32 路地裏の追走劇(Ⅲ)
「あー、昼間からお盛んなことで」
そんな声とともに、どこからともなくもったいぶった咳払いが聞こえてきた。袋のメス鼠をどう料理してやろう、と舌なめずりしていたマックは、不意をつかれた小動物のようにびくりと動揺した。
「だ、誰だよ!」
「悪ィ悪ィ、驚かせちまったな」
謝罪しつつも全く悪びれたところのないその声は、屋上の片隅から聞こえてくるようだった。
隣の建物の陰になったそこには、誰が使うのか古びたベンチが置いてあって、男がひとり新聞を広げていた。
被っている帽子に見覚えがある。さっきの裏路地で女と密会していた男だ。あの時はこちらに背中を向けていたから、顔を見ることはできなかった。
と、そこまで真面目に考えた後、私は現実から目をそらすのをやめ、ため息をついた。
あなた、なんでこんなところにいるんですか。
「まァ、若ェ時はそんなもんだよな」
髪が見えないように帽子のツバを引き下げて、彼はゆっくりと立ち上がった。頭一つ抜きん出たその上背に、青年たちは一旦後退ったものの、相手が丸腰なのを知った途端、顔を見合わせて笑いはじめた。
己よりも一回りほど歳上の男の、くたびれたシャツにちらりと視線をやって、さっそくマックは威圧的な声を出した。
「今いいところなんだよ。邪魔すんな、おっさん」
「おっさんじゃねェ、まだ三十代だ」
「十分おっさんだよ!さっさと消えねェと頭カチ割るぞ!」
「おいおい、危ねェ奴だな」
マックが威嚇するように鉄パイプを振り回すと、帽子の男は困り顔で隻腕をパタパタと振った。
下手な芝居に呆れて言葉も出ない。危険人物の総元締のような男が何を言うのだ。
そんな私の心中はもちろん、自分の前にいるのが誰かも知らない哀れな青年たちは、意気揚々とさっき中断されたガンたれの続きを再開した。
「アアン?やるってのか?」
「この人はなァ、ここいらの頭やってる“血まみれ”マックさんだぞ」
「なにせ隣町にカチ込んだ時に五人も病院送りにしちまったんだからな」
取り巻きにもてはやされた“血まみれ”マックは額に青筋を立てて、精一杯恐ろしい顔をして見せた。
いたたまれない。散々追いかけまわされたにも関わらず、「早く逃げて!」と叫んでやりたくなった。
「さっさと失せろ。“血まみれ”になりたくなかったらな」
「そうしたいのは山々なんだが、そいつに用事があってな。連れて行ってもいいか?」
「ハァ!?舐めやがって!」
そいつ、と顎で私を指し示した男の態度に、血気盛んな青年たちの堪忍袋の緒はあっさりと限界を迎えたようだった。癇癪を起こしたマックとその取り巻きたちは、鉄パイプを握りしめて一斉に男へと飛びかかった。「死ね!」
危ない、シャンクス―― 叫んだ名前は、大きな手に遮られ、口の中にとどまった。
「今は、通りがかりのお兄さんだ」
口を塞いだ手を離して、彼は「しぃ」と人差し指を立てた。キザな仕草がやけに似合っていて、一瞬目を奪われる。
「うーんと、怪我はねェな」
私の身体を上から下まで眺めた後、シャンクスは満足そうに頷いた。
あれ、こんなことしてる場合だっけ?
“血まみれ”マックさんは?
状況が飲み込めなくて呆けていると後ろで、カラン、と鉄パイプの落ちる呆気無い音が聞こえた。
音の出どころに視線をやると、青年たちが金縛りにあったように立ちすくんでいた。その足元には、さっき振り下ろされたはずの鉄パイプがひしゃげて転がっている。
「なんでだよ、確かに身体に当たって……」
「一瞬で移動しやがった!」
しばらく経って現状を認識しはじめた彼らは、絞められた鳥のような悲鳴じみた声を上げた。
集団リンチに遭いかけていたのに、何事もなかったかのように私の隣に立つ男。
にわかには信じがたいが、どうやらシャンクスは鉄パイプの攻撃を弾き飛ばした後、私の近くに移動してきたらしかった。その間、およそ瞬き一回分。
人間離れした動きに臆し、青年たちがじりじりと退っていく。ところがこの期に及んで一人だけ状況を把握できていないらしいマックは、取り巻きを押しのけ前に出た。
「だ、誰だか知らねェが、俺に手ェ出したら“赤髪”が黙ってねェぞ!なにしろ、俺のバックには懸賞金七百万超えの大海賊“赤髪の右腕”モースさんがついてんだからな!」
「“赤髪の右腕”?」
突如飛び出してきた名前に、当のご本人はきょとん、と目を丸くした。
(そんな人いるの?)
(全く心当たりがないんだが……俺が忘れているだけか?)
(じゃあ、ファンの人かもしれないね)
(野郎に好かれても嬉しくねェ)
(私にそんなこと言われても)
耳元に手をあてて、こそこそと話しかけてきたシャンクスに、同じくこそこそと囁き返す。
何を勘違いしたか、マックは勝ち誇ったように地面を踏み鳴らした。
「ハッ、今更後悔しても遅ェ!テメエらはここで死ぬ!」
「話せば分かる、ちょっと待てって」
「うるせェ!」
制止の声を耳にも入れず、マックはがむしゃらにシャンクスに組み付いた。が、次の瞬間には白目を剥いて地面にひっくり返っていた。
文字通り秒殺されたリーダーを前に、仲間たちは口をぽかんとあけた。
「だから待てっていっただろうが。人の話を聞け」
呆れ顔のシャンクスが頭を掻いた拍子に、ふわりと帽子が地面に落ちた。鮮やかな赤色が陽のもとに晒される。
「え……?」
「あー、やっちまった」
場にいる者の視線をことごとく釘付けにしたシャンクスは、よっこらせ、と億劫そうに帽子を拾い上げた。
リーダーがやられた後、黙ったまま地面に落ちた鉄パイプとマック、そしてお互いの顔を交互に見ていた青年たちは、目の前の“赤髪”を恐る恐る見上げ、ぎこちなく笑いはじめた。
「いや、いくらなんでもそれはねェ、よなあ?」
「髪が赤いなんて良くあるしな……大体こんなところにいるわけねェじゃん、うん、多分……」
「でも片腕……目の三本傷も……」
一人がぽつりとそう言った途端、彼らは揃って面白いほど顔面蒼白になった。
「まさか本当に、あ、“赤髪”?」
「呼んだか?」
声に反応した赤い髪の男に、青年たちは死人のような顔色のまま、首を激しく横に振った。
「ま、別にいいか。バレちまったもんは仕方ねェ」
シャンクスは開き直ったように、あっさりと言い放った。
意外にも寛容な態度を見せた海賊の親玉に、青年たちは目に見えて胸を撫で下ろした。だが、哀れな彼らが安堵の息をつくことができたのは、ほんのひとときだけだった。
“赤髪”は青年たちを睥睨し、人相悪く口角を上げた。
「ガキの数人、眠らせちまえばいい話だ。運がなかったな、お前ら」
土の下か海の底か。“眠る”の意味を考えるだけの勇気がなかった彼らは、笑うように歪められた三本傷を前に、小さく「ヒィ」と啼いた後、泡を噴いて地面に倒れ伏した。
「船が出る頃には覚めるように加減して……ん?」
「もう気絶しちゃってるね」
「なんだ、覇気は使ってねェぞ」
生きた屍と化した青年たちをつま先で転がして、シャンクスは至極つまらなさそうな顔をした。
その赤い髪にとりあえず帽子を被せた後、私は背筋を伸ばし、高いところにある彼の顔をじっと見つめた。応じるようにシャンクスも姿勢を正した。
「それで、お頭。ひとつお尋ねしたいことがあるのですが」
「はい」
「何でこんなところにいるんですか」
「……ベックには内緒な」
「やっぱり」
部下泣かせのわがまま船長は私の手を包み込み、「頼む」と擦り寄るような笑みを浮かべた。その途端、傷のある、端正な顔立ちが妙な魅力を帯びて、私の心を嫌というほど揺さぶった。
これだ。彼の腹心を筆頭に、誰も彼もがきっとこれにやられてきたのだ。
男も女も関係なく、人を惹きつけて離さない。カリスマと呼ぶには無邪気に過ぎ、愛嬌と呼ぶには苛烈に過ぎるそれは、天が彼に与えた数えきれないほどの特別な力の中で、最も特異で恐ろしいものかもしれなかった。
「無意識にやっちゃうんだから、余計にタチが悪いと思う」
「ん?」
「なんでもない。ベックマンさんが可哀想だって話だよ」
「バレなきゃいいんだ、バレなきゃ」
シャンクスは私を見下ろして、「さてと」といたずらっぽい笑みを浮かべた。
「目撃者には口止めが必要だな」
「やり方が汚い」
「大人の取引と言え」
行くぞ、と元来た道をたどり始めたシャンクスは、倒れた青年たちをまたぎ越える時、低い声で足元に向かって何事かをつぶやいた。
「何か言った?」
「―― 怪我がなくて良かったな、ってな」
朝市の活気も落ちついて、昼下がりの表通りは穏やかな賑わいを見せていた。ほどよく乾いた秋島の空気が、ゆるゆると首元を吹き通っていく。
「結局、最初からいたの? 三人と別れたあたりから」
「ああ。せっかく護衛を付けてやったのに、ひとりで行っちまうんだもんな」
油断も隙もねェ、とシャンクスは目深に被った帽子の下から、じろりとこちらを見た。
どうやら、あのストーキングの真犯人はこの人だったらしい。道理で登場のタイミングが良すぎる訳だ。
「挙句の果てに通りすがりのチンピラに喧嘩を売るたァ。無謀に突っ込む癖、そろそろ直せよ」
「ごめん。でも色々と事情があったんだって。不可抗力だよ」
「へェ」
何がへェ、だ。最初から着いてきていたなら私がその後どこへ行ったかも知ってるくせに。パンツの入手場所まで知られてしまうとは、プライバシーも何もあったものじゃない。
「うん、もういいや。オープンにいこう」
「そうだ、小さいことは気にするな」
男ばかりの船で神経質なことを言っている方がナンセンスなのだ。シャンクスも含め皆、私のことなど乳臭い小娘程度にしか思っていないだろうし、変に恥ずかしがる方が自意識過剰のようでかえって恥ずかしい。うん、そうに決まっている。
「それよりも、シャンクス。ウォーカーたちが探してると思うんだけど……」
「イチル、アレ見ろよ」
私の言葉を遮って、シャンクスは通りの両側に立ち並ぶ出店のひとつを指差した。
店先にはカラフルな砂糖菓子が輝くばかりに並んでいて、思わず唾を飲み込んでしまう。そんな私を満足気に見下ろした後、彼は手首を掴んで、店の前へと引っ張っていった。
「オヤジ、精が出るな。一瓶くれ」
「おう、まいどあり」
店主にお金を支払って瓶を受け取った彼は、「ほらよ」と軽く投げ渡してきた。
「おっとっと」
「やっぱりドン臭いな、イチルは。ずっと想像してきた通りだ」
妙な動きで瓶を受け止めた私を見て、シャンクスが笑った。
「向こうじゃ私くらいの歳の女性は皆こんなもんなんだけどなあ。ま、言われても仕方ないね。こっちの人はびっくりするくらい身体能力が高いから」
「金的の手際だけは一級だけどな」
ひゅう、と囃し立てるように口笛を吹かれる。褒められている気がしなかったので無視を決め込んでおいた。
「どこかに座るか。あそこの岩なんてどうだ?」
「いいね。走り回ってちょっと疲れちゃった」
表通りから抜けだして、道の脇の木陰に腰を下ろした。ちょうど良い高さの岩に、ふたりしてぴょんと飛び乗る。
さていよいよ、と瓶の蓋をねじ開けようとしたが、固く締められすぎているのか、びくともしなかった。うんうん言いながら力を込めていると、上から大きな手が伸びてきて瓶をさらっていった。
シャンクスは顎と肩で器用に瓶を固定して、片手で難なく蓋を開けた。
「力は弱いし、体力もない。でも、そんなイチルが不自由なく暮らせるんだから、あんたの故郷は良いところなんだろうな」
厭味でもなく、皮肉でもなく、純粋な賛辞だった。
故郷、と聞いておばあちゃんの顔が思い浮かんできたが、不思議と今日はそれほど寂しく感じなかった。
待ち遠しそうなシャンクスの口に水色の砂糖菓子を放り込み、次いで自分の口にもひとつ入れた。
舌の上で砂糖がゆっくりと溶けていく。
「満たされた場所で生きてきたの。甘いよね」
「だから良いんだけどな」
彼はそう言って、味わうように目を細めた。
「イチル!ああああ!どこにいたんだよォォォ!」
“抜けだしたことがバレるとまずい”と言ったシャンクスの願いを聞き入れて、別々に船へと帰ると、若手三人組がものすごい表情で抱きついてきた。
「てっきり攫われたのかと思ってよォ……!」
「いつまで経っても戻ってこないし、どこを探しても見当たらないし!」
「助かった……」
大柄な青年たちに揉みくちゃにされて、息が止まりそうになる。必死の形相さえ除けば、大型犬にじゃれつかれているみたいだった。シェパード、コリー、ドーベルマン。
「ごめん」
「ごめんで済んだら海兵なんて要るかァ!俺らはな、船長と副船長からあんたのことを頼まれてたんだぞ」
半泣きで訴えてくるウォーカーに、心底申し訳ない気持ちになった。
「本当にごめん。反省してる」
「あんたがクルーだったら、海に放り込んでるところだ」
冷静な低い声が聞こえて、見習いたちは反射的に背筋を伸ばした。階段の前で腕組みをしていたのは、やはりベックマンだった。
「一度引き受けた以上、万一のことがあったらそいつらも覚悟を決めなきゃなんねェ。海賊の約束ってのはそれぐらいのモンなんだ」
「……すみませんでした」
「とまあ、あんたに対してはこれぐらいにしておく。これから海に沈めなきゃならねェ男がいるんでな」
鳥肌の立つような薄笑いを浮かべたベックマンは、足音も立てずに船長室の方へ消えていった。
ご冥福をお祈りします、船長。
と手を合わせた後、三人には心ばかりのお詫びとして砂糖菓子をお裾分けした。
「ベック!待てって、話せば分か―― 」
遠くから尾を引く悲鳴が聞こえてくる。
レッド・フォース号は今日も平和です。