丸い小窓の向こうでは、白い制服が慌ただしく行き交っていた。
 時折こちらを覗き込んでくる者もいるが、私と目が合った途端、揃ってそそくさと立ち去ってしまう。
 はじめは恐怖と不安でガチガチになっていた身体も、時間が経つうちにほぐれてきた。

 連行された先は、牢獄ではなく軍艦の一室だった。机がひとつあって、それを挟んで向かい合うようにイスが二脚置かれているという、刑事ドラマで見るような取り調べ室そのものだ。

 ずぶ濡れだった身体と服は、青キジが“乾かして”くれた。水分を霜に変えて、体表から払い落としたのだ。冷凍庫の中が乾燥するのと同じ原理である。それを行った“力”は“悪魔の実”によるものだと青キジは説明した。

 そして身辺検査もせず、手錠もかけず、私をただこの部屋に放り込んで、どこかに行ってしまった。

 音と視界が遮断された白い部屋の中でじっとしていると、全てが曖昧になってくる。リアリティを伴った感触が失われ、確かだった現実が遠のいていく。

 悪魔の実?
 海賊?
 そんなもの、ありえない。きっと長い夢を見ているんだ。

 この世界に来たばかりの頃、何度も反芻した思いが今になって蘇ってきた。自分ひとりだけが世界から浮き上がってしまったような疎外感と孤独感。目眩がした。

 これなら尋問されていた方がよほど良かった。もしこうなるのを狙って私をここに放って行ったのなら、青キジという男はとんでもないサディストだ。



chapter3 “DEAD OR ALIVE OR ESCAPED”

22 “DEAD OR ALIVE OR ESCAPED”(Ⅲ)



 カタン、とドアの開く音で意識が浮上した。

「捕縛された罪人が呑気に居眠りたァ、見かけによらず図太いじゃないの。野放しにしときゃ、案外ほどほどの“悪”になったかもしれねェな」

 目の前のイスに、いつの間にか呆れ顔の青キジが座っていた。
 考え事をするうちに眠ってしまったらしい。平和ボケもここまで来ればただの愚か者だ。

「いや、そういうのでは……ちょっと疲れてて」
「本気にするなよ、お嬢さん。アンタが何もできない一般人だってことくらい見りゃァ分かる」
「それならどうして捕まえたんですか」
「俺はしがない海軍大将でね、お上の語る正義に異を唱える立場にないのよ」

 青キジは小さなイスの上で窮屈そうに足を組み替えた。

「どんな事情があろうとも、俺にとって今のアンタは“悪”だ」

 貼り付けられたレッテルの重さに、心が血を吐くような悲鳴をあげた。自分が善人などとは口が裂けても言えない。でも。

「私はそんな悪いこと、した覚えがないです……」

 無実を訴えている癖に、その声は哀れっぽく震えていて、まるで哀願しているようだった。今の私は情けなく命乞いをする悪役そのものだ。

「善悪を決めるのはアンタじゃない」

 涙だけはこぼすまいと必死に耐えた。泣いたら負けだ。

「そんなの不公平ですよ」
「俺個人としてはその言葉を否定しない。だが、かつてのシュテール博士の言葉をなぞるには何もかもが足りないな。アンタは何も分かっちゃいねェ」

 青キジは能面のような顔のまま、言葉をつづけた。

「『日誌』を渡せ。それが身の丈に合った行動だ。この件が俺の管轄内に収まっている今なら、アンタは一市民に戻れる」
「だから、手配書に名前が載ってなかったんですか?」

 煙草屋に渡された手配書に私の名前はなく、遠くから撮影したピンボケの写真だけが載っていた。名前など調べようと思えば、いくらでも調べられたはずなのに。

「最大の譲歩をしている。仕事に感情を持ち込むのは三流のやることだが、かと言って明らかに“違う”小娘をブタ箱に放り込むのも俺たちの仕事じゃない、俺はそう思っている」

 私は震える手で胸のあたりをぎゅっと握りしめた。
 『日誌』がどこにあるのか、彼は本当は知っているのだろう。だが、あくまで私の手で渡させようとしている。

 何も知らずに持っていました、ごめんなさい。そう言って自ら『日誌』を手放すことをもって、私の情状は酌量される。海軍の温情のもとで、イタズラをしでかした子供と同じく、すべてをなかったことにされ、許されるのだ。

 甘い言葉に決意が揺らいだ。
 自由と願望を捨てれば、安全と庇護が手に入る。あたたかな場所で守られて育った者にとって、世界を独りで歩きつづけることは何物にも代えがたい苦しみを伴う。ドルテン先生の元を去ってから、いや、こちらに来てから、嫌というほど味わってきた。

 自由には孤独が、冒険には危険が、常に寄り添うものなのだ。
 追われることに疲れきった私にとって、これ以上の誘いはなかった。

「あ……、私……」
「楽になれ。もう何も背負わなくてもいい」

 甘言なのか、本心なのか、今やどちらであってもかまわなかった。この手を取れば、もう恐ろしい思いはしなくて済む。
 もたらされた救いに、縋り付こうとした時だった。

 ドンドン、と取り調べ室の扉が激しく叩かれた。

「大将!緊急の報告です!」

 部屋を満たしていた生ぬるい空気が一気に霧散した。青キジが舌打ちをして、ドアを開けた。

「何も今来なくてもいいだろうが。何の用件よ」
「それが……!近海を通りがかった別部隊が、北西の海岸に停泊中の“赤髪”に攻撃を加えたらしく、現在交戦中とのことで……!」
「アア、なんだと!? 今“四皇”と事を構えるのがマズいことくらい分かるだろうが!」
「申し訳ございません……!電伝虫の不調で、“前半の海”に“赤髪”が来ているとの連絡が行き届かず、地元の部隊がそれと知らずに砲撃したようです。戦闘をやめるよう信号を送っていますが、いまだ応答はなく……!」
「とりあえず、俺が行く。それまで誰にも余計な真似はさせるな。全員に伝達!行け!」

 青キジの怒気に震え上がった海兵は、悲鳴のような返事をして、部屋を走り出て行った。

「というわけだ。ちょいと待っててくんな」

 こめかみに立てた青筋をヒクヒクと震わせながら、彼は大股で立ち去った。彼が出て行った途端、小窓から見える海兵の動きがにわかに慌ただしくなった。

 部屋の中に再びひとり取り残された私だったが、今度はあの落ち着かない浮遊感を感じることもなく、自分をしっかりと保つことができていた。
 大丈夫。
 拳をぎゅっと握りこむと、伸びた爪が手のひらに突き刺さって、痛みとともにわずかに血が出た。

 この世界で経験してきたことは、すべて現実だ。ドルテン先生、ボンちゃん、バギーさん。これが夢なら彼らとの交流も夢の中のものになってしまう。そんなことがあってたまるか。

 私から判断力を奪っていたのは青キジなんかじゃない。私自身だ。
 ちょっと窮地に陥っただけで打ちのめされて、目の前の状況から目を逸らして、そこから抜け出そうともしなかった。悪あがきは専売特許なのに。

 自分を助けられるのはいつだって自分だけだ。

 遅ればせながら働きはじめた目と頭で周囲の状況をチェックした。
 まず入り口。さっき青キジが出入りした、小さな丸窓がついたドアは厳重に施錠されており、その外には見張りがいるようだった。人間が行き来できそうな出入り口はこのドアだけで、あとは窓も扉もない。
 室内には最初に確認した通り、机が一つとイスが二脚だけ並んでいた。

 イスで鍵を壊す?
 いや、ドアの強度が分からない以上、失敗する可能性が高い。下手なことをすれば、その後の監視が厳しくなってますます逃げ出すのが難しくなってしまう。だいたい、うまく壊せたとしても私の足で見張りを撒けるとは到底思えない。

 他に何かないだろうか。
 再度部屋を見渡してみたものの、ドアや床の隙間には緩衝材が挟み込まれており、空気すら通さない密閉ぶりである。賊を閉じ込めておく部屋なのだから、これぐらいはしておかないと安心できないのだろう。

「でも、本当に密室ならそのうち酸欠になるよね」

 最初に入室した時から、室内の空気に変化はないように思う。つまり、人を収容する以上当然のことではあるのだが、この部屋には常に新しい空気が供給されているのだ。

 それならば、必ずどこかに通風口があるはずだ。
 床に這いつくばって空気の匂いを嗅いだが、特に変わった匂いはしなかった。
 今度は机の上に立ち、天井付近で鼻を動かしていくと、ある場所に来た時、かすかに潮の匂いがした。

「ここだ」

 目を凝らすと、天井と壁の境目あたりにうっすらと蓋のようなものが見えた。
 爪で引っ掛けると、軽い抵抗の後に蓋はあっさりと外れ、湿気を含んだ空気がむっと流れ出してきた。中を覗くとちょうど私の肩幅くらいのダクトがずっと奥まで続いていた。

「この先は外?」

 机の上にイスを乗せて弾みをつければ十分飛び込める距離だ。
 通風口が放置されていたのは、今までこの幅を通り抜けられる人間がいなかったからだろう。普通に考えて男性はまず無理だし、女性だってこの世界の人たちは一般に背が高くメリハリのある身体付きをしているから、難しいに違いなかった。

 だけど、私なら通れる。
 小窓を見ると、外には相変わらず人が行き交っていた。しかしこちらをのぞきこむ者はひとりもいない。それもそうだ、上司である青キジがあれだけ慌てていたのだから。

 チャンスは今しかない。

◇◇◇

 通風口の中は『酷い』の一言に尽きた。
 ほこりやススはもちろんのこと、這い進むたびに蜘蛛の巣が顔に張り付いてくる。気味の悪い音がしたと思えば、手の下にネズミの死骸があったりもした。

 だが、幸いにも途中で通れない箇所はひとつも存在せず、出口までの距離もとても短くすんだため、通風口に入って数分後、私は無事に出口にたどり着いた。
 しかし、問題はそこからだった。出口には鉄格子が嵌められていたのである。

「うっかりしてた!当たり前と言えば当たり前だけど!」

 手で揺さぶってみても鉄格子はガタガタと音を立てるばかりだった。
 こんなことをしているうちに、逃げ出したのがバレるかもしれない。青キジが戻って来なくても、誰かに小窓から部屋を覗きこまれたらおしまいだ。
 海はもう目前なのに。

「あー、もうっ!外れてよ!」

 ところが、ヤケクソになって思い切り殴り飛ばした時、格子の一本が悲鳴のようなきしんだ音を立てた。

「ん?」

 同じ場所をもう一度叩くと、格子が目に見えて歪んだ。

「もしかして」

 げんこつで集中的に殴りつづけると、もろくなっていた部分が呆気無い音を立てて砕け散った。破片が海へ落下していき、少し間をおいて、ぽちゃんと間抜けな音が聞こえた。
 長年潮風に晒されていたせいで錆が回っていたのだろう。

 痛みに耐えながら残った格子も同じようにして破壊して、通風口の出口から頭を出すと、はるか下方に海面が見えた。
 思ったより高い。
 水深が浅かったり、岩があったりしたら一貫の終わりだ。

 船から海へ、命がけでダイブ。

 バギーの船で冗談半分に想像したことを、こんなところで自主的に実践する羽目になるとは思わなかった。事実は小説より奇なり。

「けど、今更怖気づいたってもう遅いから!行く!」

 震えそうになる身体をどやしつけ、私はできるかぎりの勢いを付けて宙へと飛び出した。


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