33 Steady as she goes
ごくりと唾を飲み込んだ。甲板に並んだ船員たちは、息を詰めて海を見つめている。何かが起こる一瞬前の、予感に満ちた間隙。
青く凪いだ海面にボコボコと泡が浮かんだ。
「来るぞォ!」
次の瞬間、激しいしぶきと共に水柱が空高く伸び上がった。頂点まで昇りきると今度は重力に従って海面にとどろき落ちる。荒れ狂う雷のような轟音が船を揺さぶった。
近くの手すりにつかまって、かろうじてバランスを保っていた私は、目の前の“それ”に息を呑んだ。
海のただ中、天突くようにそびえ立ち、船の行く手を阻んだのは、大型トラックくらいはあろうかという巨大なウナギだった。「オオタツウオだ!」甲板のあちこちで喜色を含んだざわめきが起こった。
「焼いて食うと旨いんだぜ」
呆気に取られる私の横で、ラッキー・ルウはうずうずと身体を揺らし、片手を振りかぶった。
「そらよ!」
巨体に似合わぬ身軽なステップを踏み、彼はウナギの横っ面に強烈な平手を叩きこんだ。吹き飛んだウナギの身体が、海面を激しく打つ。一瞬遅れで大波が起こり、甲板をびしょびしょに濡らした。
「いたた……」
塩辛い飛沫を目に浴びてしまい、私は指先でまぶたを抑えた。
視力を取り戻した頃、海に叩きつけられたはずのウナギは、ぐったりと甲板の上に上半身を横たえていた。強すぎる衝撃のせいで海面でバウンドし、再び甲板にうち上げられたようだった。
「一丁あがり。うひょう、今日はタツウオ飯だな」
ルウが鼻歌混じりに腹を叩いた。タツウオのお味は知らないが、彼が楽しみにするほどなら期待しても良さそうだ。
「さあ、野郎どもォ!厨房へ持ってけ!」
集まっていたクルーが、オオ!と雄叫びをあげた。
これだけ大きければ解体作業も手間だろう、という私の予想は空振りし、ウナギはあれよあれよという間に綺麗に分解されてしまった。不思議なことに、血は一滴も出なかった。特別な体構造をした魚なのか、それともルウの一撃に何か仕掛けがあったのか、いずれにせよ私にとっては大変ありがたいことだった。
血を見るのは昔からどうも苦手だった。こんなことを言っている人間は、生き物を食べる資格がないのかもしれないけれど。
「こっちこいよ、イチル」
褐色の肌の若いクルーが、木箱の後ろに隠れていた私に気付き、手招きをした。呼ばれるまま近づいていくと、彼は白い歯を見せて嬉しそうに笑った。
嫌な予感がする。
「ほい、これ」
ぽんと目の前に差し出されたのは、一メートル四方に切り分けられたウナギの身だった。
「暇なら厨房に持ってけ」
「厨房に……?これを?」
太い両腕が軽々と支えるそれは、どう控えめに見ても数十キロは下らない。こんなもの、受け取った途端にぺしゃんこだ。
「食いたいだろ、タツウオ飯」
「旨いぞォ」
いつの間にか側に来ていたクルーたちが口々に、「飯!」「旨ェ!」「飯!」と声を上げた。
飯は食いたし、命は惜しし。ウナギの切り身に押しつぶされて死ぬなんて、いくらなんでも悲しすぎる。
「あ」やら「う」やら、ささやかな抵抗の言葉を口にしてみたものの、若いクルーは邪気なく笑うばかりだった。ぬるつく塊が両腕にのせられる。
「く、くさ……」
生臭さに気が遠のいた時、のしかかってこようとしていた重みがなくなった。
「お前ら、こりゃあさすがに無理だろ」
ひょいとウナギが取り上げられる。
日に焼けた腕の主は、ヤソップだった。
「こんなモン持たせてみろ、あっという間に潰れちまうぞ」
「そんなもんっすかね?」
「そんなもんだ」
納得したらしい若いクルーは、「すまねェ」と豪快に笑いながら、私の肩を叩いた。
ヤソップの視線が、今度はルウに向いた。腹を抱えて笑い転げている彼を呆れ返った様子でたしなめる。
「お前もよ、笑ってないで止めてやれ」
「悪ィ悪ィ」
この色付き眼鏡の男は、冗談と本気の境目がいまだに判然としない。大雑把な言動のせいで、”謎めいた“という枕詞はイマイチ似合わないものの、何を考えているか分からない人物としてはベックマン以上ではないか。ルウは「見えない」、ベックマンは「悟らせない」。
そんなことを考えていると、急に身体が床から浮き上がった。
「うわっ!」
「荷物が持てなくても仕方ねェさあ。イチルはちっちぇえからなあ」
私を背後から抱え上げたのは、スキンヘッドの古株クルーだった。子供に高い高いをするように振り回した後、ひょいと自分の左肩に座らせる。床までたっぷり二メートルはある気がする。
オウムのように肩にとまった私を見て、周囲が再び湧いた。「確かにチビだな」「お頭をぶつのに脚立がいるんじゃねェのか?」「つるぺた」
どさくさに紛れて、明らかなセクハラワードまで飛び交っている。
あちらでは平均内に収まる身長だったため、この船に乗ってからの容赦ない“チビいじり”には閉口せざるを得ない。恐ろしいことに、この船の平均身長は間違いなくNBA平均を超えている。
おばあちゃんのお手玉のように、クルーたちの肩の上で行ったり来たりの玩具にされていた私は、見かねたヤソップが場を解散させてくれたおかげでようやく床の上に戻ることができた。
「ほら、さっさと魚を運べ」ヤソップが指示を出すと、クルーたちは解体されたウナギの残りを持って渋々厨房へと消えていった。
「あいつらは何でもかんでも大味すぎるんだよ。男と女の違いぐらい考えろっての」
「そんなことを言ってくれるのはヤソップさんくらいですよ。今となってはね……」
この船の乗組員は良い意味でも悪い意味でも分け隔てをしない。
最初の数週間は怪我が完治していなかったせいか、はたまた“お頭の客”という肩書きが効いていたせいか、比較的丁重に取り扱われていたのだが、最近はまるでダメだ。ルウをはじめ、ほとんどの者が私のことを見習いの小僧か何かのように接してくる。
「嫌だったら嫌って言っていいんだからな」
「ありがとうございます。でもまあ、結構楽しんでるかも」
ことあるごとに胴上げされたり放り投げられたりの毎日は、確かに心臓には悪い。だが、妙に遠慮されて距離を置かれるよりかはずっと良かった。
ヤソップは可哀想なものを見るような目で私を見下ろした。
「まァ、お前がいいんなら良いんだけどよ。あっさり女を捨てるのはどうかと思うぜ……」
レッド・フォースきっての常識人はため息をついた後、ちらりと後ろに視線をやった。
「ところでウォーカー。そんなところで何やってる」
「クソ、やっぱりバレてたか」
誰もいないと思っていた柱の陰から、ウォーカーが顔を覗かせた。
「お前の気配に気付けなくなったら、故郷に帰って隠居しねェと」
「そりゃ酷いっすよ、ヤソップさん」
「ま、当分は無理そうだけどな。何か用か?」
ヤソップに促されて、ウォーカーは思い出したように私の方に向き直った。
「イチル、船長たちがお呼びだぜ。結構ヤバそうな雰囲気出てたけど、今度は何やらかしたんだ?」
そろそろと手を伸ばし、すぐに引っ込める。
船長室のドアの前で、私は先ほどから同じ行動を繰り返していた。呼びだされた用件は分かっている。
『今日はここまでだ。この件については、日を改めて伝える』
“四つの海の交わるところ”―― ハラントゥーガに行きたい、といった私への返答。何と返ってくるかはだいたい想像がついていた。
彼らは自由に海をゆく。
ちっぽけな私にかかずらうことなく。
頭では分かっていても、賑やかで楽しい生活に慣れてしまった心は頑なにひとりぼっちを拒んだ。
ドアノブにかけた手が、力なくするりと外れる。
「入らないのか」
ドア越しの低い声に、心臓が跳ねた。
私の躊躇いなど筒抜けらしい。こうなったら腹をくくるしかない、と最後の深呼吸をした。一ヶ月近く一緒に航海をし、楽しい思いをさせてもらった。もう十分じゃないか。
「失礼します」
ぐっと力を入れて扉を引き開けると、二つの視線が私に向いた。一人は壁際に腕組みをして立ち、もう一人はソファの真ん中に腰掛けている。シャンクスの手がひらりと対面の座を指し示した。
「立ち話もなんだ。座れ」
ゆっくりと腰を下ろすと、革のソファは深く重く沈み込んだ。
「内容は分かってるか?」
「航路のことだよね」
「そうだ。あんたの今後にも関わってくる話だ」
私が頷くのを確認して、シャンクスは再び口を開いた。
「レッド・フォースの針路に変更はない。船は当初の予定通り、拠点の島に向かう」
ふう、と息を吐いて、絶望したがる心を落ち着けた。
分かっていたことだ。私一人のためにこの大きな船が動くはずなどない。
「じゃあ、私は次の島で」
「最後まで聞くといい」
今まで黙っていたベックマンが唐突に割って入ってきた。私が口を噤むのを待って、シャンクスが先をつづけた。
「目的地に変更はない。が、その途中で“たまたま”予定外の島に寄ることはあるかもしれねェな」
「え、じゃあ?」
思わず顔を上げた私ににやりと笑いかけるシャンクス。
「勘違いするなよ、俺たちゃ海賊だ。行きたい時に行きたいところへ行く。そうだろ、ベック?」
「今更だな、船長」
ベックマンは壁にもたれかかったまま楽しそうに答えた。
「明日の朝、俺の書斎に来い。参考になりそうなモンを貸してやる」
「ありがとう、ございます……」
震える声に、シャンクスは苦笑した。そして瞳を煌めかせ、良く通る声で言った。
「Full speed ahead.(全速前進)」
胸いっぱいにこみ上げてくる安堵感と高揚感に、私はぎゅっとまぶたを閉じた。