアーロから言わせれば、素人の趣向に過ぎなかった。突き抜けていってしまえば、血でもはらわたでもなく、ただ死の匂いだけに惹かれるようになる。
 スクアーロの心など知る由もなく、女はくるりと表情を変えた。さっきとは別人のように、ただの小娘に戻って話しかけてくる。
「まあそれはひとまず置いといて。『鮫がいるから』なんていうのはもちろん冗談です。海に行けない本当の理由はね、もうすぐ遠くに引っ越さないといけないから」
「知るか」
「知ってくださいよォ」
 スクアーロはため息をついた。
「そこから行きゃあいいじゃねェか。海なんかどこにでもある」
「分からないんです。どんなところへ行くのかは、まだ。海なんて欠片も見えないところかもしれないし、海どころか何もないところかもしれない」
 初めて女の顔が曇った。頭上を飛行機が通り過ぎていった時のような、ほんの一瞬の陰りだった。
 言葉が口をついて出た。何か考えあってのことではなかった。
「ついていってやろうかァ」
 女がはっきりと息を呑んだ。守るつもりのない約束を垂れ流しながら、スクアーロは底意地の悪い、邪悪とさえ見える笑みを浮かべた。
「鮫だらけの海へなァ。そんなに鮫が好きなら、頭からバリバリ食われちまいな」
 この部分に関しては比喩でもなく、冗談でもなかった。こういう女はそうなった方がいい、と半ば本気で考えてさえいた。
 女は口元を押さえ、目をいっぱいに見開いていた。泣いた顔が見られるか、と思った瞬間、しかし女は目元を緩め、恍惚とした表情を浮かべた。ぞくり、スクアーロの背に得も言われぬ震えが走る。女の瞳の奥に、炎が見える。見るものの心臓をゆっくりと焼き焦がす、暗くて美しい炎だった。
「ああ、でもダメ。今は、ダメ。死んでしまうもの」
 女は眉毛を下げてひどく残念そうに言った。絶望したような口振りでさえあった。
「じゃあ、死んでから鮫に食わせてやる」
「本当!?」
 女は弾かれたように顔を上げた。人の目がなければ、ワルツでも踊りだしたに違いない、とスクアーロは輝く瞳を見て思った。
「素敵。本当に素敵。ヴェルサイユを観光するよりずっと素敵だわ。ああでも、私には貴方を待つ時間がないかもしれないから、その時は後から来てください。いいですか、貴方はいい人だから、後からゆっくり来てくださいね。一人きりだと嬉しいけど、さすがにそれは贅沢かしら」
 意味の分からないことを言って、女はこの上なく満足そうに微笑んだ。奇妙な女だった。
「約束ですよ、絶対。私ずっと待ってますから」

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