11 市(Ⅱ)
つるりとした表面。両手からはみ出るくらいの大きさ。
なんで、これがこんなところに。
実際のところ、宝石箱のことは常に頭にあった。私が移動してしまった原因を何かに求めるとすれば、誰だって真っ先にこの宝石箱のことを思い浮かべるだろう。
流れ着いた時、ハンドバッグが浅瀬に浮かんでいただけで、どんなに探しても宝石箱は破片すら見当たらなかった。だから、別のところに流されたものだと諦めていたのだ。
興奮とも緊張ともつかぬ震えが全身を駆け抜けた。
もしかすると、帰れるかもしれない。
もっと近くで見ようと手を伸ばした時、
「商品には勝手に触らないでおくれ」
と不機嫌そうな声が飛んだ。女店主が腕組みをしてこちらを見ている。
「すみません。この宝石箱、触らせてもらってもいいですか?」
「いいけど、座ったままでやっとくれ」
冷やかしの女が商品を持ち逃げするんじゃないか、と店主の眼が油断なく動く。
しゃがみこんで指先で触れてみた。夏島の外気に晒されていたにも関わらず、宝石箱は依然として冷たい陶器の感触を伝えてくる。
しかし、すぐに強い違和感を感じた。
違う。これじゃない。
色や形はよく似ている。だが重さが違う。よく観察すると装飾の跡もなかった。フタの裏には雑な文字で“LOVE ME”。明らかに私の知る宝石箱ではなかった。
全身を満たしていた期待が、潮の引くがごとくに冷めていった。
あのドルテン先生があらゆる可能性を熟考した上で、千円札や携帯電話が存在する場所―― 少なくともここではないどこか―― に行く方法はないと結論付けたのだ。つまり元の世界と同じく、この世界にも「世界を渡る」という概念や技術はないということである。
別世界だからといって、漫画や映画のように魔法や不思議なポケットが存在するわけではない。人々はみな地に足をつけ、物理の法則に則って生きている。
あちらの世界で特別な人間でなかったのなら、こちらの世界でも同様だ。私は私の人生の主人公ではあるが、世界の主人公ではない。
わざわざ頬をつねって見なくても分かる。ここは奇跡が量産される夢の世界ではない。どこまでもシビアで厳密な現実世界なのだ。
やはり、私は帰れない。
失望とともに大きなため息がこぼれおちた。
店先に返す前に、ともう一度だけ宝石箱に視線をやる。
偶然作られたにしてはやはり良く似ている。似すぎているとさえ言える。上等な骨董品だった宝石箱に対して、こっちは「最近作られたばかりのちゃちな模造品」という表現がしっくりくるだろうか。
模造品、という言葉とともに頭の中にある考えが閃いた。
模造品には必ずオリジナルが存在する。もしこれが模造品だとすれば、この世界のどこかに元になったものがあるはずだ。
たとえばそう、それが私の使っていたあの宝石箱なのだとしたら。
箱を凝視する私をようやく客と認めたのか、店主が商売っ気のある声を出した。
「ああ、それに興味があるのかい。最近仕入れたばかりの目玉商品でね。ええと確か、ナルヴァとかなんとかいう由緒ある財宝で……」
「“ナルヴァ”?」
必死の形相をしているのが分かる。店主は客の急変に驚いたらしく、一歩後ろに下がった。
「あ、ああ、そうだよ。これを売った商人は確かそう言っていた」
「これについて他に知っていることはありませんか!? 元の持ち主とか、どこで作られたかとか!」
「作られた場所? あんた、まさか偽物だと疑ってるんじゃないだろうね!」
目を吊り上げた女店主が、私の手から宝石箱をひったくった。
「正真正銘の本物さ! そんなに知りたきゃ自分で行って聞いてみな! ポーンショップ島にいるジモーって名の骨董商人だよ」
女はぷりぷり怒って箱を店の奥に片付けてしまった。
さっき靴を買ったせいで、財布にあの偽物の箱を買うだけのお金は残っていない。無理に買おうとするのは市のルール違反だ。二度と買い物ができなくなるし、ドルテン先生にも迷惑をかけてしまう。
帰るための手がかりが目の前にあるのに、何もできない。焦れったさでどうにかなってしまいそうだった。
諦めきれずにしばらく店の前をうろついていたが、とうとうそこからも追い払われてしまった。そろそろ市も解散の時間だ。
夕暮れの近い木立の中を北に向かってのろのろと歩く。ぼんやりとした頭の中を、ひとつの単語が回っている。
ナルヴァ。
私はこの言葉をどこかで聞いたことがある。
ああ、でもどうしても思い出せない。
次の日の朝一番、また市に行った。
ニセの宝石箱が売れてしまいやしないかと、昨夜はろくに眠れなかった。帰るための唯一の手がかりなのだ。絶対に手に入れなければならない。
だが、どこを探しても雑貨屋の姿は見当たらなかった。雑貨屋だけではなく昨日は所狭しと並んでいた店が半分くらいに減っており、港の広場には閑古鳥が鳴いていた。
昨日の煙草屋が、広場に立ち尽くす私に気づき、声をかけてきた。
「おう、昨日の姉さん。また靴でも買ってくれるかい? それともついにヤニをやるかい?」
「あ、いや……」
「いやあ、海軍のガサ入れが入るって報が今日朝イチで流れてねえ。大方、“赤髪”の噂に踊らされた海兵どもだろうが、そのせいで残ってたモグリの商人も皆どっかに逃げちまったよ。おかげで今日は昨日よりスカンピン。まあ、そろそろ来るかもしんねえし、俺も逃げねえとやばいんだけどね」
足に力が入らなくなり、ついに地面に座り込んでしまった。おい、姉さんどうしたんだ、という声が遠くで聞こえる。
先生にお願いして借りたお金が、手の中からこぼれおちた。
疲れた身体を引きずって帰宅した後、真っ先にドルテン先生の部屋へ行った。
「先生、訊きたいことがあるんです。入ってもいいですか?」
ところが、ふぬ、といういつもの返事は返ってこなかった。
「先生?」
ドアを開けてみたところ、部屋の中は真っ暗だった。めずらしいことではない。先生は昼間よりも夜に外出することが多い。
しばらく部屋の外で待ってみたものの、戻ってくる気配はなかった。
迷ったあげく、とうとう我慢できなくなって、書斎へ足を踏み入れた。
ちょっと、調べるだけ。
先生の書斎は大人が5歩も歩けば端に辿り着くほどの狭い小部屋である。壁一面に天井まで届く本棚が取り付けられており、その中には大量の本が縦になり横になりしながら詰め込まれていた。よく見れば、大雑把にではあるが、書名のアルファベット順で並べられている。
書机のランプをつけると、室内がぼうっと明るくなった。
「ナルヴァ、だからN……『ナンガ族に関するレポート』『北の海の島名一覧』……」
背表紙を指でなぞりながら、『N』の棚を調べていく。
「……『ネフェルタリの財宝』。これが最後の本か」
見落としがなかったかもう一度確認するも、やはりそれらしい本は見当たらなかった。
言いつけを破ってまで部屋に入ったのに、結局得るものはなかった。気持ちは重かったが、なんとか自分を励ました。
振り出しに戻っただけだ。帰るためのヒントがあると分かっただけでも儲けものじゃないか。
ところが、ランプを消そうとした時、ふと机の上に本が載っているのに気づいた。
分厚い本だ。
色落ちし、綻びた表紙が経てきた年月を感じさせる。
しおりを取って最初の方を開くと。ランプの光が煤だらけのページを照らしだした。
最初に視界に入ったのは、首輪を付けられた男性の挿絵だった。その隣には鞭で打たれ血を流す女性。
いやおうなく視線が釘付けになった。
―― 『天竜人による奴隷の使役について』
「“世界の創造主たる天竜人は人・魚人・その他あらゆる種族を統べる権能を持ち、その生命と尊厳を掌握する。天竜人の所有物となった者は、その忠実なる隸として生涯、心身を捧げて主に尽くさねばならない”……?」
創造主、奴隷、主。あまりにも現実味のない内容に、滑稽さすら感じる。いつの時代の本なんだろう。
「“奴隷の用途は多岐に渡り、日々の雑用はもちろん、闘技場での見世物にも用いられる―― 」
内容が気になって、再び視線を戻したものの、そこから先も延々と目を背けたくなるようなむごたらしい話が続いており、ある程度読んだところでとうとう我慢できなくなって読むのをやめた。
車やパソコンは存在しないにしても、先生の知的レベルは現代人のそれと近い。この世界に奴隷がいたのは遠い昔の話だろう。わざわざこんな本を持ち出しているところを見ると、先生の研究分野なのかもしれない。
しおりを挟み直して、本を閉じた。
今度こそランプを消そうとした時、急に外気が吹き込んできて炎が揺れた。ぬっと、壁に大きな影が映る。
戸口に立っていたのは、ドルテン先生だった。