12 隣の他人
「座りなさい」
部屋の奥に回りこんだドルテン先生は自分のイスに腰掛けて、私にも席を勧めた。怒るでもなし叱るでもなし、ただぼんやり私の後ろの壁を見つめている。
「さっきの本について、何か思ったことはあるか」
「……昔のこととは言え、とても酷い話だと思いました。奴隷も天竜人という人たちも同じ人間なのに。どうしてそんなことができたんだろう、と」
道徳の感想文のような言葉をずるずると並べた。中身のないことを言っている自覚があった。
先生は相槌を打つこともなく無表情な顔で私の話を聞いていたが、やがてぽつりと言った。
「酷い話、か。では、虐げられる者がいたならば、君は躊躇いなく手を差し伸べるのだね」
ゆったりと念を押すような口調だったが、その言葉は私の心臓の弱いところを鋭くひっかいた。
否定する勇気もなければ、肯定する自信もない。ろくに知りもしないのに、私の口は同情の言葉を垂れ流したのだ。己から遠く隔たったものについて、私はどこまでも無責任だった。
「まあいい。深く考える必要などない」
先生が片手をあげて私の思考を遮ったため、話はそれっきりになり、言いつけを破って部屋に入ったことも、勝手に本を読んだことも結局咎められなかった。
机に向かって読書を始めた先生を邪魔しないよう、そっとドアノブに手をかけた時、自分がそもそも何のためにここに来たのかを思い出した。
「そうだ、ドルテン先生、訊きたいことがあるんです」
ふぬ、と先生がこちらに向き直る。
「ナルヴァ、ってなんですか?」
その途端、先生の蛇のような瞳孔がきゅっと大きくなった。すりつぶされてしまいそうな迫力に身が竦む。
長い沈黙の後、先生は身体の中の空気を全て吐き出すような、深い息をついた。
「その言葉を口にしてはいけない」
「……え?」
「どこで知ったのかは聞かないでおく。しかし二度と使わないように」
「やっぱり、知ってるんですね。お願いします、教えてください」
「ならん」
「どうしてですか!?」
「どうしてもだ。まさかとは思うが、誰かに話したりはしておらんな?」
「……はい」
「深淵を覗く代償は大きい。失いたくなければ、むやみに手を伸ばさないことだ」
そう言った顔は、ひどく疲れていて、枯れかけた古樹のような深い老いが刻まれていた。
「今日は、もう休みなさい。明日も子どもたちに教えるんだろう」
有無を言わさぬ雰囲気にのまれ、廊下に出た。後ろ手でドアを閉めようとした時、先生がおもむろに口を開いた。
「君の故郷は平和だったか」
咄嗟に答えられなかった私を放って、彼はふたたび深い思索へと沈んでいった。
「せんせー、聞いてる!?ねえ、せんせーってば!」
「ああ、ごめんごめん。聞いてるよ」
リマナナが不安そう私の顔を覗き込んできた。普段は男の子とも一緒に遊ぶ活発な子だが、時折こうして女の子らしい繊細さを見せる。
「イチルせんせー、今日はちょっと変だよ。どこかしんどいところでもあるの?」
「ありがとう。でも、心配しないで。ちょっとぼうっとしてただけだから」
昨日はよく眠れなかった。昨夜見た本の内容、またドルテン先生の言った言葉が頭から離れない。
『君は躊躇いなく手を差し伸べるのだね』
リマナナと私の会話を聞いていたのか、他の子どもたちが集まってきた。皆そろって難しい顔をしている。
「本当に大丈夫だからね。けど、そうだな……皆に教えてほしいことがあるんだ」
「なに、先生?」
「皆は目の前で友達や家族が酷い目に遭っていたらどうする?」
「助ける!」
ファノが大きな声で答えた。他の子どもたちも「ドルテン先生に助けてもらう!」「大人を呼ぶ!」と後に続いた。
「じゃあ、ちょっといじわるな質問をするけど、私が誰かにいじめられていたら?」
子どもたちは互いに顔を見合わせた後、じきに口を揃えていった。
「仕方ないから助けてあげる!」
「率直なご意見ありがとう。将来そんなことがあったら、ぜひお願いするね。じゃあ、最後の質問だけど……知らない人が知らないところで苦しんでいたら?」
次は何を聞かれるのかと待ち構えていた子どもたちは、不意をつかれたような、ひどく困った顔をした。
「知らない人って、港に来る行商のおじさんとか?」
「ううん、もっともっと遠い場所にいて、会ったことも見たこともない人。皆とは違う姿をしていて、もしかしたら言葉も通じないかもしれない」
そんなの無理だよ、とファノが小さな声で言った。
「知らないところにいる知らない人を、助けるなんてできないよ。それに、ばあちゃんは『肌の色の違う人は危ないから近づいちゃだめ』って言ってた」
「だいたい見たこともない人なのに、なんで苦しいって分かるの?余計なお世話かもしれないじゃん」
「そうそう!どうやって助けたらいいかも分かんないし、その人が自分でなんとかするのが一番いいよ」
ファノを皮切りに、リマナナたちが口々に意見を述べた。幼い子どもは、大人が言えなくなってしまった本音を、容赦なく日の下に晒す。
最後になって、ずっと黙ったままだったミハンがようやく口を開いた。
「でも、おかあさんは、困ってそうな人がいたら黙って通りすぎちゃだめって言ってたよ。『どうしたの?』ってたずねてあげなさいって」
それが鶴の一声となって、場は静まり返った。 ミハンは自信なさげにもぞもぞした後、そうしなきゃならない理由は分かんないけど、と小さく付け足した。
腹の底にわだかまっていたものが、すっと流れていくのを感じた。
ファノもリマナナも間違ってはいない、と思う。縁遠いものを想うことはとても難しいし、もしそれを超えて「力になりたい」と思うことがあったとしても、今度は偽善性との葛藤に苛まれる。善人でありたいという自己満足のために、善意を押し売りしているのではないか、と。
そして、迷ったあげく、最後には見なかったことにする。善人にはなれなくとも、一瞬でも他人のために心を悩ませられるほどには悪人でない。そんな免罪符を振りかざして、自分が結局何もしなかったことを忘れてしまうのだ。
手を差し伸べられるか、という質問に答えられなかった情けない自分は、臆病と無関心の成れの果てだ。
家族のためなら素直に泣けるのはなぜか。親友が困っていたら迷わず肩を貸すのはなぜか。
それは「知っている」からだ。相手が何を思い、どう感じるかを分かっているから、恐れることなく心を分かち合える。
『どうしたの?』と尋ねれば、遠い人も一歩だけ近くなる。
そんな、簡単なことだったのだ。
「せんせー、結局誰の答えが正解なの?」
しびれを切らしたファノが足をばたつかせた。
「実はこの話に正解はないんだよ。せっかく真剣に考えてくれたのにごめんね」
「えー、なにそれー!反則じゃん!」
「でも代わりに参考になりそうな話を教えてあげよう。昔、『愛の反対は無関心です』と言った人がいてね。その人はこの島からずっとずっと遠いところで生きた人なんだけど―― 」
私には知らないことが多すぎる。知ろうと思ってもことも知ることができないこともある。
でも、少しずつであっても誰かの元へ歩き続けていける私でありたい。今はそう思う。
納屋を利用した簡易教室を掃除して外に出ると、暗順応した目に真昼の太陽がチカチカと刺さってきた。畑の方からは、賑やかなざわめきが聞こえてくる。
今日は作物の収穫日だ。老いも若きも全員集合して一族総出で野良作業をやる。いつもより早く授業を終えて、子どもたちを解放してやらなければならなかったのはそういう訳だった。
ドルテン先生の恩恵を受けて多少特別扱いされている風ではあるけれども、もちろん私も例外ではない。服を着替えたら手伝わないと。
作物を満載した手押し車があちらこちらでガタピシ鳴っているのを聞きながら、私は家への坂道を登った。ドルテン先生の家は村はずれの丘の上に立っており、見晴らしは最高だが、村からのアクセスには多少の難がある。
三分の一ほど歩いた頃、丘の上から坂道を走り降りてくる男が見えた。農作業姿のその人はミハンの父親だった。
「小先生!大変だ!」
ミハンの父親は私の前で膝をつき、息も絶え絶えに叫んだ。
「ドルテン先生ん、とこへっ、海兵が来てる!」
「海賊じゃなくて、海軍ですか?それなら、慌てる必要はないんじゃ―― 」
「あいつら、先生を捕まえに来たんだ!オレ聞いちまったんだ、なんでも禁書がどうとかそういう話で、本部へ連行するって!」
禁書?ドルテン先生が連行される?
気付いた時には、カバンを投げ捨てて坂道を駆け出していた。
「おい!危ないからあんたは来ちゃダメだって、先生が―― 」
慌てた声が後ろからかけられたが、耳を傾ける余裕などなかった。