シャンクスへ

 いったい何があったんですか?
 怪我はありませんか?

 力になれない自分が悔しいです。
 あなたに何かあったらと思うと、心配でたまりません。

 ―― お願いだから、あなたまで私を放っていかないで。



chapter1 A LETTER FROM THE SEA

07 手紙の向こう側


 そう書いてしまってから、コトンとペンを取り落とした。
 レースの透かしが入った繊細な便箋に、ペン先が汚れた跡を残していく。

 今この手は何を書いた?
 自分の行動が、その愚かしさ故に自分を打ち据える。
 おばあちゃんが亡くなって、何日も何ヶ月も泣いて暮らして、ようやく一人でいることを受け入れられたと思っていたのに、私はまだ誰かに依存しようとしている。

 力になれなくて悔しい?心配でたまらない?
 それは全部、相手を心配するふりをして、自分の不安を押し付けているだけだ。
 この関係が終わってしまうのが怖い。置いて行かれるのが怖い。湧いてくるのは、そんな思いばっかりで。

 引っ掻いたようなインクの跡が残った便箋。
 狭くて弱い私の心が透けて見えるようだった。

 新しい便箋を取り出したものの、机の上に転がったペンを拾い上げることはできなかった。
 何回書きなおしても、ラベルが違うだけで中身は同じ。薄っぺらい手紙なら、出さない方がマシだ。

 書きかけの手紙をぐちゃぐちゃに丸めて、ゴミ箱に向かって放り投げた。
 住み慣れない部屋で距離感が狂ったせいか、小さな紙くずはゴミ箱の縁に当たって床に転がった。捨て直すことすらせずに、机に突っ伏せる。

 なんで?

 結局、それが最後の手紙になった。
 5年間続いたやり取りは、私の心に悲しい爪痕を残して、あっけない幕切れを迎えた。

◇◇◇

 海賊旗が赤い海の中に倒れこんでいる。
 オムライスの船が崩されたせいで、寄って立つ土台を失ったのだ。よれよれになった紙の部分が、頼りなく哀れっぽい。
 私の昔話を聞き終わったマリが、瞳を伏せた。

「おばあさまが亡くなったこと、実は噂で聞いていたの。でも、イチル自身がどういう状況なのか分からなかったから、何も、できなくて……イチル、ごめんね。辛い時に一緒にいてあげられなかった」
「ううん、私の方こそ何も伝えずにごめん。お葬式や引越でバタバタしてたから。それに当時は辛かったけど、今はすっかり元気に生きてるからね!」

 それこそお葬式のようなムードになってきたので、両手を振って雰囲気を変えた。
 取り繕っているわけではない。5年という歳月は、大切な人をなくした悲しみから立ち直るには、十分な時間だったのだ。

「それで、手紙のことだけど!」

 マリに伝えたのはおばあちゃんのことだけだ。さっきウェイターに中断された話の続きに戻る。

「マリが見破った通り、相手は知らない男の人だったんだけど、結局、途中で音信不通になっちゃって。向こうも忙しくなったんだろうね」

 笑いと共にそう伝えた。
 手紙の方もすでに懐かしい思い出として昇華されている。何も問題はない。

 会話の調子が元に戻って、マリは安心したらしい。それならいいんだけど、と言いながらふたたびスプーンを手にとってオムライスを食べ始めた。

 私も倒れた海賊旗の端っこを持って、プレートの外へつまみだす。
 皿の上に乗っていても、君は食べ物じゃない。時間がきたら船から降りないと。

 わくわくする海の冒険も、はるか遠いものになった。大人になった私にとって、あの手紙を眺めるのは映画を観るようなものだ。自分がその登場人物になれるなどとはもはや露ほども思っていない。生きるべき本来の場所で、多くを願うことなく生きていくのが幸せなのだ。
 やっと手に入れた今の仕事は私に合っていると思う。授業の準備をするのも、生徒の相談に乗るのもとても楽しい。誰かを必要としていた私が、誰かに必要とされているのは嬉しい。

 私には私の航海があり、彼には彼の航海がある。
 ずっと、そう言い聞かせている。

◇◇◇

 ざあ、ざざあ、と寄せては返すさざなみが、落ちた夕日をゆらゆらとかき混ぜていた。
 小さな砂浜には、夏休みの小学生も、家族連れの海水浴客もいない。珍しく速い潮風が吹いているせいで、波の表面がざらついて見えた。

 立ち寄るつもりはなかった。
 隣町のおばさんに挨拶をしたら、遅くなる前に上京しようと思っていたのだ。夏休みとはいえ、明日は学校の用事がある。でも、気付けば坂道を下って、ここに立っていた。

 マリとあんな話をしたからだろうか。
 それとも、これのせい?

 例の手紙が一通だけ、カバンの中に入っている。この前の整理の際、うっかり放り込んでしまったようで、喫茶店で会計をした時にはじめて気づいた。偶然と言えば偶然だし、当たり前と言えば当たり前の結果だった。

 久しぶりに見た海は、記憶の中のものよりも一回りも二回りも小さかった。くぼんだような海岸線が、海を切り取ってここを小さな湾に仕立てている。波に逆らって200mも泳げばこのプライベートビーチから出られるだろう。そして、その先には見渡すかぎりの大海が広がっているはずだ。

 心の奥がうずいている。
 その思いは摘んでも摘んでも生えてくる新芽のように、大人の私を困らせた。

 いてもたってもいられなくなった足が勝手に水際をたどり始め、私はいつしかあの岩場に辿り着いていた。
 秘密基地は昔と何も変わっていなかった。ハート岩のひび割れも、大岩の屏風も。

「まだ、あったんだ」

 誰かに持ち去られていてもおかしくなかったのに、あの宝石箱も時が止められたように全く同じ姿でそこにあった。
 カバンを肩にかけたまま、しゃがみこんで手をのばした。長くなった腕は岩の上からでも容易に箱まで届いた。
 夕日に艶めく白い陶器を手のひらに乗せた途端、戒めを解かれたようにどくどくと鼓動が早まりはじめた。

 あれ以来、一度も開けていない。最後の手紙だと言われたからだ。
 でも、本当にそうだったのだろうか。
 あの後、何か変化があって、また手紙が届いていたら?

 フタに伸ばした手が小刻みに震える。
 ない、ない、ないに決まってる。
 つぶやきながらフタを持ち上げた。
 つるりとした白い陶器には―― 手紙どころかゴミひとつ入っていなかった。

「ほら、やっぱり」

 彼が「最後」だと言ったら、それは必ず最後なのだ。実際に会ったことはなくても、5年間のやり取りの中で、彼があやふやな約束やくだらない嘘を好まないことは良く知っている。
 フタの裏の金文字に触れてみた。大学ではいろいろな言語を学んだが、やはりこの文字を読むことはできなかった。

 「愛するサラへ」?「愛をこめて」?

 元の持ち主はどんな思いでこれを開けていたのだろう。手紙を待ちわびる、哀れな女の気持ちはわかってくれるだろうか。
 膝を抱えてしばらく眺めていたが、ふとあることを思いついて、カバンからメモとペンを取り出した。

「そういえば、結局、返事を書いてなかったな」

 届かなくたって構わない。読んでくれなくてもいい。
 自分を慰めて納得させるための独り言。もはやそれは手紙とは呼べないのかもしれない。

 岩にのせたメモが強風でパタパタとはためく。
 ペンを持った手はよどみなく動いた。


 お久しぶりです。お元気ですか?
 長い間、お返事を書けなくてごめんなさい。

 私は成人して、今は学校の先生をしています。生徒たちは可愛く、毎日とても幸せです。
 少年だったあなたも今や立派な大人になったんでしょうね。

 あれ以来、あなたのことを思い出さない日はありませんでした。
 でもそれも今日で終わりにしようと思います。
 そろそろ、前に進まないと。

 あなたは最後に私に会いたかったと言ってくれたけど、実は私の方がもっともっと欲張りでした。
 一緒の船に乗って冒険したかったなんて。
 私なんかがついていける旅じゃないのにね。

 楽しい思い出をありがとう。
 あなたの船がどこまでも自由に海を渡っていけますように。

あなたの親友・イチル



 できあがったメモを見て、宛名が抜けているのに気づいた。文章の一番上に、単語を1つ付け加える。

 “Dear”

 それに続く言葉を書きながら、同時に唇が動いた。

「シャンクス」

 長い間、声にも文字にもしなかった言葉が涙とともにこぼれおちる。ぽたぽたと滴が垂れて、ハート岩の割れ目に吸い込まれていった。
 完成した手紙を箱に入れてフタを閉めた。

 これで本当に終わりだ。返事がこようがこまいが、二度とここに来ることはない。

 ぎゅっと、くぼみに宝石箱を押し込めた―― はずだった。強風に煽られた波が私の身体を打たなければ。
 分厚い海水の壁にのしかかられて岩の上から転げ落ちた私は、運悪く水を飲んでしまった。

「がっ、は」

 こういう時、慌ててはいけない。そうわかっているのに、足に絡みついてくるスカートに焦りが募った。つま先は闇雲に水をかき混ぜるだけで、身体を支える助けにはならない。
 掴まるところを求めた手が、偶然か必然か、くぼみにひっかかっていただけの宝石箱に触れた。
 どぼん、というくぐもった音が水中を通って耳に伝わった。目の前を、陶器の箱がゆっくりと沈んでいく。

 そこから先はスローモーションだった。私は潮水が染みるのも忘れて、海中で目を見開いた。 貝の口を開けるように、白いフタが持ち上がっていく。
 中に流れこんだ海水が、さっき放り込んだメモを底から浮き上がらせようとしていた。

 待って。

 海水に濡れてインクも紙もぐちゃぐちゃになっているはずだった。それでも、手紙が流れてしまうのを防ごうと、咄嗟に手を伸ばした。
 その時、フタの裏の金文字が光を帯びて輝いたように見えた。あるいは差し込んだ夕日の加減だったのかもしれない。

 二度目の波が、岩場を飲み込んだ。
 ぬるい水の塊が容赦なく宝石箱を押し流していく。みるみる遠ざかる、思い出の白いポスト。

 あと少しだったのに、伸ばした手はやっぱり届かなかった。

 溺れながらも、意識はずっとはっきりしていた。
 だから、海面から顔を出してそこに広がる見覚えのない景色を見た時、どのあたりからが夢だったんだろう、と思った。


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