「久しぶりだなァ、元気にしてたか?シュテールのとっつぁん」
「よくも私の前に姿を見せられたものだな。面の皮が厚いにも程があるぞ」
「あららら、厳しいねェ」
窓の向こうで背の高い男が飄々と笑った。
13 その扉は一方通行
庭の中央に立つ男は、背丈は同じくらいでも、ドルテン先生と比べればずいぶん華奢に見えた。しかし、それは比較対象が普通でないためであって、よく見ればその男もやはり図抜けた体躯の持ち主だった。
そんな大男たちが対峙しているものだから、二階から見下ろした前庭は押しつぶされそうな圧迫感に満ち満ちていた。ライフルを携え、男の後ろに控えた海兵の一隊が場の雰囲気をさらに張り詰めたものにしている。
肌を刺す空気に、バレないとは分かっていても思わず息を潜めてしまう。
書斎の窓は大部分が本棚で隠されていて、現在私はわずかな隙間から外を垣間見ている状態である。こちらから外を見るのは容易だが、向こう側から薄暗い室内を見通すことは困難だろう。裏口から入って咄嗟にここへ潜り込んだが、身を隠しつつ、やり取りを見ることができるという点では、絶好のポジションだった。
「もちろん、あんたに会いにきた訳じゃあない。旧交をあたためるために、はるばるこんなド田舎まで出向くと思うか。用事があるのはあんたが管理しているモンだ」
「貴様らに渡すものはひとつもない」
ドルテン先生の声には強い怒りがあった。先生はもともと気の長い方ではないのだが、これほどに怒っているところを見るのははじめてだった。
その矛先を向けられている当の相手はどこ吹く風で、突っ立ったまま頭をぽりぽりと掻いた。
「相変わらず頑固ねェ。だがな、そろそろ頭を冷やした方がいい。分かる?俺だから穏便に済んでんのよ。これ以上、お上に楯突こうもんなら次はあの熱血バカがここを文字通り火の海に変えちまうぞ」
男が能面のような顔でつづけた。
「反逆者の行く末は、あんたが誰よりも知っているはずだ」
「青キジ!お前がそれを言うのか」
青キジと呼ばれた男はそれ以上答えることなく、黙って先生を見返した。拳を震わせていたドルテン先生だったが、やがて絞りだすように言った。
「いいだろう、言うとおりにしよう。ただし、いくつか条件がある。従う以上は決して誰にも手を出さないこと。『日誌』を取りに一旦家に戻るが、その際は誰もついてこないこと。青キジ、お前もだ」
「分かった」
「いけません、大将!そのまま逃げるつもりに決まって―― 」
若い海兵が先生の背中に銃口を向ける。その頭を、青キジが鷲掴みにした。
「ちょっと凍っとくか?」
冗談めかした口調とは裏腹に、声はそれこそ氷のように凍てついていた。青ざめた海兵は、銃を取り落とし、頭をゆっくりと左右に振った。
「何も知らねェ餓鬼が、ナマいってんじゃないよ。シュテール博士、うちのモンがすまなかったな。あんたが『日誌』を持ってくるまで、俺はここで待つことにする」
そう言って、青キジは足を組んで庭石に座り込んだ。
ひきずるような重い足音が階段を上がってきたかと思うと、じきに書斎のドアが開き、青白い顔が覗いた。
「先生!」
「上から覗いていたろう。君をここに来させないよう、ミハルノに言付けておいたはずだったんだがな」
「すみません、勝手なことをして」
「まあいい。クザン以外の海兵どもは気付いていないだろうから」
「クザン、というのはさっきの背の高い男の人ですか?」
「腐れ縁だ。味方でもないが敵でもない。今となってはな。読めん男だよ」
それから、ふぬ、とひとつ息をついた。
「君に言っておかなければならないことがある。ついてきてほしい」
再び階下へと向かいはじめた先生を慌てて追いかける。大きな背中が立ち止まったのは階段脇にある用具入れの前だった。
「ここだ」
先生は中の箒を取り出し、長い柄で床の一点を突いた。ガタンという音とともに、床板が外れ、地下への階段が現れた。
「地下室?」
「古典的だが、案外気づかれにくい。本当に大切なものは人目につかないところに置いておかなければ」
先生は用具入れからランプを取り出し、明かりを灯すと狭い階段を降りていった。岩を掘り砕いて作られたらしい通路には、どこからかひやりとした空気が流れこんできている。かすかに揺れるランプの火だけを頼りに暗闇を進んでいくと、すぐに岩造りの扉が現れた。
「少し下がっていなさい」
石の擦れ合う低い音がして、ゆっくりと扉が開かれた。
その途端、カビ臭い古紙の匂いが鼻をついた。ランプの光に照らされて、暗闇の中から浮かび上がってきたのは、四面を覆う本棚とそこに詰め込まれた大量の古書だった。
「この部屋こそが私の本当の書斎でね。禁書と呼ばれる本は皆ここへ保管してある。誰かが間違って手に取ってしまわないように」
先生は一番上の棚から、他のものよりかは一回り小さく軽そうな本を取り出し、私の手に持たせた。
「それは我々が『日誌』と呼ぶものだ。海兵どもが探しているものであり、また君が探しているものでもある」
先生のグローブのような手が表紙を撫でる。言われてみれば確かに、本というよりは日記のようだった。インクにじみと紙の傷みがひどく、タイトルを読み取ることはできなかった。
「ここに私の知りたいことが書いてあるんですね」
私の言葉には答えずに、先生は重々しく言葉を紡いだ。
「ひとつの道は、何も見なかったことにして再び元の暮らしに戻ること。“ここ”の人間として生きて、死ぬ。私はこれからも君の保護者であり続け、君はささやかではあるが、人並みの幸せを手にいれる」
瞬きすら忘れた私に耐えかねたらしく、先生はふぬ、と息を継いだ。
「ただし、君が望むならば、もうひとつ別の道がある。ひと度歩き出せば立ち止まることも戻ることも許されない一本道だ。君は常に傷つき、苛まれ、それでも歩み続けなければならない定めを負う。君は選択しなければならない。すべてを忘れてここで平穏に生きるか、『日誌』とともに逃亡者になるか」
しばらくの間、何を言われているのか理解できなかったが、何度も口の中で転がしているうちに、ようやく飲み込めた。
帰るのを諦めるか、幸せを諦めるか。
今、迫られている選択はそういうものだ。
「君を知る者の一人として、私は君自身の幸福のため、前者を選んでくれるよう願っている」
ドルテン先生の瞳には痛切な色が浮かんでいた。喉に言葉がつっかえて、息ができなくなってしまいそうだった。
だって、答えなんて訊かれる前から決まっている。
『日誌』を胸に抱き、首を横に振った。
「ごめんなさい」
「君は今後、罪なく追われる身になる。それを聞いても、やはり、気は変わらないかね?」
「……はい」
ここでずっと過ごすのも悪くない、そう思ったこともあった。向こうにはもう、私の帰りを待っていてくれる人はいないから。
でも、それはそう考えることで、帰れない自分を慰めていただけだ。どうひっくり返ったとしても、私の故郷はあの小さな港街だけなのだ。
それに、と心の中で自分に語りかける。
私は知りたい。自分のことも、他人のことも、世界のことも、何もかも。
知ることを諦めてしまえば、私はいつまで経っても何も出来ない、情けない人間のままで終わってしまう。あちらの世界だけじゃなく、こちらの世界でも、知っていればできたはずのことを、知らずに通りすぎてしまいたくなかった。生徒だったはずの子どもが私に教えてくれたこと。
「ここでの生活はとても幸せで恵まれたものでした。本当に感謝しています。でも今は、歩き続ければならないことより、立ち止まってしまうことの方が怖いんです……一度止まってしまえば、もう歩けなくなってしまう気がして」
先生が長く深い息を吐いた。
「分かった、では最後にひとつだけ」
そう言って、先生は何故かマフラーに手をかけた。きつく巻かれた布がするすると解かれていく。マフラーの下から現れたものを見て、私は目を疑った。
「驚いたかね」
ドルテン先生の首元には、びっしりとウロコが生えていた。それこそマフラーを巻いているかのように、彼の首回りは黒く光沢のあるウロコによってぐるりと覆われていた。
「本物ですか?」
「もちろんだとも。私には少しだけ魚人の血が流れていてね」
「魚人?人魚ではなくて?」
「何を言っているんだ。同じものだろう」
「海の中にいなくて大丈夫なんですか」
「魚人は魚ではない。まあ、私は特に乾燥に強い方だが」
先生が「ふぬぬ」という声を出した。はじめて見る表情なので確かなことは言えないが、どうやら笑っているらしかった。
「君は何も知らない。まるで赤子のようだな」
「すみません」
「無知は罪だ。だが、だからこそ歩ける道もある」
先生の指が自らの喉元を差す。その指の先、ちょうどエラを引き裂くような形で、引き攣れた大きな傷があった。
「私、シュテール・アルベルトはかつて平等な世界を夢見た。だが、その代償に、妻と娘、そして海に生きる力を喪った。それ以来、怒りと怨みと恐怖が足にまとわりつき、私は先に進むことができなくなった。―― すべてを知って、諦めてしまったのだ」
静かな声でそう言った後、先生は私の手の『日誌』に視線を移した。
「本来なら、渡すべきでないのだろう。楽な方を選べ、と先ほど君に言った言葉は確かに私の本心だ。しかし、世界を知る者としては別の思いがある。私は君に賭けてみたい。歩きつづけた先にいったい何があるのか」
先生の目には強い光が宿っていた。
やっぱり隠居老人なんかじゃなかったじゃないか。
私は『日誌』を握りしめて、小さく頷いた。
先生は、ふぬ、と言った。
それ以上、言葉は必要なかった。
「この部屋には村の南外れへと続く地下道の入り口がある。上で待っている奴らなどどうとでも誤魔化せるから、私の心配はしなくていい」
ガコン、外へと続く扉が開いた。先の見えない暗闇が口を開けて新たな旅人を待ち受けていた。
「先生、本当にありがとうございました」
渡されたカバンに『日誌』を放り込み、前を向いた。
「さあ、行きなさい。”荒野を行く者よ、乾きを恐るることなかれ”。希望を持ちつづけるかぎり、コーヴランは必ずや君の針路を照らし出すだろう」
先生の声がだんだんと遠くなる。
じきに光と音は消え失せて、ひやりとした闇が四方から私を包み込んだ。