ボンちゃんとのレッスン、もとい楽しいおしゃべり会を終え、宿屋に戻った時にはもう八時だった。
明日は午前中に最後のレッスンを受けて、午後はポーンショップ島へ行くための食料などを買いに行く予定だ。ポーンショップ島への船が出るのは日付上は明後日だが、時間帯としては明日の真夜中に出港するので、事実上、明日がこの島で暮らす最後の一日ということになる。
夕食と早めのシャワーを済ませた私は、書き物机の前に座って羊皮紙とペンとを取り出した。インクつぼにペン先を浸して、文字を綴っていく。
このペンと紙の組み合わせできちんと文字を書けるようになるまで、どれだけの時間と紙とインクを無駄にしたことだろう。はじめはインクを垂らしてしまったり、かすれさせたりとまともに線を引くことすらできなかった。現代日本人の中で、私以上にボールペンとシャーペンの便利さについて熱くプレゼンできる者もそういないと思う。
16 スワン・ハート(Ⅱ)
もはや日課となってしまった短い手紙は、十分と経たずに完成した。
友達との会話、今日食べたもの、悩んだこと、など思いつく内容をすべて書いているので、便箋はすぐにいっぱいになってしまう。
届く宛のないものを何故書きつづけるのかと問われれば、その答えは気持ちの整理であり、自己満足であり、思い出への依存である。
ところで、こちらへ来た際にほとんどの物は海水によって損なわれてしまったのだが、ひとつだけ無事だった物がある。
それは意外なことに、白い封筒に入った、あの手紙だった。汚れてはいけないと思って手帳に挟んでおいたのが、何の加減か、上手く水難を免れていたのである。大切な人から送られた大切な手紙は、この世界に来てからも、私を励まし、勇気づけてくれた。
カバンから当の手紙を取り出し自分が今書いたものと並べてみると、歳月を経た羊皮紙は真新しい紙に比べるとますます茶色がかって見えて、思い出の古さを感じさせた。
癖のある“S”の字を指でなぞる。長いやり取りの中で、彼のアルファベットの綴り方はすべて頭に入っていた。
もう一度、手紙を送れたらどんなにいいだろう。
彼が私にしてくれたように、今度は私が冒険の話をするのだ。彼にはとても及ばない、ささやかな体験だけれども、それでもシャンクスはきっと大喜びで聞いてくれるに違いない。
不思議な生き物がいた、海軍に追いかけられた―― そこまで考えて、私は虚しさに襲われた。
いくら願ったとしても、決して叶わない願いなのだ。あの宝石箱がなければ、彼に手紙を送ることも、返事を受け取ることもできない。
この世界にシャンクスがいるかもしれないという考えは常に頭の中にあった。不思議な手紙と不思議な世界、それを結びつけて考えない者がいるだろうか。
しかし仮にそうだったとしても、彼が私を呼んだのでないかぎり、広い世界の中で運良く行き会う可能性など万に一つもなく、また一生懸命探したところで、その努力が実を結ぶこともない。ファミリーネームも顔も声も姿も知らない相手をどうやって見つけ出せるというのだろう!
加えて、最後の手紙で彼が伝えてきた内容が大きな気がかりとなっていた。
『決して名前を口にするな』とシャンクスは言った。できれば忘れろと、とも。誰かに聞き咎められれば、お互いにとって不都合があるのかもしれない。そう思うと迂闊に聞いて回ることもできなかった。
疑惑、不安、動揺。
この問題を考える時、私の心には必ず複雑な感情が渦巻き、頭の中はぐちゃぐちゃになった。誰が、何が、私をここに連れて来たのか。だとしたら何の目的で?この世界にシャンクスはいるのか?いないのか?そもそも“シャンクス”は実在するのか?
半年経ってなお、いまだひとつの答えも得られていない。
いずれにせよ、それらの謎を解き明かすことと、帰り道を見つけることは同じ道の上にあるに違いない。
だから、一刻も早く探し出さなくてはならないのだ。すべての鍵がしまいこまれた、あの不思議な宝石箱を。
ポーンショップ行きの船が出るまで、あと一日。
「アン、ドゥ、コラァ!アン、ドゥ、コラァ!」
ボンちゃんの声に合わせてゆっくりと前屈すると、柔軟性のないふくらはぎがピリピリ痛んだ。
「頑張って!あともう少しよう!素敵なオカマはみんな身体が柔らかーい!」
「オカマじゃっ、ないっ、です」
「あやふや!イコール!オカマ!あやふやなあんたは、つまりはオカマということよねい」
バレリーナのようにぐるぐると回りながら、ボンちゃんは哲学的、あるいは数学的なことを言った。AがBであるからと言って、BがAであるとは限らない、というアレである。
「これで最後よーう!アン、ドゥ、コラァ!はい、おしまい!ボンちゃんのレッスンはこれをもって全てしゅーりょーう!」
そう言って、スポーツドリンクを渡してくれるボンちゃん。常識の勉強をしていたはずが、いつの間にか生活指導にまで及んでしまったが故のレッスンである。
二人並んで公園のベンチに腰掛け、温くなったドリンクボトルを傾けた。この生活も明日で終わりだと思うと、とても寂しい気持ちになる。
「まあ、及第点ってとこねい。素人にしちゃァ、頑張ったじゃなーい。これであちしも枕を高くして寝られるってモンよ!ガハハハ!枕、使ってないけどねい!」
「本当にありがと、ボンちゃん。何も知らずに行ったら、きっとボンちゃんの言った通りネギをしょったカモになってたと思うよ」
「あちしは当然のことをしたまでよう」
いつも元気なボンちゃんだが、今日はいつも以上にテンションが高かった。ボンちゃんも私との別れを惜しんでくれているのだろうか。
ひとしきり話をした後、軽めの昼食を取って、午後からは二人で買い物に出かけた。
食料品を中心に、衣類、地図などを見て回る。ポーンショップ島にも店はあるのだが、よそ者と見るとぼったくられるらしいので、この島で一週間分ほどを買い溜めしていくことにした。
あっちに行ったり、こっちに行ったりして、すべて買い終わった時には、太陽はすでに西へと傾いていた。
「―― 地図よし。食べ物よし。最後に『日誌』よし」
持ち物の最終確認を終え、私はリュックサックの口をしっかりと縛った。大量の食料と日用品を満載し、ずっしりと重たいそれとは裏腹に、私の心は浮き上がりそうなほどに軽かった。
夜が更ければ、いよいよポーンショップ行きの船が出る。
雲を掴むようだった手がかり探しが、ようやく形を帯びてきた。歯がゆさに別れを告げて、私は今夜、出港する。
宿屋の主人に二週間分の代金を支払って表に出ると、看板の前にボンちゃんが立っていた。
「ボンちゃん!どうしてここに?」
「あちしのレッスンは、あんたがこの島を出ていくまでよう。せーっかく教えてあげたのに、ドジって船に乗り損ねたりしたら台無しじゃなァい」
「えへへ、ありがとう、ボンちゃん先生」
「いいってことよう!それに、イチル、あんたに訊かないといけないことがあったしねい。華麗なるオカマ・レディとしては絶対に外せないハ・ナ・シ」
「どんなこと?」
「あんた、コレは?」
コレコレと繰り返しながら小指を立てるボンちゃん。レディというには、微笑みが邪悪である。
突然の問いに思わず顔が引きつった。
「いない、いない。いたら苦労してないって」
「そんな嘘くさい顔で、コイバナの女王・ボンちゃんを誤魔化せるとでも思って!」
しつこい追求を逃れきることができず、私は結局、例の手紙に関する話を洗いざらい吐かされた。もちろん相手の名前は伏せておいた。
「そんなラヴ・ロマンスを隠していただなんて、親友に対してちょおっと冷たくなーい?」
「いや、だから何度も言ってるけど、ラブでもロマンスでもないんだって。強いて言うならアドベンチャーかな」
これは本心だった。私がシャンクスに好意を抱いているのは事実だとしても、それはいわゆる“恋愛”とは違う気がする。“親友”とか“悪友”とか、もっと言えば“家族”という表現がピッタリ来るような関係なのだ。
もちろん彼の方がそこまでの親近感を抱いてくれているかは分からないので、あくまで私個人の感覚だが。
「なんでい、つまんないの」
「ボンちゃんはいないの?」
「あちし?あちしにはボスがいるから、それで十分なのよう。オカマは一途、一途はオカマ!」
ボスというのは、前に言っていたセクシー・ガイのことだろうか。ボンちゃんがそこまで言う相手なら、いつか会ってみたい気もする。
商店街を通って、私はボンちゃんと一緒に港の方向へ歩いていった。
ここは島の中でも港に一番近い場所だから、じきに辿り着くだろう。ボンちゃん曰く、他の乗客より先に自分の船室に入っておくのが良いらしい。なにしろ”裏島”行きの船である。女の一人旅を悟られて得することはひとつもない、ということだった。
ところが、もう少しで商店街を抜けるという時になって、周囲がにわかにざわつき始めた。そこかしこで、こそこそと耳打ちし合う声が聞こえる。
明らかに様子がおかしいので、そのうちの一人を捕まえて訊いてみた。
「何かあったんですか」
「海軍さ!この島に高額手配中の賊が入り込んだってんで、捕り物をはじめるらしい」
「高額手配中の賊……?」
「何でも機密情報を持ち逃げした凶悪犯だとか。ただ、うまいこと盗まれたせいで、顔が良く分からないんだってよ」
ざっと血の気が引いた。間違いない、私のことだ。
平常を装いながら、隣のボンちゃんに話しかけた。
「ボンちゃん、きな臭くなってきたし、裏道を通っていきたいんだけどいいかな?」
「奇遇ねい。あちしもそう言おうと思ってたところよ」
会話が終わるとすぐ、私とボンちゃんは示し合わせたようなタイミングで夜道を駆け出した。