20 “DEAD OR ALIVE OR ESCAPED”(Ⅰ)
バギーの船で働きはじめて三日経った。
慣れとはありがたいもので、同じ量をこなしていても、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日の方が心に余裕を持てるようになる。
夕方頃になって自分のノルマを無事終わらせた私は、完成した原稿を集めて船長室を訪れた。
「ドタドタうるせェ足音だと思ったら、案の定テメエかよ」
「すみません」
片隅にかけられたハンモックの上からお目当ての人物が顔を出した。
「ったく、昼寝の邪魔してくれてありがとよ。できたのか?」
封筒ごとを渡そうとすると、バギーはハンモックに寝そべったまま面倒くさそうに手を振った。
「もうそのまま刷っちまえ。今日はやる気がでねェ。あー、いつまでこんなクソ陰気な島にいなきゃなんねェんだか」
「じゃあそれで出してもらうよう、カバジさんに伝えておきますね」
「おう」
退出しようとドアノブを掴んだ時、後ろから声をかけられた。
「出て行く前にそれ結び直しとけ。さっきからブラブラブラブラと気になって仕方ねェ」
それ、とバギーが指差したのは、ハンモックの真下に垂れ下がったロープだった。ハンモックを固定した時に余った部分だろうが、解けかかっているらしく、船の動きに合わせて右へ左へと揺れていた。
「バギーさんの方が圧倒的に近いじゃないですか」
「ここからじゃ手が届かねェんだよ。だいたい、こういう雑用こそ子分の仕事だろうが」
「手下にはなってませんが……!」
「おれの機嫌を損ねたら困るヤツはどいつだァ?ん?」
そう言われてはグウの音も出ない。
船長室の奥へと戻り、手すりにロープを結び直す。きゅきゅっと固定して、今度こそ外に出ようした。が、また呼び止められた。
「テメエ、ふざけてんのか?なんだァ、この結び方は」
「普通の蝶々結びですけど……」
「蝶々結びィ!?」
バギーは信じられないものでも見たかのように目をかっ開いた。
「ダ、ダメでしたか?」
「ダメもへったくれもねェよ!船のロープを蝶々結びにする奴があるかァ!このボケナス!」
「すんません」
「縄一本まともに結べねェなんざ、一体何を習ってきたんだっつーの。これだから最近の若造はよォ」
あーもー、と言いながらバギーの手がひょいひょいとロープを結び直していく。粗暴なイメージからは想像もつかない、丁寧な手つきだった。
数秒で、私が結んだものよりも何倍も丈夫そうで、何倍も綺麗な結び目が作られた。
「すごい」
素直に感心してしまう。伊達に海賊を名乗っている訳ではないらしい。
「でも、できるなら自分でやってくださいよ」
「だーかーらー、手が届かねェって言ってんだろ。何度も言わせるんじゃねェ」
「あれ、でも今さっき届いて……」
「知らねェな」
“力”を使うのは疲れるんだよ、とバギーはブツブツ文句を垂れた。
「ああ、思い出しちまうなァ。見習いの頃も散々やらされたモンよ。見張りの当番を忘れたら、罰として朝から晩まで船中のロープを締め直させられンだ」
「ほほう」
「で、俺がそうやって副船長にハデにしごかれてる横で、あいつはこれ見よがしに飯を食うわけだ!あのクソ野郎!!」
話しているうちにヒートアップしてきたらしく、バギーはギリギリと拳を握った。
「あー、何度思い出してもムカッ腹が立つぜ!あの胸クソ悪ィ赤毛の―― ちょっと待った」
突然、彼は言葉を切った。眉間に皺を寄せて、何かを考えている。
「その原稿、寄越せ」
私の手からひったくるように封筒を奪い、原稿を何枚か取り出した彼は、しばらくそれを凝視した後、かすれた声で言った。
「まさかなァ」
ぼうっと遠いところを見ていたバギーだったが、じきに我に返って、原稿を返してきた。
「何か問題でもありましたか?」
「字がな……いや、そのまま持ってけ」
字、と思いも寄らぬことを言われて首をかしげた。
確かにこちらの英語は私が知るものとは少し異なっている。だが、生活に支障をきたすほどの違いではないし、そのわずかな違いですらもドルテン先生の家にいる間に粗方修正した。特に奇妙なところははないはずなのだが。
話を振ってきた当の本人はこれ以上つづける気はないらしく、目を閉じて再びハンモックに寝そべった。
今の話もそうだが、彼には何かと不思議な部分が多い。
バギー、この名前もはじめて聞いた時からひっかかっているのだ。
しかし謎が多ければ多いほど、得られる情報にも価値がある。ぬめるドジョウのごとく掴んだと思えば逃げられてきた手がかりだが、今度ばかりはすぐ側まで近づいている。そんな気がする。
バギーと約束した労働の期限はあと一日。
明日は午前中に最後の仕事を終わらせて、昼から買い物に行こう。いつでもこの島から去れるよう、そろそろ準備をしておかなくては。
昼下がりだというのに、通りには人っ子一人いなかった。
私を追いかけてくるのは、ぽちゃぽちゃと滴り落ちる雨の音だけだった。
西ブロックと東ブロックの間には、目に見えない境界があって、そこには誰も店を出さない。カバジがそう教えてくれた。
聡い者ほど、己の属する世界から外れることを忌避する。異なる世界の相容れなさをよく分かっているからだ。
世界が交じり合うことを望む者はない。太陽に生きる者は太陽の下へ、暗闇に生きる者は暗闇の中へ。そうでなければ呼吸すらままならなくなってしまう。
その結果が、この人の気配のない通り道だ。
では、その境界上に迷い込んでしまった者はどうなるのだろう。
いつかはあるべき場所に還るのか?それとも、どこにも辿りつけずに延々と世界の縁を歩きつづけるのか?
降りつづける雨が足元を濡らす。
時間が経てば、水たまりもいつかは大きな水場になっていく。逃げ場のない迷子は、歩きつづけるうちにその海で溺れてしまうのかもしれない。
「景気の悪い面してんなぁ」
誰もいないはずの路地から若い男の声がした。
横を見ると、建物の出っ張りを庇にして商人がひとり店を開いていた。
「姉さん、どうも久しぶりで」
壁にもたれ、地面にあぐらをかいた男は、アンタナ・リボナで会った、あの煙草屋だった。
「煙草屋さん。どうしてここに?」
「ひとつところに留まっていちゃあ、商売なんてモンはできねえのよ。それにそいつはこっちの台詞だぜ。姉さんみてえなお人がこんなところで何やってんのかね」
「とても大切な探しものがあって」
煙草屋の切れ長の目が細くなる。
「探しものねえ。それで、見つかったのかい」
「いいえ。でももう少しで手がかりが手に入りそうなんです」
答えると、煙草屋はがらりと雰囲気を変えて両手を打った。
「おうおう!めでたいこった。じゃあ、めでたいついでに、おひとつお買い物などは?この前の靴も気に入ってくれてるようだし」
ちらりと私の足元に視線を落とした後、彼は店先に雑貨を並べはじめた。
「見ての通り相変わらず閑古鳥なもんで、最近は雑貨屋が本職になっちまった。さあさ、石鹸、靴下、果ては船の錨までなんでもあるぜ」
値段は手頃だし、商品自体もごく普通のものばかりだったので、勧められるままにインクと歯ブラシを買うことにした。
「ついでにそこの缶詰もお願いします」
「まいどあり。さすが姉さん、話が分かるねえ。素敵なお客様には、素敵なおまけを差し上げなくっちゃあな」
煙草屋は懐から何か小さな物を取り出して、ぽんと私の手の上に載せた。
ガラスの球体だ。中が空洞になっていて、方位磁針のようなものが入っている。
「なんですか?コンパス?」
「そんなもんだ。あんたにとって唯一の“退路”となり得る。お好きにお使いなさいな。ああ、それと、もうひとつサービスをしておいてあげましょうかね」
今度は反対の手に別のものを握らせてきた。今度は四つ折りにされた薄汚い紙である。
何気なく中身を見て、息が吸えなくなった。頭が真っ白になり、手足が震える。
なんだ、これは。
煙草屋が耳元で悪魔のように囁いた。
「海軍がおでましだぜ」
“DEAD OR ALIVE”
手配書の表から青白い顔でこちらを見返す女は、間違いなく私自身だった。