本をずらして、本棚のほこりをはたいていく。ここを掃除すれば、請け負った棚の整理も八割方終わりだ。
ハシゴの上で肩を回し、「ふう」と汗を拭った。
09 in the Strange World(Ⅱ)
アンタナ・リボナにおいて本は貴重品である。しかし、この家には小さな図書館を開けるぐらいの蔵書があった。もちろん、すべてドルテン先生の私物である。
今掃除しているのは、先生の部屋の書棚ではなく、廊下にはみ出た棚の方で、ここにはアンタナ・リボナについてまとめた論文集や英語の教本などが雑多に詰め込まれている。基本的に先生の本を読むことは許されていないが、この棚に関してだけは、好きな時に読んでいいことになっていた。
『バオーブの特性について』と書かれた背表紙を手に取る。
“―― バオーブは世界中でもアンタナ・リボナにのみ生育するレイン・オリーブ科の常緑樹である。乾燥に強く、また多くのレイン・オリーブ科の樹木と同様、その葉に微量の除塩酵素を含むため、その実および枝は住民の日常品として用いられており―― ”
先生と出会ったのはバオーブの木の下だった。途方に暮れてうずくまっていた私を、先生はグローブのような分厚くて大きな手で拾い上げてくれた。
家に案内してもらった後も、私は先生に、自分のことを何も話さなかった。言っても信じてもらえないと思ったのもあるが、何よりこのあまりにも突拍子のない話をどう説明すればいいか分からなかったのだ。
それから数日経って、先生が非常に理知的で、博識な人物であることを知った私は、濡れて電源が入らなくなった携帯電話と、ボロボロの千円札をカバンから出して、テーブルに乗せた。そして、たったひとつだけ質問をした。
「Mr.ドルテン。“ここ”に帰る方法を知っていますか?」
先生は長い間テーブルの上を凝視していたが、やがて首を横に振った。
感じていた違和感を裏付けるのに、それ以上の答えは必要なかった。ここで暮らそうが、外に出ていこうが、結果は同じ。
それ以来、外海のことは忘れてひたすらここでの生活に没頭してきた。
どん、どん、どん、と扉を叩く音がした。
「ドルテンせんせー!イチルせんせー!」
子供特有の甲高い声が私の名前を呼ぶ。扉を開けると、外にファノが立っていた。
「どうしたのファノ?」
「これ、おかーさんが持っていけってさ!いつも教えてもらってるお礼!」
そう言って、ファノは右手のカゴを高く掲げた。中にはバオーブの葉に包まれた細長いものが何本か入っている。
「中身はね、今朝おとーさんが釣ってきたスナハマイワシだよ!たくさん釣れたからおすそわけ!バオーブの実ばっかりじゃ飽きちゃうでしょ」
前歯の抜けた口を開けて、満面の笑みを浮かべる男の子。つられて一緒に笑ってしまう。
「ありがとうね。きっとドルテン先生も喜ぶよ。でも、こんなにもらっちゃっていいの?」
「おとーさんは村一番の漁師だからね!またとってきてくれるから大丈夫!」
「そっか、じゃあ、ありがたくもらっておくね。お父さんとお母さんにもありがとうって伝えておいて」
うん!と素直にファノは頷いた。
「そうだ、せんせー、これ見てよ!じゃーん!」
そう言って日に焼けた手がポケットから何かをつかみ出した。長い触覚と黒光りする身体を持った物体。
「それ」を脳が認識した瞬間、全身に鳥肌がたった。
「ちょっ……、これ、まさかゴキブ―― 」
「アレクサンドル・オオカブトでーす!滅多に見つかんないんだよ!すごいでしょー!」
誇らしげに掲げた昆虫は、どう見ても、台所やトイレに出没するあの黒い悪魔だった。しかも、見知ったものよりもたっぷり二回りは大きい。
後退った私とは正反対に、外で遊んでいた年少の子どもたちが走り寄ってきた。
「すげェ!ファノ、本物のアレクサンドル・オオカブトじゃんか!」
「どこで捕まえたの!?」
「ねえ、僕にも見せてよ!」
オオカブトの癖に角が見当たらないのは、いったいどういう訳だろうか。「私の知ってるカブトムシと違う!」と、叫びたい気持ちを飲み込んで、興奮に沸き立つ子どもたちの頭を撫でた。
「あは、ははは、ファノ、すごいの捕まえたね。でも、先生、ちょおっと用事を思い出しちゃったなあ。そろそろ戻っても―― 」
「ほう、良く見つけたな」
振り向くと、玄関の暗がりにドルテン先生がいた。差し込んでくる朝の日差しから青白い肌を隠すような格好で佇んで、鬱陶しそうに目を細めている。恐ろしいことに、これほどの気温にも関わらず、首元のマフラーは健在だった。
「ドルテン先生!」
恐ろしい顔もなんのその、子どもたちが大きな身体に飛びついていく。
「ふぬ、裏の森か?」
「うん!ミツを舐めてるところを捕まえたんだ!」
「この島にしか生息しない珍しい虫だ。せっかくだから皆で良く観察しておきなさい」
先生は関心したように頷くばかりで、子どもたちの言葉を訂正しようとはしなかった。この黒い昆虫はどうやら本当に「アレクサンドル・オオカブト」らしい。
ゴキブリがスターになれる世界もあるんだな、と私はジェネレーション・ギャップならぬ、ワールド・ギャップに身を震わせた。
ドルテン先生にほめてもらえたことが嬉しかったようで、少年たちは跳ねるように走り去って行った。
その背中を見送って、玄関の方を振り向くと、険しい三白眼が私を睨めつけていた。ふぬ、と低い鼻息が聞こえる。
まさか、怒っている?
そこでようやく、書棚の片付けを途中で放り出してきたことに気づいた。
「先生、ごめんなさ―― 」
「焼いてもうまいが、漬けてもうまい」
唸るように言い放つと、「ふぬ」という鼻息を残して、先生はまた部屋に戻っていった。
一緒に生活をする中で、だいたいの表情は読み取れるようになったつもりだったが、どうやらまだまだ修行が足りないようだ。
イワシをもらって嬉しいなら、それらしい顔をしてくれればいいのに。
不器用な先生と無邪気な子どもたち。
貧しいけれど、充実した生活。
流れ着いた頃の不安や寂しさに代わって、いつしかささやかな幸せが私を取り囲んでいた。住めば都とはよく言ったものだ。
帰りたい。でも、ほんの少しだけ、ここの生活を気に入っている自分もいる。
「さて、焼こうか漬けようか」