浅瀬を映したような雲ひとつないライト・ブルーが、見渡すかぎりどこまでも広がっている。

 天を見上げたまま波の揺らぎに身を任せていると、だんだん自分がどこにいるのか分からなくなってきた。空が海になり、海が空になり、青い空に向かってゆっくりと沈んでいくような感覚が全身を満たしていった。



chapter4 RED FORCE

25 レッド・フォース号(Ⅰ)



「空を泳いだら気持ちいいだろうなあ」
「泳ぐのは海だけにしとけよ。ここから落ちたら、あっという間に本物の“お空の住人”になっちまうぜ」

 あんた危なっかしいからなァ、と呆れた顔をしたのはヤソップだった。私の横に座って、フォアマストの見張り台で愛銃を構えた彼は、弾を撃つでもなく、さっきからただじっと空を見上げていた。ドレッドヘアーを垂らした射撃の神曰く、銃の腕を磨くのに弾は必要ない、とのこと。

 手すりから恐る恐る顔を出すと、はるか下の甲板にラッキー・ルウの巨体が見えた。目ざとく私に気付いた彼はかじりついていた骨付き肉を口から離し、こちらに向かって手を振った。

イチルー!見張り台は楽しいかァ?」
「はーい!とても!」
「そうかそうか!俺もガキの頃は楽しかったもんだ」
「子供じゃありません!と言いたいところですが、こんなに楽しいなら子供で良いです」
「はっは、そりゃあいい」

 楽しそうに笑った彼は、今しがた食べ尽くしてしまったヘヴィーなおやつを補給するため、足取り軽く船室へと引っ込んでいった。

 巨漢のラッキー・ルウは見た目そのままの豪快かつ陽気な海の男で、いつ見ても食べているか笑っているかのどちらかである。眼を覆う色つき眼鏡のせいで、何を考えているのか読めないことも多いけれど。

 大声でやり取りをしてから横を見ると、ヤソップが真剣な顔で銃把を握っていた。
 しまった、鍛錬の邪魔をしてしまったかもしれない。もう見張り台は満喫したし、そろそろ降りたほうがいいだろう。

「ヤソップさん、一足お先に下へ戻りますね」
「おう……って、一人で勝手に降りようとすんじゃねェよ。縄梯子は登るのは簡単だが、降りるのは慣れねェと意外に難しいんだ。足を滑らせても大丈夫なように少し下を降りてやるから、あとちょっとだけ待っとけ」

 フリントロック式の長銃を片手で軽々と扱いながら、ヤソップはぽんと私の肩を叩いた。彼には郷里にまだ幼い息子がいるらしい。この面倒見の良さはやはり父親ならではのものなのだろうか。
 手すりに顎を乗せて水平線を見ようとした時、船が大きくぐらりと揺れた。

「ちっ、海王類が下を通ったな。照準がずれちまったじゃねェか―― っておい、イチル!」
「うわっ!」

 船が揺れた拍子に手すりから投げ出された私は、掴もうとしたヤソップの手をすり抜けて、甲板めがけて真っ逆さまに落下していた。
 ぶつかる、と目を瞑ったその時、逞しい両腕が私の身体を受け止めた。

「やれやれ」

 すんでのところを助けてくれたのは、どこからともなく現れたベックマンだった。

イチル!大丈夫だったか?」

 後を追って身軽に甲板へ着地したヤソップは、私の無事を確認した後、ほう、と安堵の息をついた。

「頼むからフラフラ飛んでかないでくれよ。これじゃ一瞬たりとも目が離せねェ」
「本当にすみませんでした……」
「まだ怪我も完全には治ってねェんだろ?あんたに何かあった日にゃあ、何しでかすか分からねェお人がいるからな。なあ、副船長」
「そう思うんだったら、しっかり監督しておいてくれ」

 ため息をつくヤソップに、黒髪の男ベン・ベックマンは笑いまじりに答えた。くわえ煙草のまま、にやりと器用に口角を上げている。
 この船の副船長であり実質的なブレインを担う彼は、ことあるごとに私がヘマをしていないか確認しに来てくれる。ただでさえ多い仕事をさらに増やしてしまっている身としては、特に頭の上がらない相手だった。

「知ってるか?若い船乗りは敵にやられるよりもマストから落ちて死ぬ方が多い」

 ベックマンは曲げた人差し指でコンコンとマストと叩いた。

「船上ってのは、常から危ねェ場所なんだ。どこにいても気は抜きすぎるな。はしゃぎすぎてうっかり、じゃあお話にならねェ」

 煙草をくゆらせながら、彼は子供を諭すような口調でゆっくりと私に語りかけた。隣で腕組みをしたヤソップがうんうん、と深く頷いている。

「はい。次から気をつけます」
「分かりゃあいいんだ」

 大きな手で頭を撫でられて照れくさくなった私は、そわそわと鼻のあたりを擦った。子供の頃に戻ってしまったみたいだ。
 何かあったら呼べ、と言いおいて、彼は船室へと入っていった。その後ろ姿を見送って、私はため息をついた。また迷惑をかけてしまった。

 落ちている間も手放さなかったメモ帳をポケットに片付けた。
 見張り台に登らせてもらったのだって、本当は船のことを良く知ろうと思って頼んだことだったのだ。結局、はしゃいだだけで終わってしまったけれど。船に乗せてもらってもう一週間にもなるのに、いまだ身の回りのことさえ覚束ない自分が悲しかった。

「真面目もいい加減にしとけって。あんたはお頭の客だろ。気軽な気持ちで楽しんでりゃあいいのさ。手伝ってもらわなきゃならないほど人手不足じゃねェしな」

 ヤソップはこだわる風もなくそう言った後、再びイメージトレーニングのため見張り台に戻っていった。

 廊下を歩いていると、反対側からラッキー・ルウが歩いてきた。食料庫からかっぱらってきて間もないはずの肉は、すでに半分以上なくなっている。

「満喫してるなァ、イチル。ガキの俺でもさすがにマストの天辺から飛び降りはやらなかったぜェ」

 大きな手のひらで背中を叩かれ、肋骨に響く鈍い衝撃に「う」と声が漏れた。油断すると背骨がバキバキになってしまいそうだ。その気になれば、この平手一撃で十メートル近くあるサメが吹っ飛んでしまうということを、私はすでに見知っている。

「いい経験になったじゃねェか。んん?心配しなくてもお頭には黙っといてやるって」

 咎めるどころか、にやにやと笑うばかりのルウ。いたずらっ子のようなその様子に、自己嫌悪に沈んでいた心がちょっとだけ軽くなった。顔を上げると、彼は「ヒヒ」と笑いをこぼした。

 身体的にも、精神的にも一回り、二回り、いやもっと大きな彼らにはどこをとっても敵うところがない。おまけに齢も十以上離れているとなれば、父や兄のような存在に感じてしまうのも仕方のないことかもしれない。もちろん私は生まれてこの方そういった存在とは無縁に生きてきたので、あくまで想像でしかないのだけれど。

「バレて怒られそうになったら、また張り倒しゃあいいのさ」
「そ、その話はどうか忘れてください……!」

 『お頭なんて嫌いよ!あっち行って!』と女声でビンタのジェスチャーをされ、恥の種を思い出した私は再び頭を抱えた。
 穴があったら入りたい。いや、もう私専用の穴があってもいい。

 当たり前のことなのだが、ポーンショップ島の海岸でクルーたちは一部始終を目撃していた。その結果、“お頭ビンタ事件”は彼らの間でヘビーローテーションされる酒の肴になったらしい。誰彼問わずすれ違う度に「よっ!今日も平手の練習か?」「次はいつブチのめすんだ?応援してるぜ」と笑われるので、当事者である私は毎回恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。

「あの時の海兵どものツラを見せてやりてェよ。なんつったっけな、なんとかの銅像みてェにカチンコチンに固まっちまって。あれは傑作だった」

 ルウは心底愉快そうに大声で笑った。

「傑作と言えば、お頭の反応もなかなかのモンだったなァ」
「すみません、私が愚かだったんです……」
「“四皇”になって以来、お頭にあんな顔をさせた奴はそうはいねェかんな、っと噂をすれば影」

 後ろを振り返ると、シャンクスが真面目くさった顔で手すりにもたれていた。

「誰の顔が面白かったって?」
「どこぞの赤毛船長に決まってんだろ」

 ルウがそう言うと、シャンクスは耐え切れなくなったように噴き出した。

「ぶっ、あっはっは!やっぱりそうだったか!鏡持っときゃ良かったぜ」
「前もって頼んでおいてくれりゃあ、写真ぐらい撮ってやったのによ。海軍に送りつけて手配書の写真にしようぜ」
「そんときゃあ、”赤髪”じゃなくて”赤っ恥”に改名だな」

 どこぞのバギーさんが、それこそ真っ赤になって怒りそうな話である。ひとしきり笑った後、シャンクスは乱れた髪を掻きあげてこちらを向いた。

「放っておいて悪かったな、イチル。お前にちょっと用があるんだ。立ち話もなんだし、部屋に来てくれないか」
「用事?分かりました」

 うひょう、と囃し立てるような声を上げたルウを蹴飛ばした後、シャンクスは私を先導して船長室へと歩きはじめた。


error: