誰かに見られている気がする。
背中に視線を感じ、立ち止まった。振り返ってみるが、後ろには誰もいない。
引き返すべきだったかもしれない。
裏口から出てすぐに「まずい」とは思ったのだ。
両側に立ち並ぶ“店”に視線をやって、ため息をついた。
どうやら入ってはいけないところへ迷い込んでしまったらしい。
31 路地裏の追走劇(Ⅱ)
一言で言うと、今現在私が歩いている場所は“大人の街”だった。
自分から足を踏み入れたわけではもちろんない。さきほどの下着屋の裏口がそのまま裏通りに面していたのだ。
この世界においては子供のごとく世間知らずの私でも、胡乱げな看板をちらほらと目にすれば、そういう場所であることはすぐに分かった。
とはいえ、出て来たばかりの店に戻り、あのお熱いカップルの横をすり抜けていくのもあまりよろしいやり方ではない。昼間という安心感に背中を押されたこともあり、結局そのまま裏通りを通って帰ることにしたのだった。今となっては後悔の種である。
道の両側には、間口の狭い建物が枯れ病を患った木々のように立ち並んでいる。光がろくに差し込まないせいで、地面は冷え冷えとじめついていた。
そんな路地の空気を吸っているせいか、店の前で客引きをする女たちは皆揃って顔色が悪く、またそれらの声に応えて入っていく男たちも冴えない顔つきの者ばかりである。普段、心身ともに健康優良な青年(および壮年)を見ているため、余計にそう感じてしまうのかもしれない。彼らは犯罪者にしては陽気過ぎるのだ。
進めば進むほど裏路地の雰囲気は怪しさを増していっていた。
世間の目が届かないところには、世間の目を避けたい人間が集まるものだ。表通りに比べて、治安が良いはずはないだろう。
早くここから出なくては、と焦りつつもいまだ帰り道は分からなかった。
方向音痴ではないことを自負する私も、似たような建物に閉ざされた、見知らぬ街では流石に分が悪かった。
「ウォーカー達、今頃やきもきしてるだろうな」
はじめて来た場所とは言え、買い物に出て迷子になるとは。こんな調子では、先の旅が思いやられる。
脳裏に浮かぶのは先日の出来事だ。『日誌』の謎が解けた夜、彼らは私にこう言った。
『ハラントゥーガに行きたいというのは分かった。だが、忘れるな。あんたは“客”だ』
ベックマンの言葉は、ヤソップが以前私に対して使った“客”とは全く違う響きを帯びていた。『そうだろ、お頭?』
念を押すような問いかけに、シャンクスは重々しく頷いた。
言いたいことは良く理解できた。海賊船レッド・フォース号が易々と私のごとき小娘の“足”になるなど、あってはならないのだ。例え彼が許したとしても、彼の立場はそれを許さない。
シャンクスは、机から『日誌』を拾い上げ、私の手に乗せた。
『今日はここまでだ。この件については、日を改めて伝える』
有無を言わさぬ口調で下された宣告に、私は黙って頷くことしかできなかった。
「大丈夫、行ける」
元々一人旅の予定だったのだ。どこへだってひとりで進んでやる。
ところが、胸を張って歩き出した途端、またどこからか見られているような感じがした。
今度は立ち止まらずにちらりと視線だけを後ろにやった。だが、客引きの女と深帽の男が路地の壁際で密会していただけで、他に人影は見当たらなかった。顔を近づけて囁き合う二人をさっさと視界から放り出して、先を急ぐ。
薄暗い裏路地に、得体の知れない追跡者。襲ってきた悪寒にぶるりと身体を震わせて、元々早足だった足をさらに早く動かした。
「私なんて追いかけても何もいいことないですよ……私は空気……空気です……」
お金もないし、ついでに胸も尻もない。不安を薄めたい一心で元も子もないことを呟いてしまう。
“どこへでも行ってやる”とのたまった勢いはどこへやら、顔を伏せて裏通りをこそこそ歩いて行くと、じきに空き地のようなひらけた場所にたどり着いた。
やつれた老人が隅の階段に腰掛けて、新聞を読んでいる。場末のパチンコ屋や競馬場の前にいそうな雰囲気の人、と言えば分かりやすいだろうか。世界は違えど、人間の典型はそう変わらない。この半年間に学んだことのひとつだ。
ヒック、と酒臭そうなしゃっくりをした彼は私の視線に気づくと、持っていた新聞で鬱陶しそうに顔を隠した。
道を尋ねようと近づきかけていた私は、あからさまな拒絶の態度に二の足を踏んだ。
もう少し行って誰もいなかったら、戻ってきて聞こう。心の中でそう決めて、空き地を通り抜けようとした時、ぐっと誰かに肩を掴まれた。
「お姉さァん。何やってんのォ?」
無理やり私を振り向かせたのは、数人の若い男たちだった。
馴れ馴れしく私の肩に手を載せた男が、くっちゃくっちゃとガムの音を立てながら見下ろしてくる。無気力に開いた口といい、軽薄そうな目元といい、ゴロツキやチンピラと呼べるほどの面構えではなかった。あちらの人間に例えるならば、“調子に乗った大学生”という表現が最も相応しいであろう連中である。
「暇なら遊ぼうぜ」
「すみません、先を急いでいて」
「仕事?お店どこ?」
「そういうお仕事はしていなくてですね……」
下着屋の店員と同様、私を上から下まで眺め回した彼らは「確かに」という顔をした。胸やお尻のあたりを見て露骨に頷くのはやめていただきたい、とさっきまで自虐に走っていたことを棚に上げて、私は心の中で眉を寄せた。
「まァ、それの方がいいか。俺ら酒場でスッちまって、文無しなのよ」
「仲間がご傷心でさァ、慰めてやってくんねェかなァ」
ふざけるように、ガム男が隣の仲間の肩を叩いた。
「うるせェ。あんな女、今更どうでもいいんだよ」
苛々とその手を振り払ったのは、驚いたことにさっき下着屋に来ていたマックとかなんとかいう男だった。ペットショップで動物を品定めするような、なぶるような視線にピンと来た。
ずっと追いかけてきたストーカーはコイツらか。
「マックさん、ついさっきレイシィちゃんにフラれちまって、欲求不満なんだよ」
「レイシィちゃん可愛かったのになぁ」
あのアツアツぶりから、どうすればこの短時間で三行半を突きつけられるのか謎でしかないが、レイシィちゃんもようやく目が覚めたのかもしれない。
「ま、そういうことで、誰でも良いって言ってるんで、お姉さん付き合ってくんねェ?」
「減らねェんだから、それぐらい別にいいだろォ」
からかうように顔を覗き込んでくる取り巻き連中と、ポケットに手を突っ込んだまま黙って横柄に見下ろしてくるマックに無性にイラッとした。
減るとか減らないとかそういう問題じゃない。誰でも良い?
「すみませんけど、他をあたってください」
「アア?」
気弱に従うと踏んでいた相手から意外な抵抗を受けて、ガム男は急に高圧的な声を出した。お前程度の女にわざわざ声かけてやってんのに何だその態度は、というところだろうか。
女としての魅力に乏しいことくらい知っている。しかし、だからと言って、こんな馬鹿そうな奴らに見下される謂れはない。
ふつふつと湧いてくる怒りを深呼吸で鎮めた。
真面目に取り合うなんて時間の無駄だ。
形だけの会釈をし、その場を離れようとした時、マックが強引に二の腕を掴んできた。
そして、絶対に言ってはいけないことを言った。
「何もったいぶってんだよ。こうでもないと男と遊べねェだろ?あ?」
頭の隅っこで、何かがぷちんと切れた。
「……ゆ…」
「なにぼそぼそ言ってんだ?」
「……ゆ……す」
「てめぇみたいな冴えない女は―― 」
「……許さん。潰す」
マックがぎょっと目を見開いたのと同時に、内ポケットに挿してあった警棒で股間を思いっきり殴りつけた。あまり聞きたくない鈍い音の後、グオゥ、と亡者の叫び声のようなものが聞こえた。
続いて呆気に取られている仲間の脛を力いっぱい蹴飛ばす。ボンちゃんから教わったものの、使う機会は巡ってこないだろうと思っていた痴漢撃退シリーズがついに火を噴いた。
敵が悶絶している隙を狙って、私は空き地を飛び出した。
「あ、あ……にィ、逃がすな!」
男たちが落ちていた木材や鉄パイプを手に手に、口の脇から唾を飛ばしながら追いかけてきた。もちろん内一名は内股である。
独り身の女をコケにした罪は重い。お前らなんかに捕まってたまるか。
細い路地を選んではすり抜けるようにして逃げていく。だが、少し走ったところでじきに息が切れてきた。
度胸は多少ついたものの、体力・筋力はともに以前と大して変わっていない。この世界の人々は皆揃って体力の目盛りが桁違いだから、ここで暮らしていれば私も同じような身体を手に入れられるんじゃないか、そんな風に思っていた時期もあった。ところがどっこい、現実はそう都合良くはいかず、ここ一ヶ月近く安楽な生活をしてきたツケはしっかりと私の身体にのしかかってきていた。
でも、多分、もうちょっとで、逃げきれる!
暗い通路の少し先に光が見えていた。あそこまで行けば人がいる。最初はあれだけ煩かった男たちの怒声も、途中からだんだんと小さくなって、今はもう聞こえなくなっていた。
このまま振り切ってしまえ。
ところが最後の直線を走り抜け、光の中へ飛び出してすぐ、私は急ブレーキをかけた。
「あぶなっ……」
想像していた通り、路地の先は外へと繋がっていた。が、行き交う人々の群れは目の前ではなく、たっぷり十メートルは下に見える。
辿り着いた場所は、どこかの建物の屋上だった。マンションの屋上のように足元は崖っぷちになっており、足を滑らせば低い手すりを乗り越えてそのまま二階ほどの高さから表通りに落ちてしまいそうだった。
ずっと平らな道を走ってきたつもりだったが、入り組んだ通路にはわずかな勾配があったらしい。気付かないうちにこんな高いところまで登ってきてしまった。
ハァハァと荒い息が聞こえたので後ろを向くと、今通ってきた通路から例の青年たちが現れた。
「やっと、追いついたぜ」
「お姉さんよォ、ちょっと調子乗りすぎじゃねェの」
目を血走らせ、ゾンビのようにフラフラと近づいてくる若い男たち。
逃げようにも逃げ道がなく、少しずつ追いつめられていくうち、とうとう背中に屋上の手すりが当たってしまった。リーダー格のマックが目を血走らせて、襟首を掴んできた。
「助けを呼んでも誰もこねェよ。今からどうなるか分かってんだろうな。死ぬほど後悔させて―― 」
青年たちが勝ち誇ったような顔をした時、ごほん、と誰かが咳払いをした。
「あー、昼間からお盛んなことで」