寒い。苦しい。

 身の置きどころのない苦しみに苛まれ、暗い道の真ん中でひとりうずくまっていた私は、名前を呼ばれて振り返った。
 懐かしい人が大きな手のひらを差し出してくる。

「はなさないでね」

 そう言うと、その人は優しく私の手を握り返した。繋いだ手はとてもあたたかかく、苦痛がほんの少しだけ和らいだ。

 いつもと同じ夕焼けが地面を赤く照らしていた。



chapter3 “DEAD OR ALIVE OR ESCAPED”

24 Thank you for your letter



 天井が揺れている。

「気がつきました?」

 枕元で、えへん、と軽い咳払いが聞こえた。視線を上げようとした瞬間、脇腹に引き攣れるような痛みが走った。

「痛ッ……た」
「まだ傷がくっついていないんです。動かないで」

 肩越しに変声期特有のかすれ声がかけられる。慌てた顔で、ベッドの脇に立っていたのは十代半ば過ぎの青年だった。背は高いがかなり細身で、ゆるくウェーブした薄茶の髪とそばかすが、いかにも気弱そうな印象を与えてくる。

「ここは?」
「あ、えっと」

 目を泳がせた青年は、動揺を誤魔化すように長めの髪をせわしく耳にかけた。

「お、驚かないでくださいね。実はですね、ここは“赤髪”の船なんです!でも、でも、あなたに危害を加えるつもりはありませんから!」

 顔の前でバタバタと手を振り、青年は私に必死の弁解をした。

「海賊船?なんでそんなところに」
「ここが一番治療に適しているとの判断で……あなたに関する話し合いは船長と青キジの間で行われたので、僕からはこれ以上詳しいご説明はできないんですが」

 船長というのはやはり“赤髪”のことだろうか。助けてもらえるような間柄じゃないのにな。
 そう考え至った時、自分の所業を思い出して血の気が引いた。
 見ず知らずの人になんということをしたんだ私は。しかも、よりによって、やばいと噂の“赤髪”に。

「顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、うん、ちょっとね」
「額、失礼します。熱はないみたいですね」

 私のおでこに手のひらを当てた青年は、細い顎に手をやって考えこんだ。

「ひとまず体調のチェックをさせてもらいますね。辛いところがあれば遠慮なくおっしゃってください。たとえ船長の頼みであっても、調子の悪い患者と会わせるわけにはいきませんから」

 そう言って彼はあれこれと私に質問をした。気分は悪くないか、傷の痛みはどれくらいか、などなど。
 触診をされている時に、思い切って気になっていたことを聞いてみた。

「君も海賊なの?」
「うーん、外から見ればそういうことになりますけど……でも本職はこっち」

 そう言って、彼は着ていた白衣を指差した。

「駆け出しの未熟者ではありますが、色々あってこの船の船医をさせてもらってるんです。何人もいる船医のうちの一番の下っ端ですけどね。僕のことはウィックと呼んでください」

 若すぎる医師ははにかむように笑った。にわかに信じがたい話ではあるが、さきほどからの手際を見るかぎり嘘には思えなかった。

「すごいね。私の子供の頃とは全然ちがう」
「そんなに立派なものではないんです。ここにいられるのはあくまで船長の温情で――
「だからって腕の悪い奴は乗せねェけどな」

 低い笑い声が戸口から聞こえた。
 柱にもたれてこちらを見ていたのは、“赤髪”だった。海岸でのあれこれが蘇ってきて、目が合う前に下を向いた。

「ちょうどお呼びしようと思っていたところです。怪我の状態ですが、もう心配はないでしょう」
「ああ、良くやってくれた。さすがだ」

 “赤髪”にわしわしと髪をかき混ぜられて、青年は年齢相応の照れを見せた。

「少し外してくれるか。彼女に話がある」

◇◇◇

 気まずい。
 ものすごく気まずい。そして怖い。

 船医ウィックが出て行った途端、“赤髪”は人懐っこい笑みを消して、仏頂面でイスに腰掛けた。眉間に深く皺を刻み、うっかりすると人でも殺しそうな顔をしている。彼の場合、比喩では済まない気もするが。
 できるものなら、今すぐ海に飛び込んで逃げ出したい。“赤髪”かサメかと問われれば、大抵の人間は後者を選ぶのではないだろうか。

 顔を上げることもできず、シーツを掴んで俯いていると、“赤髪”がようやく口を開いた。

「何か言いたいことはあるか」

 肌が総毛立った。どう考えても処刑前の問答だ。言い残すことはないか、というアレと同義の。

「すみません。とても失礼なことをしました」
「それはどうでもいい」

 唸るように返されて、恐怖で涙が出そうになった。じゃあ一体何が聞きたいんだ。   
 声が裏返らないように必死に抑えた。

「すみません」
「あんたが生きながら得たのは、あいつの腕によるところが大きいが、もうひとつ理由がある」

 険しい顔のまま、“赤髪”は懐から何かを取り出した。ぽん、とベッドの上に乗せられたのは、ドルテン先生がくれたお金と『日誌』だった。“赤髪”がお金の袋を指差したので、よく見てみると隅の方に焦げた穴があった。

「この袋が弾丸の軌道をずらさなければ、今頃あんたはここにいなかっただろうな」

 盗まれまいとビニール袋に入れて腹巻き代わりにしていたのが、まさかこんな形で役に立つとは。

「それから、これだ」

 そう言って、“赤髪”は目の前に『日誌』をぶら下げた。
 痛みも忘れて飛びついたが、たやすく手の届かないところへ持って行かれてしまった。

「返してください!」
「興奮するな、傷が開くぞ。いくつか質問がある」

 返す代わりに答えろというのか。海賊らしい取引の仕方だ。
 渋々頷くと、三本傷の向こうから鋭い視線が突き刺さってきた。

「なぜあんな無謀な真似をした」
「馬鹿なことだとは、分かっていました。でも馬鹿だからどうしても我慢できませんでした」

 開き直りともとれる言葉に、男の纏う空気がどっと冷え込むんだ。
 もうどうにでもなれ。だって、理由なんて自分でも分からないのだ。

 痛いほどの沈黙の後、“赤髪”は通り名そのままのワインレッドの髪を掻きあげて、ため息をついた。

「あと少しずれていたら命はなかった。もって生まれた幸運にせいぜい感謝しておくことだ」
「はい」

 素直に頷いた私に、彼はほんの少し意外そうな顔をした。どれだけ反抗的な人間だと思われていたんだろう。

「それと、もうひとつ訊きたいことがある。これと同じものを見たことがあるか?」

 ベッドの下から取り出された物を見て、私は思わず口を押さえた。

「うそ」
「やはり知っているんだな。どこで見た」
「昔、故郷の町で」
「何のためのものかは?」

 “赤髪”は私に見せつけるように、あの白い宝石箱を掲げた。
 少し黄ばんだその色に、一目見て自分が持っていた物ではないと分かった。しかしその宝石箱は、アンタナ・リボナで見た模造品よりもはるかに精緻な作りをしており、外側の装飾においては私の物よりも完全な形を残していた。
 間違いない、これはあの宝石箱と出自を同じくするオリジナルのひとつだ。

「正しい使い方は知りませんけど、私は手紙を入れていました。大切な友達の手紙を」

 手紙、と口の中で転がすように繰り返した後、彼は深く息を吐いた。

「トワ」
「え?」
「祖母の名前はトワ。ミハマで生まれ育ち、丘の上の学校に通う。趣味は海辺を歩くこと」
「なんで、それを」
「何でも知ってるさ。あんたが手紙に書いたことなら」

 “赤髪”は宝石箱の蓋を開き、一通の手紙を渡してきた。見覚えのあるイルカ柄の便箋。
 裏面には黒いボールペンで差出人の名前が書かれていた。何年も前、中学生の少女が綴った不慣れなアルファベットに、嗚咽が漏れた。

 こんな、ところに。
 耐えられなくなった私は、とうとう声を上げて泣きはじめた。

「ずっと探してたんだよ。こっちに来る前も、来た後も」
「遅くなってすまなかった」
「どうして私がここにいるって分かったの?」
「手紙が届いたんだ。久しぶりに」
「手紙?」
「ああ。ただ、普段と違ってちょっとした土産が入り込んでいてな。“偉大なる航路”でもちょうどこのあたりにしか生育しない希少な海藻―― 調べるのに少々手間どっちまった」

 ここに来る直前、届かなくてもいいと思って書いた最後の手紙、あれが届いたのか。
 彼の親指が頬に触れ、伝い落ちた涙をそっと拭った。子供をあやすような優しい手つきだった。

「人のことを言えた立場じゃないが、『今日で終わりにしようと思います』っていうのはこたえるもんだな」
「自分だって同じこと、書いたくせに」
「そう責めてくれるな」

 彼はきまり悪そうにくしゃりと笑った。

 それを最後に会話が途切れて、狭い船室は静まりかえった。
 夢に見るほど会いたかった人が目の前にいるのに、いざ話すとなると改めて何を言えばいいのか分からなかった。

 久しぶり?元気だった?違う、そんなんじゃない。

「こういう時は、えーっと」

 彼の方も腕組みをして、困ったように首を傾けている。照れたようなその姿にふと、正しい答えが浮かんできた。

「そうだ。あれだよ」
「ん?」
「いつものやつ」
「ああ、そういえばそうだったな」

 顔を見合わせて笑った後、示し合わせたようにその言葉を口にする。

「お手紙どうもありがとう」

 何よりも多く交わしてきた挨拶は、昔と何ひとつ変わらずに、隔たった時と場所とをゆるやかに繋いだ。


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