まっすぐな水平線の向こうにゆっくりと太陽が沈んでいく。
海に映った鮮やかなオレンジ色の半球が、チカチカと目の裏を刺激した。
「帰れないのかな」
宝石箱を追って、アンタナ・リボナから“市場の島”へ、“市場の島”からポーンショップ島へ、さらにはレッド・フォース号へ。やれることは全部やってきたはずなのに、何の成果も上がらないまま袋小路に入り込んでしまった。近づいてはすり抜けていく手がかりに、心が疲弊してきているのを感じる。
どこまで行っても、私は元の世界には帰れないんじゃないか。
大人が子供に戻れないように、この世には不可逆的な変化が無数に存在する。いやむしろ、元に戻れることの方が稀だとさえ言えるだろう。
世界の境界線を踏み越えたその瞬間に、私はあちらで生きる権利を喪ってしまったのかもしれなかった。
29 名も知らぬ、遠き島より(Ⅲ)
広い甲板に人の姿はない。
海に向かい手すりに肘を乗せると、波を裂くレッド・フォース号の低い唸り声が身体の奥に響いてきた。
重苦しい胸の内を少しでも和らげようと、歌を口ずさんでみた。好きだった歌手の曲にはじまって、良く流れていたCMソング、学校で習った課題曲、有名な映画のテーマ、と思いついたものを片っ端からメドレーのように繋げていく。
そして最後に、とある童謡に行き着いた。
幼い頃、おばあちゃんが教えてくれた懐かしい歌だ。明るいメロディなのに、どこか寂しく悲しい響きのするこの歌を、おばあちゃんは好んで歌っていた。
「流れ寄る、椰子の実ひとつ」
ひとり娘を喪い、幼い孫娘と二人でこの世に残された彼女は、どのような思いで私にこれを聞かせていたのだろう。
寄る辺なく、ゆらゆらと漂い出てしまった異郷の椰子の実。
たったひとりで生きていくには、世界はあまりにも広すぎる。
一面オレンジ色に染まった甲板に、黒く長い人影が伸びた。
潮気でざらついた木板を軋ませながら近づいてきた足音は、私のすぐ後ろで止まった。衣擦れの音がしたかと思うと、肩に大きな上着がかけられた。
「聞けないこともないが、まァ、人には聞かせられねェな」
「下手くそな歌でごめん」
「そういう問題じゃない」
眉を寄せたシャンクスは、私と並んで手すりにもたれ、夕暮れの海に目を向けた。
「どうだ?」
たった一言だけだったが、何を聞かれているかはすぐに分かった。
「すごく素敵な船だね。人も含めて」
「自慢の相棒だからな」
「乗せてくれてありがとう。ずっと夢だったんだ。こういう船に乗るの」
シャンクスと一緒に、という言葉は言わないでおいた。口では言えないことも手紙では言える、そう言ったのは他ならぬこの人なのだから。ならば、その反対の気持ちもきっと分かってくれるだろう。
「航海は楽しいか、イチル」
「うん、すごく。ずっと海のそばで暮らしてきたけど、海がこんなに大きいなんて知らなかった」
「“この海”は特にな。どこまで行っても果てがない」
「……ねえ、寂しくないの、シャンクス」
こんなに広い海の真ん中で。
水平線を見つめていたシャンクスがこちらに向き直った。赤い髪が夕日を弾いて、燃えるような鮮やかさを見せた。
「呼ばれてしまえば、もう逃げられない」
かすれた声が苦悶の言葉を紡ぐ。だがその瞳の奥には蕩かされたような憧憬の色があった。
「怖いところだね」
「ああ。海の女神は嫉妬深い」
ロジャー船長もそう言っていた、と懐かしそうな表情を浮かべた後、彼はふっと笑みを消した。
「イチル、自由ってのはそういうことだ。選んだ以上は戻れねェ」
どこまでも私を甘やかしてきたシャンクスが、はじめて言葉に厳しさを乗せた。心臓を柔らかく握り潰されるような苦しさを感じて、強く目を閉じた。
分かっている。選んだのは自分だ。帰るため『日誌』の謎を追うと決めた、それだけじゃない。
“Who are you?”
そう問い返した時にはもう、私は歩きはじめていた。庇護と安寧を手放し、自由と冒険を求める道を。
再び目を開くと、彼はすでに緊張を解き、穏やかな気配を纏ってどこか遠いところを見つめていた。
横顔は人の心を巧みに隠す。彼の瞳に映るものを知る術はなかった。
「だがな」
前を向いたままの彼が再び口を開いた。波が語りかけてくるような、ゆっくりとした口調だった。
「どんなに強い船乗りだって、漂ってばかりじゃ疲れちまう。だから陸に上がっては、酒を飲み、女を抱く。誰も彼もがそうせずには居られない」
彼は手すりから身体を起こし、こちらに向き直った。水平線を追いかけていた琥珀色の双眸がようやく私の元へ戻ってくる。
「海は広くて寂しいな」
「……うん」
逞しい隻腕に抱き寄せられるまま、大きくあたたかい胸に顔を埋めた。涙はとめどもなくあふれてきて、いつまで経っても止まらなかった。
シャンクスは子を愛おしむ親のように、私の背中を優しく撫でた。
ゆっくりと行っては戻る手のひらのぬくもり。今やっと思い出した。海は厳しくて恐ろしい。でも、流した涙も嗚咽もすべて隠してくれる、とても優しい場所だった。
腕の中で散々泣いた私は、太陽がすっかり沈んでしまった頃、ようやく顔を上げた。
が、自分の顔面の惨状に思い至って、すぐに俯いた。
「ごめん」
「気に入ってたシャツが鼻水だらけだ」
上の方で小さく笑う気配がした。
「でも、すっきりしたろ」
うん、と頷くと、頭をぽんぽんと叩かれた。
この様じゃあ、自分が大人なんて口が裂けても言えそうにない。元々大人じゃなかったのか、それとも大人が子供に戻ったのか。どうでも良さそうな違いが、今は大切なことのように思えた。
今度こそ顔を上げて、シャンクスに向き合った。
「シャンクス、聞きたいことがあるんだけど」
「ん?」
「マリージョアへはどうやって行けばいい?」
彼はわずかに目を見開いて、困ったような顔をした。子供の無邪気な問いに戸惑い、答えあぐね、苦笑する大人の顔だった。
「そうだなァ。海賊王になったら、その願いも叶うだろうな」
「シャンクスが?」
「いや、俺じゃなくてイチルが。行きたいのはあんただろ」
「うん」
「じゃああんたがならなきゃ意味ねェよ。そう、イチルが海賊王に……海賊王ねえ……ぶっ、あっはっは」
私が海賊王になった姿を想像したのか、シャンクスは自分の発言に腹を抱えて笑いはじめた。
「ダメだ、これ以上似合わねェ奴もいねェ!」
「自分で言っといて笑うなー!」
そう答えながら、私も噴き出してしまった。私が海賊王。なるほど、それくらいしないと行けない訳か。
一生かかっても行けない、というダメ押し宣告をされたも同然なのに、今回は不思議と悲しくならなかった。
「はああ、振り出しに戻る、だね」
「振り出しに戻ったことが分かっただけでも、一歩進んだんだ。良かったじゃねェか」
「また受け売り?」
「分かるようになってきたな、イチル」
シャンクスがいたずらっぽく口角を上げた時、チクッ、と胸のあたりが痛んだ。ときめきで胸が苦しいとか、シクシク痛むとか、そういうロマンチックなものでなく、なんというかこう爪楊枝で肌を突かれるような、物理的な痛みだった。
手を突っ込んで服の下のまさぐると、すぐに指先が痛みの原因に行き当たった。
「ああ、これか」
どうやらさっき抱きついた時、肌に引っかかったらしい。
首元から引っ張り出したネックレスの先についていたのは、シャンクスがくれたあの鱗のお守りだった。
「まだ持ってたのか」
彼は意外な物を見たというように目を瞬かせた。
深海の色をした厚く艶やかな鱗が、夜空を写しとったごとくに手の上で煌めいている。無数の星を沈みこませたような神秘的な奥行きは、見た者の心をゼロに洗い戻す小さな宇宙だった。
「夜光魚、だよね」
「土地の者は凍魚とも呼ぶ」
「すごく貴重なものなんでしょ」
「まあな。“東の海”のごく一部の海域にしか生息しない上、普段は恐ろしく深いところにいて、滅多に人の目には留まらない。手紙にも書いたが、ナイト・サファイアでできた鱗には魔除けの力があると言われていてな」
そこでシャンクスは言葉を切り、なぜだか目を伏せた。
「それが故に、“四海の至宝”と呼ばれている」
「“四海の至宝”?」
はじめて耳にする言葉に、首をかしげた。
「四つの海にそれぞれ存在する貴重な宝のことだ。まあ、貴重と言っても昔の人間の感覚だから、今じゃ見つけるのも手に入れるのも大して難しくはないんだが」
向こうで言う、世界三大珍味みたいなものだろうか。フォアグラ・トリュフ・キャビア。ちょっと高級なレストランに行けば誰でも食べられる。
「へえ、他にはどんな宝物が……いや、ちょっと待って」
脳裏に一瞬何かが過ぎった。なんだろう、この感覚。
ドッドッと駆けはじめた心臓を、深呼吸でなだめる。
「知ってる」
たずねる必要などなかった。私はそれをすでに知っている。
頭のなかを駆け巡る情報を拾い上げ、結び合わせていく。
凍魚。ナイト・サファイア。ウロコ。“四海の至宝“―― “四つの海の交わるところ”。
バラバラだったものがひとつに繋がり、目の奥に稲光のようなしびれが走った。
「分かった」
肌が粟立つほどの興奮に突き動かされて、私は甲板を走りだした。自分の部屋に戻り、目当てのものを引っ掴んで、今度は書斎へと走った。
「失礼します!」
ノックもそこそこにドアを開けて飛び込んだ先には、珍しく驚いた顔をしたベックマンがいた。
「どうした」
「地図、地図を貸してください!」
必死の形相をしていたためか、ベックマンは何も言わずに世界地図を広げてくれた。
いつの間にか追いついてきていたシャンクスを地図の前まで引っ張ってくる。
そして、さっき部屋から持ってきた物―― 『日誌』のとあるページを開いた。そこにはあの詩が書かれていた。
西に往きては、壮麗たる大柱そびえるソルモーンの大神殿。
北に往きては、雪よりも白きフレヴァナの森。
東に往きては、凍魚がまとうナイト・サファイアの鱗。
南に往きては、月色に輝く海カゲロウの夜。
「シャンクス、凍魚の生息地はどこですか?」
古傷だらけの指が迷いなく“東の海“の一点を指した。私はその点にペンで分かりやすく丸印を付けた。
「じゃあ、ソルモーンの大神殿は?」
今度は“西の海”の片隅が示される。
海カゲロウは、と問う前に、ベックマンが“南の海”のとある海域をとんとんと指先で叩いた。
「冬の間は常に移動しているが、夏になればウィリアード諸島南東のサンゴ礁で繁殖する」
シャンクスの代わりに答えた彼は、続いて残る一点についても言及した。
「“フレヴァナ”はコーヴランの時代に使われていた古名だ。時代を経て開拓され、今は“北の海”の町として別の名で呼ばれている。いや、呼ばれていたと言うべきか。美しい町だったが、十数年前に誰も住まなくなった」
ここだ、と指された場所にペンでしるしをつけると、計四個の丸が紙の上に出揃った。
震える手で東と西、南と北を結んでいく。
地図上に、大きな十字架が描かれた。その中心、二本の直線が交わった場所はマリージョアでもリヴァース・マウンテンでもなく、“偉大なる航路”のとある一点だった。
動きっぱなしの心臓がさらに激しく打ち始めた。
「この海域の拡大図はありますか?」
ベックマンが棚から古い海図を取り出し、机の上に重ねて広げた。
世界地図から十字架を写しとると、その中心はある小さな点にピタリと重なった。
“偉大なる航路”に浮かぶ絶海の孤島。
「“神下りし地”ハラントゥーガ」
静まり返った部屋の中に、低い声が響いた。