03 「海の見える喫茶店」
「待った?ごめん!」
待ち合わせ時間よりも少し遅れてきたマリは、高校生の時とまったく同じ仕草で両手を合わせた。
夏らしい薄水色のワンピースとウェーブした長い栗色の髪。穏やかな性格をそのまま形にしたような顔立ち。高校生の時から大人っぽかったけれど、二十歳を過ぎてマリは今度こそ本物の女性になっていた。
「どこの社長令嬢かと思った。婚約者とかいるでしょ?」
「開口一番、それ?」
マリが上品に笑う。
「イチルだって、そういう話くらいあるでしょ?」
「そうだったら、どれほど良かったか……日照り続きだよ、良く乾かされた浮き輪のようだよ」
「相変わらず、たとえが良くわからないけど」
久しぶりなのに、昔と変わらず話が弾む。親友とはきっとこういう相手のことを言うんだろう。
注文を取りにきたウェイターにデラックス・オムライスを二つ頼んだ。他にオムライスのメニューはないので、どこらへんがデラックスなのかは昔からイマイチ分からないのだが、一応ここ「海の見える喫茶店」の名物メニューだ。
「海が見える」という看板を掲げているものの、店の前に立つ大木によって視界は遮られていて、実際の海は林を超えたその向こうにある。「店をはじめた時は、ここまで大きな木になるとは思わなかったんだ」というのが店長の口癖だった。
「ここも良く来たなあ」
「イチルはガリガリ君ばっかり食べてたよね」
私とマリは中学校が一緒で、家も近かった。部活の終了時刻が合った時は、帰り道によくこの喫茶店に寄ったものだった。
思い出話に花が咲く中、ふと何かを思い出したらしいマリが、何気なくとんでもないことを口にした。
「そうそう、言うの忘れてた。私、結婚したんだ。今、4歳の息子と2歳の娘がいるの」
飲んでいたジュースを盛大に噴き出しそうになった。なんだそれ。
「結婚!?子供!?」
「お父さんの取引先の息子さんと。息子さんって言っても10歳ぐらい年上なんだけどね」
「お、お見合い……」
「うーん、でも別に政略結婚じゃないのよ。すごく優しい人だから、素直にいいなって思って。イチルとなかなか会えなかったのも、子供が小さくて手が離せなかったからなの」
衝撃の連続に、頭がついていかない。まさか、たった4年の間に同級生が子持ちになってるなんて。それも2児の母。
「嘘だあ。4歳ってことは、高校卒業してすぐに結婚したの?」
「うん、ちょっと早いかなとは思ったけど、向こうは急いでたから。あ、でも大学はちゃんと卒業したからね」
子供を2人も産みながら大学も卒業するなんて、いったいどんな手を。
マリの実家は資産家だからベビーシッターでも雇ったのかもしれないが、いずれにせよ、まるっきり別世界の話だ。
マリが私の顔を覗き込んできた。
「イチルはどうなの?いい人は見つかった?」
「いやいや。見つかるどころか、毎日生活するだけで精一杯だよ。結婚なんて夢のまた夢で」
「あの、例の手紙の彼は?」
再び飲んでいたものを噴き出しそうになった。いや、事実ちょっと噴き出してしまった私は、慌ててティッシュペーパーで口元をぬぐった。
「えっと、なんのこと?」
「とぼけないで。昔、文通してたよね。よく英語の相談を持ちかけて来たじゃない」
そうだったっけ? いや、言われてみればそんな気がしてきた。
私は頭をフル回転させて、当時の記憶をたぐり寄せた。
ドアを開けて覗きこんだ先、放課後の美術室には人影がひとつあるだけで他には誰も見当たらない。
「マリ、もう部活終わった?」
「イチルの方こそ、もう終わったの? 今日は早いね。私は今ちょうど終わったところ」
筆を片付けながら、マリがこちらを向いた。水色のエプロンに絵具の汚れがついている。
立てかけられたキャンバスには、今まさに水平線の向こうに沈もうとしている夕日の絵があった。鮮やかな赤色に、思わず感嘆の声が漏れた。
「すごいね、これ。もう完成?」
「ううん。あと少しではあるんだけど、うまく描けないところがあって」
そう言って白い指が、絵の片隅を指差した。
「この人の顔、もっと海の男らしくしたいんだけどね。港に行って観察してみたんだけど、漁師のおじさんはちょっとイメージと違うの」
もっとここをこうした方が良かったのかな。いや、でもそうしちゃうと……などとつぶやきながら、手を口に当てて、悩みはじめるマリ。
深みに嵌ってしまうとなかなか戻ってこない性格なので、早めに声をかけることにした。
「実はちょっとお願いがあるんだけど」
「やっぱりここはもうちょっと塗り足して……あ、ごめんごめん。どんなこと? イチル」
「マリって帰国子女だよね。英語の文法でいくつか聞きたいことがあって」
「へえ、学校の課題?」
「そ、そうじゃなくって。えっと。一昨日、通信教育の添削問題を送ったんだけど、合ってるかどうか気になっちゃってさ」
もちろん、真っ赤なウソである。書いたのは手紙、送り先は例の宝石箱。
相手の名前を知った夜、私は徹夜で手紙を書いた。あるだけの参考書と教科書と辞書を使って、例文をつぎはぎしながら、なんとかひとつの読み物としてまとめあげたのである。
さっきのマリではないが、今更ながら、「あそこはこう書いた方が良かったんじゃないか」とか「あの単語を使って良かったんだろうか」といった不安が次々と湧いてきて、いてもたってもいられなくなった私は、手っ取り早くマリにたずねることにしたのだった。
気になっていた箇所を伝えると、彼女は「ふうん」と頷いて少し考えた。
「今やってる範囲の英語としては十分だと思う。意味はちゃんと伝わるし」
「良かった!ありがとう」
「基本的な文法は間違ってないよ。大丈夫、大丈夫」
基本的じゃない文法は間違ってるのかもしれないが、まあ良しとしておこう。
そわそわしていた心がほんの少しだけ落ち着いた。
読んでくれるだろうか。
返事は、来るだろうか。
不安と期待がミックスジュースのようにとろとろと混ざっていく。やはりその日も眠れなかった。