体中の息を全部吐き出して、砂浜に身体を横たえた。
「あー、生きてる」
23 “DEAD OR ALIVE OR ESCAPED”(Ⅳ)
波打ち際に寝転がった私の身体を、穏やかな波が洗っていく。寄せては返す海の鼓動に、心の底から安堵した。
「生きてるって素晴らしい」
冗談でなくそう口にする日が来るなんて、向こうにいた時は夢にも思わなかった。
落ちた先は幸いにも、浅くはない海上だった。沖に流れる強い流れがあれば私の命は今日かぎりだったろうが、ありがたいことにそんなものにも巻き込まれず、無事に島へ泳ぎ着くことができた。
顔と服はドロドロのぐちゃぐちゃで、手は血だらけで、もうひとしずくの体力さえ残っていない。
でも、確かに生きている。
夏島のあたたかな海水がお風呂のお湯のように、疲れきった身体を包み込んできた。
できることならば、このまま眠ってしまいたい。しかし。
「起きろォ、私」
こんなところで寝てしまったら、命がけの逃走劇が水の泡だ。
身体に鞭打つように立ち上がると、いつの間にか靴が片方なくなっていた。残った片方を脱ぎ捨てて歩き出した。
少し進んで、いつもとは何かが違うことに気付いた私は空を見上げた。
「雨、やんでる」
雲間から差し込むかすかな光が、美しいレースのカーテンのように空の高いところできらめいている。
後ろを振り返ると、裸足の両足が雨上がりの大地にくっきりと足あとを残していた。
ドォン、と腹に響く轟音に続き、大きな爆発音が鼓膜を震わせた。見れば、沖に浮かんだ軍艦から火柱が上がっている。海兵らしき人影が消火に努めるも、もはや間に合わないと悟ったのか、次々と海へと飛び込んでいった。
そうしているうちにも、軍艦は船として形を失っていき、焦げ臭い匂いを残してあっという間に海面に散らばる木くずと化した。
「うわあ……」
海岸近くの木陰に身を隠しながら、私は目の前で繰り広げられる海戦から目を離せずにいた。
海軍と“赤髪”が戦っている、らしい。
だが、海を見渡しても、今しがた沈んだ船の断片がバラバラと浮かんでいるだけで、他に船らしきものは見当たらなかった。
諦めて港への道を急ごうとした時、再び砲音がとどろいた。
「ちょっ……!」
空気を裂いて飛ぶ砲弾を目にした瞬間、身を低くして近くの岩の裏に飛び込んだ。咄嗟に手のひらで耳元を覆う。
一瞬遅れて、さっきまで居た木陰が文字通り木っ端微塵に吹っ飛んだ。
危なかった。
鉛の塊にえぐり取られて、地面が無残な姿を晒している。躱した方向が反対だったら、間違いなく全身バラバラに吹き飛ばされていた。
たった一瞬のうちに九死に一生を得た、という事実に背筋が寒くなった。
だが、バクバクと走る鼓動を鎮める暇もなく、第二、第三の砲音があたりを震わせる。
だめだ、こんな小さな岩なんて砲弾が直撃したら私もろとも一巻の終わりだ。
目を瞑って祈るように身を屈めていると、音は今度は私を行き過ぎて、数十メートル先の大岩を直撃した。
固いもの同士がぶつかり合う鈍い音とともに、そびえ立った屏風のような大岩が崩壊していく。視界を遮る火薬臭い白煙の向こうに、何かがちらりと見えた。
「赤い竜……?」
岩陰から姿を現したのは、見たこともないほどの巨大な帆船だった。
メイン・マストの頂上にはためく黒い海賊旗。真ん中で笑うしゃれこうべの左眼には、引き裂いたような三本傷があった。
距離にして三十メートルほど先の船に、恐怖も忘れて見入ってしまう。
岩の影に隠れていたのか。
この世界に来てからたくさんの船を見てきたが、目の前の船はそのどれとも違う気配をまとっていた。私のような素人でもひと目で分かるくらいの古豪。乗り越えてきた海の数が違いすぎる、そう感じた。
間違いなく、“赤髪”の船だった。
もっと良く見ようと身を乗り出した時、パン、というさっきの砲音に比べれば紙鉄砲も同然の銃声が砂浜に響いた。振り向く間もなく、背を預けていた岩の一部が弾け飛んだ。
「なっ……!」
横目で射線を辿っていくと、はるか向こうの小高い丘の上に白い制服の一隊が見えた。最前列で狙撃手が膝をついてライフルを構え、その後ろには大砲が何門か控えていた。
「下手くそぉ……!“赤髪”の船はあっちだって!」
悪態が届いたはずもないのに、丘の上の海兵がこちらを見た気がした。慌てて頭を引っ込めた一瞬後、その場所をえぐるようにして弾丸が飛んできた。
まさか分かって狙ってきている? 青キジは?
私を“赤髪”の仲間と勘違いしているとしても、船内での青キジの言動を振り返れば、攻撃は絶対にありえない。私だとはっきりと認識している場合も同じことだ。確かに『生死問わず』で指名手配はされているけれども、一度は見逃し、二度目はわざわざ『日誌』を手渡しさせようとまでした男が、今更あっさりと私を死なせるだろうか。
別部隊が独断先行しているのかもしれない。
そして、唯一私を保護する意思のある青キジは何らかの理由でいまだここには到着していない。この場面ではそう考えるのが妥当だろう。
つまり、うかうかしていると本当に死ぬ。
命がけの脱出のせいで危機意識を司る部分がすっかり麻痺してしまったらしく、私の頭は至極冷静に結論を弾き出した。
ところが改めて周囲の状況を確認してみて、自分が思いの外まずい場所にいることに気付いた。
弾丸を避けようとより大きな岩を探すうち、少しずつ海側へ移動していたようで、いつの間にか砂浜の真ん中近くまで来てしまっていた。隠れている岩場から海岸の出口までは少なく見積もっても百メートルから二百メートルは離れている。弾幕の中を走って逃げるには遠すぎる距離だ。
前門の虎、後門の狼。
海軍と“赤髪”に挟まれて、私は逃げ場を失ってしまった。
隠れたまま動かない女にしびれを切らしたのか、海軍は私を標的から外し、本格的に“赤髪”の船を砲撃しはじめた。
どん、という発射音の後、低く唸るような音がして、船の周りに砲弾がいくつも落下した。
“赤髪”は海兵たちが執拗に攻撃を加えても、なぜか反撃せずに岩場でじっとしていた。だが、ひゅん、と砲弾が黒い海賊旗の端を焦がした瞬間、今まで沈黙していた砲門が一斉に火を吹いた。発射された砲弾はあろうことか、飛んでくる海軍の砲弾と鉢合って、空中で爆発した。
一瞬遅れで、焦げるような熱気を含んだ爆風がやってくる。吹き飛ばされてしまいそうになって、慌てて岩にしがみついた。
「……無茶苦茶だ」
それを皮切りに海軍と“赤髪”双方の間で激しい砲撃戦が開始された。絶え間ない砲音と銃声が海岸一帯を震わせる。耳を押さえていなければ、とうの昔に鼓膜が破れていただろう。
どちらの物とも分からない弾が地面を掘り起こし、木々をなぎ倒した。
流れ弾が容赦なく降り注ぐ中で、ふと視線を上げたのは偶然だったのだろうか。
すぐ側の木の根元に子供がひとりうずくまっていた。
魚を取りに来て帰れなくなったらしい十歳前後の少年は魚網をきつく握りしめ、目に涙をいっぱいに溜めていた。恐怖のあまり、目を瞑ることすら忘れて、身体を震わせている。少年の隠れている、元は大木であったと思われる木はすでに原型を留めないほどに破壊されていた。あと二、三発着弾すれば身を隠す場所はなくなるだろう。
「こっちにおいで、こっち!」
叫んだ声は戦いの音にかき消され、少年の耳には届かなかった。身を乗り出して手を伸ばそうとした時、耳をつんざく轟音がして、近くの地面が爆発した。支えをなくした木がゆっくりと傾いていく。
恐慌状態に陥った少年が叫びながら走りだした。
「うあああ!」
「行っちゃだめだって!!」
岩場から走り出て数歩も進まないうちに、ライフルの弾丸が彼の小さな膝小僧を掠め、ぱっ、とほんのわずかに血が舞った。
その瞬間、目の前が夕焼け色に染まった。
水に潜った時のように、周囲の音が遠くなっていく。遠い記憶の中で、誰かが私の名前を呼んでいた。
ああ、手を繋がないと。
パアン、パアン。
二発の銃声がやけに大きく耳元で響いた。その音で、フェードアウトしかけていた視界が再び輪郭を取り戻した。
他人の体温を感じて下を向くと、腕の中にはいつの間にかあの男の子がいた。こちらを見上げる顔は蒼白で、しがみつく手足も震えているが、深刻な怪我はないようだった。
「良かった」
ところが小さな身体を支えたまま立ち上がった私に、少年は安堵の表情を見せるどころか、ますます身体を固くした。
「どうしたの?どこか痛いところ、あった?」
「そうじゃなくって……!」
怯えたような彼の視線の先、ふと違和感を感じて自分の身体を見下した。
脇腹が真っ赤に染まっていた。
「なにこれ」
目の前の光景が飲み込めず、とぼけた声が出た。
眺める間にも赤い染みはどんどん服を汚していった。それなのに、濡れている感触がない。手を伸ばすと、冷たくも暖かくもない体温と同じ温度の液体が指先を汚した。
流れたばっかりの血って、こんなにサラサラしてるんだ。
「早く傷口を押さえろ」
血だらけの手のひらをまじまじと眺めていた私は、突如かけられた声に顔を上げた。
目の前に立っていたのは背の高い男だった。 胸のあたりからゆっくりと視線を上げていって、その髪の色を見た瞬間、右手が否応なしに動いた。
遠くで誰かが息を呑むのが分かった。
パアン、と頬を張る音が波間に響き渡った。
「いい加減にしてください!」
みぞおちのあたりが燃えるように熱く、身体の中を火箸でぐるぐるとかき混ぜられているようだった。傷の痛みとは別の、身体の奥底から湧き上がってくるマグマのような衝動。自分をコントロールできないまま、浮かんできた言葉を目の前の男にぶつけた。
「そんなに軽いんですか。人の命って」
的はずれな台詞であるとは分かっていた。海軍も、“赤髪”もここに子供がいるとは知らなかったのだ。
けれども、腹が立って仕方なかった。どこまでも無駄で、不毛で、馬鹿馬鹿しい争いに。
強者の身勝手に振り回され、奪われるのはいつだって私たちだ。
男はしばらく私を凝視していたが、じきに恐ろしいほど険しい表情になり、拳を固く握りしめた。
私、ここで殺されるんだろうなァ。
赤い髪の海賊を見上げながら、他人事のようにそう思う。
しかし、拳が振り下ろされることはなかった。
「すまない」
男はかすれた低い声でそんな言葉を吐いた。眉間に深い皺が刻まれたその顔は、何かに耐えるがごとく歪められていた。
私じゃない。私は、自ら選んでここにいた。
黙って首を横に振ると、男は私の前に片膝を着いた。正しくは私の腕に抱かれた幼い少年の前に。
そして目を閉じ、頭こうべを差し出した。
「怪我をさせて、すまなかった」
“赤髪”は言い逃れひとつせずに、この場における全ての責をその背に負った。
誰も何も言わず、打ち寄せる波の音だけが砂浜に漂っていた。
この人は誰も区別しないんだ。
大人も子供も、女も男も、王様も奴隷も、向こうもこちらも。彼の前では誰もが自由で、等しい重さになる。
そう分かった途端、この世界に来て以来、絶え間なく私を苛んできた孤独感が身体からどっと抜け落ちた。時を同じくして、目の奥から耐えがたい眠気が噴き出してきた。
「ああ、ええと。こんな時に申し訳ないんですけど」
赤い髪の男は鋭い目を一層険しくしてこちらを見上げた。
「すごく、眠い、です」
こらえ切れず小さなあくびをした私に、男は目を丸くした。
なんだ、そういう顔もできるんだ。
まぶたが落ちたのと膝が崩れたのはほぼ同時だった。
だが、大きく傾いた私の身体は、地面に叩きつけられる前にがっしりとした腕によって支えられた。腕の持ち主が何かを話しかけてくるが、眠くてまともに聞き取れない。そうしているうちに、身体が抱き上げられる浮遊感を感じた。
小さな頃、良くこうやって連れて帰ってもらったなあ。
「すみません……重くて……」
男が何か言っている。聞こえない。
「でも、生きていればみんな同じ重さですよね」
大人も子供も。男も女も。王様も奴隷も。命の天秤はきっとどちらにも傾かない。
意識がすうっと薄らいでいく。
晴れた空の下、砲撃はいつの間にか止んでいた。