固く味気のない携帯食料を黙々と噛みくだく。水で飲み下すと、砂を舐めたような後味が口の中に広がった。この食事もいい加減に飽きてきた。
 ハンバーガーが食べたい。オムライスが食べたい。寝起きにも関わらず、私のお腹はさっきからぐうぐう鳴りっぱなしだった。

 風の向きが変わったのか、薄く開けた窓の隙間でカーテンがなびいた。時を同じくして、室内に吹き込んできた甘い匂いに胃の腑をくすぐられる。この匂いはクリームパンに違いない。

 バレないように、そっと外を覗くと二人連れの女の子が公園のベンチで朝食を取っていた。その手には柔らかそうな白いパン。きっと近くの商店街で買ったのだろう。
 腹の虫を宥めるように、私はカーテンを端まで引いた。



chapter3 “DEAD OR ALIVE OR ESCAPED”

14 “市場の島”



 ここ”市場の島”はアンタナ・リボナと同じ諸島連合に属す夏島であり、名の通り近海の物資が集積される一大市場である。

 船を乗り継ぐこと三回、四日ほどの時間をかけてたどり着いた。乗り継ぐといっても、貨物船に乗ってアンタナ・リボナと同じような田舎の島を二つ経由しただけだし、ほとんどの時間をドルテン先生がとってくれた一人部屋で過ごしたから、大した冒険はしていない。大人版「はじめてのおつかい」といったところだろうか。

「本当におつかいだったら良かったのに」

 窓の隙間から入り込む、光のカーテンを眺めながらつぶやいた。ここに来てから、独り言が多くなったと思う。

 海軍に追われ、先生の家から地下通路を通って逃げた私は、そのまま南の港へと走った。あんなに必死に走ったのは生まれてはじめてだった。港に着いた後は、カバンの中のメモに書かれていた特徴の船を探し、後先考えず飛び乗った。
 その後に船上で、行き先が”市場の島”だと聞いて、はじめ私はひどくがっかりした。なぜなら、

『ポーンショップ島で買った』

 あの雑貨屋の女店主は確かにそう言ったからだ。私はポーンショップ島に手がかりを探しにいかなければならないのだ、“市場の島”などに用はない、とやるせなさを隠しきれなかったのだが、さらに訊ねていくと意外な事実が判明した。

 ―― ポーンショップ島?ああ、“裏島うらじま”のことか。それならどうせ“市場の島”に行かなきゃなんねえよ、お嬢さん。ポーンショップ行きの船はあの島からしか出てねえんだ……それにしても、あんたが“裏島”ねえ。

 ヒゲを生やした貨物船の水夫は、珍しいものでも見たかのようにそう言った。

 今から考えれば、諸島連合の経済中枢たる“市場の島”がターミナルのように周辺の小島への航路をもっているのも、そもそも先生が私の逃亡先として情報が集まり身を隠しやすいここを選んだのも、当然のことだったのだが、この時ばかりは何か不思議な巡り合わせで導かれているように思った。

 しかし、喜んだのも束の間、自分が逃亡者である状況には変わりはないということを思い出し、私は再び重い気持ちに襲われたのだった。

 船旅の間、乗り継ぎの間はもちろん、島にたどり着いてこの宿屋に滑り込んでからも数日間は追手が気になってろくに眠れなかった。
 捕まったらどうなるか、などということを想像した訳ではなく、ただ“追われる”ということ自体が日本でぬくぬくと暮らしてきた私にとっては大きな重荷だったのである。

 その結果、この島に来てからもうかれこれ一週間近く経つのに、まだ一歩も外に出られていない。ドルテン先生が用意してくれていた保存食で食いつなぎながら籠城を決め込んでいる。やることといったら、一日中ひたすら窓の近くに張り付いて聞き耳を立てることぐらいだ。おかげで、住民の生活や島の雰囲気についてはそれなりに詳しくなった。

 だが、もうすぐ食糧も尽きる。あらゆる点でそろそろ限界だった。
 知るかぎり、宿屋の前の道を海兵が通ったことは一度もない。船足の遅い貨物船で四日の距離だから、軍艦ならもっと早くに着いているだろう。彼らがその気なら素人の居場所なんてとっくの昔に突き止めて、さっさと捕まえてしまっているに違いない。
 これだけ時間が過ぎても何も起こらないということは、ドルテン先生が言うほどには、海軍は本気でないのかもしれない。そもそも『日誌』を持ち逃げした犯人が私だということを知らない可能性すらある。

 捜査網は意外に狭まっていないのかもしれない。
 刑事ドラマの見過ぎかもしれないが、とりあえずはそういうことにしておこう。

 よし、と気合を入れて立ち上がり、私はドルテン先生がくれた大きなボストンバッグ(こちらにはボストンがないのだから、そう呼ぶのはおかしいが)の底を漁った。

「確か、入れてくれてたはず」

 リュックに入っているのは、船のチケットと乗り継ぎの方法が書かれたメモ、お金、衣類、数日分の食料、水、近海の地図、筆記用具、傘、向こうから持ってきた私の手荷物、その他細々したもの、などなど。すべて先生が用意してくれたものである。

 少し恥ずかしい話になるのだが、”衣類”にはもちろんパンツも含まれていた。見られて恥ずかしい思いよりも、申し訳ない気持ちでいっぱいである。緊急事態とはいえ、生真面目な先生は「若い娘の衣類を勝手に触っていいものか」「いや、しかしなければ向こうで困るに違いない」という葛藤に苛まれながら、リュックにパンツを詰め込んだに違いない。もちろん、ピンクのレースや白いフリルなどとは無縁な、雑巾のような地味パンツではあるけれども。

 ―― この辺でやめておこう、私のパンツ話ほど無駄なものもない。

 余計な思考を振りはらって、カバンの底からつば付きの帽子を取り出した。深くかぶってしまえば、覗きこまれないかぎり顔は見えないはずだ。

「お金、どうしようかな」

 先生が用意してくれたお金は、全部合わせるとかなりの金額になる。たとえ治安の悪い島でなかったとしても、すべてはこのお金頼みなので十分に用心しておきたい。宿屋に置いていって万一のことがあったら大変だし、かと言って気軽に持ち歩いて落としたり盗まれたりするのも困る。
 迷った末、袋ごと服の下に入れてお腹周りに縛り付けておくことにした。今のところ、これ以上の対策は思いつかない。これだけやってなくしたとしたら、私の平和ボケはもはや致命的な域に達している。

 ドアノブの手をかけてからもうひとつ大切なものを思い出した私は、慌てて部屋に戻った。
 机の上に広げてあった『日誌』をビニール袋に包んで同じく服の下に入れて、私はようやくはじめての外出に出発したのである。

◇◇◇

 道路のあちらこちらから賑やかな話し声が聞こえてくる。
 アンタナ・リボナとはまた一風違う、都会の雰囲気だ。人々は皆、小奇麗な格好で楽しそうに出歩いていた。

 宿屋を出て少しいくと、すぐに大きな商店街が見えてきた。ずらりと店が立ち並ぶ賑わいは、アンタナ・リボナの市場などまるで比べものにならない。
 お腹が空いていたので、香ばしい匂いを漂わせている路端のパン屋でメロンパンのようなものをひとつ買った。

 ついでとばかりに、パン屋にここのことを訊ねてみた。若いパン屋曰く、ここは”市場の島”の商店街にしては寂しい方らしく、中央の方に行けばまだまだ大きな商店街があるとのこと。伊達に“市場の島”とは呼ばれていないようだ。

 焼きたてパンをかじりつつ、例の箱を探して商店街を練り歩いた。もちろん、半分近くは好奇心と物珍しさによる行動である。これだけ店があれば、模造品の箱などいくらでも置いてそうなものだが、見たかぎりではどこにも見当たらなかった。

 やはりポーンショップ島に行く以外に選択肢はなさそうだ。

 節約を心掛けながら生活に必要なものを買って、とりあえず宿屋に戻ることにした。戻って荷物を置いて、それからポーンショップ島に行くための算段を立てよう。

 ところが、歩き続けて、ようやく商店街の端が見えてきた頃のことだった。

 路地から叫び声が聞こえ、人ゴミの中に男が一人転がり出てきた。ボロボロの服を来た中年男性である。服の匂いもひどいが、アルコールの匂いもひどい。
 その酔っぱらいを追うようにチンピラ風の男たちが現れた。

「おい、おっさん。テメェ、人にぶつかっといて詫びもねェのかよ」
「“裏島”へ売り飛ばされてェのかよ、アアン?」

 世界は変われど、この輩の吐く台詞にはオリジナリティも、バリエーションもないらしい。ただし、体格が違うせいか、声だけは向こうの何倍も迫力がある。

 近くにいた通行人たちは、とばっちりを食うのはゴメンだとばかりに揃って姿を消した。店主たちも手慣れた様子でブラインドやすだれのようなものを下ろして視界を遮ったので、商店街はあっという間に静まりかえってしまった。

 揉め事の中心人物たちを除けば、道の中央には、私が一人だけ突っ立っている格好になった。
 周囲の様子を気にも留めず、チンピラが酔っぱらいを蹴り飛ばした。

「なんとか言えよ、オラ!」

 酔っぱらいは咳き込み、背を丸めてされるがままになっている。二人目、三人目と、チンピラたちは半ば楽しみながら酔っぱらいに制裁という名の暴力をふるっていった。

 正直、その時どうしてそうしようと思ったのか、自分でも良くわからない。

 最後の男が足を上げた時、私は咄嗟にその前に出た。出てしまった。
 お腹に鈍い衝撃がきて、後ろに倒れこむ。

「アア、なんだァ!?」

 男たちの声を聞きながら、やっぱり止めとけば良かった、と後悔した。後悔先に立たず、身の程知らずの馬鹿野郎だ。
 だが彼らの次の獲物が私に代わるよりも早く、ひゅっ、と非常に素早い何かが横をすり抜けた。


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