26 レッド・フォース号(Ⅱ)
私の便乗するレッド・フォース号がポーンショップ島を出たのは三週間前のことだ。
海軍に捕まった日が同じく三週間前で、その後まるまる三日間は昏睡していたことを考え合わせると、意識不明の重体で生死の境を彷徨っていた頃にはすでに海の真ん中にいた計算になる。
ポーンショップ島の海岸で私の横腹をえぐった銃創は、即死に至りはしなかったというだけで、放っておけばあっという間に失血死してしまうほどに深いものだった。命を取り留めることができたのは、あの若い船医ウィック―― 本名はヴィクトールというらしいが、頼りなさそうな見た目からそう呼ばれている―― が昼夜付きっきりで治療してくれたおかげである。謙遜に過ぎる本人は「イチルさんの生命力が怪我に打ち勝ったんです!」などとのたまっているが、私にかぎってまさかそんなことがあるはずもないので、彼にはいくら感謝しても感謝しきれない。
その敏腕の恩恵で、意識を取り戻してからベッドから起き上がれるようになるまで一週間もかからなかった。が、衰弱しきった私を見て、感染症を恐れたウィックが「体力が戻るまで他者との接触を禁止します!」と宣言したため、それからさらに一週間誰にも会わずに部屋に籠もらなければならなくなった。
その期間は身の振り方について、ずいぶん悶々とした。
初日の話し合いで当分の間は船に乗せてもらえることに決まっていものの、船長にあんなことをしてしまった手前、クルー達が私に対してどんな思いを抱いているかということは想像するだけで恐ろしく、身の縮む思いがしたのである。
ところが、蓋を開けて見れば状況は想像していたものとはまるで正反対だった。シャンクスに連れられて顔合わせしたクルー達の間には、私の滞在をむしろ歓迎するような空気さえあった。
船長のお墨付きがあったとはいえ、突如現れた謎の女、もとい謎の小娘をあっさりと受け入れてしまうとは、さすが世界の海を股にかける男たち、常人とは度量の広さが違うようだ。おかげで、今に至るまで人間関係で悩んだことはついぞない。
巨大な船の中には食堂はもちろん、浴場や娯楽施設のようなものまである。その上シャワー付きの一人部屋まで与えられているのだから、レッドフォース号における私の生活環境はこれまでの逃亡生活に比べると快適すぎるとさえ言えた。
―― ある一点を除いては。
海賊船の船長室。そこは宝の地図や大きな剥製といった物がところ狭しと置かれている秘密の宝庫であり、字面だけでもワクワクが止まらなくなってしまう場所である。レッド・フォース号も例に漏れず、私の好奇心をこれでもかと刺激した。
座れ、と出されたイスに腰掛けて見渡した室内には、独特の雰囲気が漂っていた。傷だらけの書物机(よく見ると銃痕もある)、酒瓶のつめ込まれたガラス棚、房飾りのついた分厚いコート。壁際にはカトラスやサーベルがずらりと並んでいる。奥の方に見える扉は、私室に続いているのだろうか。
使い込まれてアメ色になったなめし革のような重厚さが感じられる部屋だった。唯一、深い赤色をしたベルベットのソファだけが内装に華を添えている。
「なんというか、イメージ通りです……いや、イメージ通りだね」
向かいに座ったシャンクスが眉間に皺を寄せたので、すぐに言い直した。この船のクルーは揃いも揃って敬語や丁寧語とは縁遠い者ばかりだが、中でもこの船長は殊更に堅苦しさを忌避する。
「普段はここにいるの?」
「まあな。部屋にこもるのはあんまり好きじゃねェんだが」
「シャンクスらしいね」
シャンクス、という部分は油断すると早口になってしまいそうになる。今は普通に話せているけれど、いつしか私たちの間に生じていた不可解な年齢差が邪魔をして、最初の頃は自然に接することができなかった。その時の騒動については、まあ別の機会に譲ろう。
とにかく昔からの友人とは言え、面と向かって一回り近く年上の男性を呼び捨てるのは日本人にはとても力が要る作業だということである。
「用って何のことかな」
「明日補給船が来る。何か必要なものがあれば言ってくれ」
「補給船?」
「停泊できる島がなかったり、海兵の邪魔が入りそうな時に使う奴らでな。食糧やら弾薬やらを海上で受け渡しする。上陸して市を廻れりゃあいいんだが、次の島に着くのはもう少し先になっちまいそうだ」
補給船について、とポケットから取り出したメモ用紙に聞いた内容を書き込んだ。こういう時は向こうから持ってきたボールペンが役に立つ。インクの替えがないので、できるだけ節約するようにはしているが。
そんな私を見てシャンクスが呆れたようにため息をついたが、気にせずつづけた。
「荷物も戻してくれたし」
ポーンショップ島で海軍に没収された宿屋の荷物は、青キジとの交渉の際にシャンクスが無事取り返してくれていた。日用品もまだ残っているし、服の買い替えも急がない。
その上でひとつだけ思いつくものがあったが、男性に口で伝えるのは大変勇気がいるものだったので、ここでは言わないことにした。次の島まで待って自分で買った方が精神衛生上良いに決まっている。
「今は大丈夫かな、ありがとう。ご飯さえ満足に食べさせてもらえるならそれで十分だよ」
「へェ。イチルのくせに言うようになったな」
「一度は指名手配までされちゃったからね。細かいことはあんまり気にならなくなったの」
と恰好つけて言ってはみたものの、よく考えれば目の前にいるのは指名手配どころかとんでもない額の賞金を首に下げた海賊の大頭である。“赤髪”から見れば、私の冒険など子供のままごとのようなものだろう。
だが、シャンクスは三本傷を緩ませて、片方しかない腕で私の頭をかき混ぜた。
「良く逃げて来られたもんだ。褒めてやる、イチル」
「まあ、最後にはまんまと捕まっちゃったんだけど」
「昨日はそこで話が終わったんだったな。捕まった後、どうやって軍艦から抜けだしたんだ?武器も力もないんじゃ簡単にはいかなかったろう」
「そう!取り調べ室に放り込まれた私は……じゃなかった。ちょっと待った。その前にシャンクスに言いたいことがあったんだ。すごく大事なこと」
ベッドの上であぐらをかき、ゆるやかな眼差しでこちらを見つめていたシャンクスは、思い当たることがあったらしく、形の良い眉をほんの少しだけ歪めた。
「気は進まないが、一応聞いておく。どんなことだ?」
「最後まで聞いてね。実は、私も仕事が欲し―― 」
「ダメだ」
せっかくの前置きを完全に無視して、シャンクスは即答した。
すべてが満たされた生活の中で、たったひとつだけ我慢できない点があるとすればこれだった。
「“働かざる者―― 」
「食うべからず”ってか。だがな、他ならぬ俺がそれを許してるんだ。怪我人の女に仕事をさせるほど、レッド・フォースは人手不足じゃねェ」
分かるだろ、とシャンクスはさっきベックマンが私にしたのとちょうど同じような―― 幼い子どもに言い聞かせるがごとき口調で私に語りかけた。
「こう見えてあっちじゃもう働いてたんだよ。酷いヘマはしない、絶対」
「見張り台から落ちるような奴が?」
痛いところを突かれて、う、と言葉に詰まった。
「見てたの?」
「聞こえた。俺の耳の良さ、知ってるよな」
とんとん、と彼は自分の耳朶を指先で指し示した。
うっかりしていた。彼の五感が獣並みだということは、文通時代から知っていたはずなのに。
「自分がトロ臭いことぐらい分かってるよ、もちろん。でも、これだけ大きな船だったら、私にできる仕事だってひとつくらいあると思うんだ」
「例えば?」
「皿洗いとか、洗濯とか」
「数十人分の洗い物をひとりで運ぶつもりか?」
「……ものすごく頑張ればなんとかなるかも」
「適当なことを言うな」
ここで『なにかやらせて、お願い』などとしなを作れるぐらいの女なら、二十年余りの人生はもう少し実りあるものになっていたに違いない。残念なことに、この地味な顔に女らしい仕草が恐ろしく似合わないことを知っている私は、いつだってひたすら一生懸命説得する他ないのである。
「プラプラ遊んでばっかりで申し訳ないって気持ちはもちろんあるんだけど、正直なことを言うとね、本当は自分が嫌なだけなんだ。何もかも他人にお世話になってるとどんどんダメになっていく気がする」
すごく贅沢で勝手な考えだけど、と付け加えた。
白状した通り、仕事がしたいという思いは、周りへの気遣いなどという立派なものではなくて、誰かが生み出した成果物を何もせずに受け取るのは心苦しい、という極めて個人的な理由だった。
私の顔をじっと見つめた後、シャンクスは再び深いため息をついた。
「そこまで言うのなら、ひとつ任せたいことがある。頼まれてくれるか」
「ほんと!?ここまで言っておいて今更ではあるんだけど、その……私にもできることかな?」
「もちろん。それどころかあんたにしかできないことさ、強情なるイチル」
シャンクスは苦笑しながら、私の頭にぽんと手を乗せた。