部屋の外から、早番作業のかけ声が聞こえてくる。目を覚ました後、ぼんやりと天井を見上げていた私は、しばらくしてとあることを思い出した。
その途端、腹の底から名状しがたい幸福感がせりあってくる。背中がむずむずして、叫びだしそうになる。
誰も見ていないのをいいことに、枕を抱えてベッドの上で跳ねまわった。
これからもまた一緒に旅ができる。ヤソップともルウとも、あの三人ともクルーの皆とも、ベックマンとも、シャンクスとも。
34 凡俗を拒む海(Ⅰ)
鼻歌を歌いながら、長い廊下を歩いていく。心は軽く、足取りも軽い。
目に映るすべてが光って見える。手すりの向こうの海と空は、私の気分を写しとったように爽やかに澄み渡っている。
今日の午後、ウィックの診察を受けることになっていた。手足の傷はもちろん脇腹の銃創もほぼ完全に塞がっており、前回診てもらった時、次が最後になるだろうと言われた。怪我人扱いも今日かぎりだ。
潮風が、淡色のワンピースをはためかせる。薄手の裾が膝小僧に当たり、さらさらと心地よい。前の島の露店で買ったこれは、質という点ではあまり良いものではなかったが、誂えたように身体にあって、着心地だけは抜群だった。
アンタナ・リボナで着たのを最後に、カバンの底に眠らせていたスカートもまた出番を増やしてあげられそうだ。女らしい服が着られることはとても恵まれたことなのだと、一人旅をして初めて分かった。
この上なく満ち足りた気分だった。皆と一緒なら何でもできる。そんな青臭いことを真面目に考えてしまうくらいには。
この船にいたいと思う気持ちは、とうの昔に衣食住から来るものではなくなっていた。寝床や食事があたたかく安全であることは、サバイバル能力を欠く私にとってとても大切なことだ。
でも、本当に手放せなくなってしまったのはもっと別のものなのだ。
「イチル、ご機嫌だな!こっち来いよ」
食堂をのぞきこむと、非番の船員たちがテーブルを取り囲み、カードに興じていた。スキンヘッドのクルーが私の姿を見て口笛を吹いた。
「おう。ガキだガキだと思ってたが、女の恰好すりゃあ、ちゃんと普通の女じゃねェかよ」
「女の恰好をしたら女に見えるのは当たりめえだろうが」
「胸と尻はちっとばかし足りねェけどな」
「商売女じゃねェんだからこれでいいんだよ。素朴な感じで」
遠慮のない感想を口々に述べ立てるクルーたち。だがそんなことはお構いなしに、私はえっへんと胸を張った。
「どうです!これだと子供に見えないでしょう!」
「そういうことにしといてやらァ」
彼らは野太い笑い声を上げ、競いあうように私の頭を撫でた。
内心、くすぐったい嬉しさでいっぱいだった。結局、私はこの関係が好きなのだ。
口で何と言おうとも、彼らは私を女として見たりはしない。父のような、兄のような人たちに囲まれて過ごす生活はとても居心地の良いもので、足りていなかった心のパーツが少しずつ埋まっていくような気さえした。
「ちょこっとやっていかねえか?カワイコちゃんには負けとくぜ」
太い指が、ぴしんとカードを弾いた。
「そんなこと言って結局カモにするくせに。同じ轍は踏みません!タコの踊り食いもしません!」
「バレちまったか」
朝から酔っ払ったクルーたちは、テーブルを叩いて大笑いした。
以前、甘い言葉に誘われて仲間に入ったことがあるのだが、勝たせてもらえるなんてウソも大ウソ。大人げない本気プレーをかまされ、私史上まれに見る大敗を喫することとなった。
負けの込んだ分については、さすがに加減を弁えているというか、金銭ではなく罰ゲームで支払わされた。その結果がタコの踊り食いである。場に集まった全員から、船底が抜けるほど笑われたことは言うまでもない。
「あの後、顔にくっついた吸盤を剥がすのにどれだけ苦労したと思ってるんですか!だいたい今日はベックマンさんに呼ばれてるんです。面白い本を貸してくれるそうで」
「そうかいそうかい。副船長なら今日も書斎にこもってらあ。海に落ちねえように、気を付けて行けよ」
「はあい」
クルーたちに手を振って、食堂を後にした。
ハシゴや階段を昇り降りしながら、ようやくベックマンの書斎前にたどり着いた。が、ノックをしても声をかけても返事がない。部屋の主はどうやら留守のようだった。
たしかに今日の朝だと言っていたはず。何か急なことでもあったのだろうか。
几帳面な彼にしては珍しく、戸が半開きのままだった。隙間からこっそり覗いてみたものの、やはり室内に人の気配はなかった。
出直した方が良さそうだ、と顔を引っ込めようとした時、すぐそこに紙切れが落ちているのに気付いた。表面に私の名前が見えたので、身を乗り出して確認してみた。
「なるほど、剥がれちゃったのか」
床の上のメモは、私に宛てた書き置きだった。シャンクスの力強い筆跡とは違う、流れるような書体で謝罪と伝言が綴られている。
「『貸してやりたい本は机の上にある』とな」
書物机の上にあったのは、意外なことに文庫サイズの書籍だった。表紙が真っ白く日焼けしてしまっている。
何気なくページをめくってみて、私は首をかしげた。
「ん?これってまさか……」
窓の外で海鳥が鳴いている。
読みふけっていた本を机に置いて、凝り固まった背中を伸ばした。
「うーん、もうこんな時間」
昼下がりの太陽が船室の床を明るく照らしつけている。私は部屋を後にして、すぐ裏の後部甲板に出た。夏島のすぐ近くを航行しているらしく、ソフトクリームのような入道雲が海面にもったりとした影を落としていた。
ヤシが植わった後部甲板は船員たちの憩いの場だが、今日は誰の姿も見えない。その謎は一本のパラソルによってすぐに解かれた。
昼寝をしているのが他でもない船長であれば、遠慮するのも当然だろう。
傷だらけの精悍な顔も、こうして見れば端正なつくりが際立つばかりで、眺めているうちに惜しいようなもったいないような気持ちになってきた。
こんな荒っぽい生活をしなくとも、その気になれば何なりと手に入る人だろうに。
陽光の下、明るく輝くルビー色の髪が羨ましくなって、私はそろそろと手を伸ばした。
「寝込みを襲うたァ、行儀が悪いな」
突然かけられた声に、慌てて腕を引っ込めた。
「起きてたんだ」
「そんなに大きな足音を立てられちゃな。“授業”は終わったのか」
「今日はね、お休みなんだ。ベックマンさんがたまにはゆっくりしろって言ってくれて。たまにも何も、忙しい方が珍しいんだけどね」
「違いねェ」
喉の奥で笑ったシャンクスは、器用に片眼だけ開いてこちらを見た。探るような視線が頭の先から足の先までを往復する。しかし結局何も言わなかった。
「座ってもいい?」
「ちょっと待て」
パラソルの下を指差すと、シャンクスは横たえていた身体を起こし、わざわざ奥へ寄った。
「寝ていてくれて良かったのに」
少し離れたところに腰を下ろすと、彼はまたわずかに身を引いた。こちらを一瞥して、それっきりシャンクスは海の方を見始めた。
中途半端に開いた間を、夏の風が吹き通っていく。
期待などしていなかったはずなのに、羽のように軽かった気分はみるみるうちに湿気てしまった。
「そうそう。シャンクス、この前はありがとう」
「ん?」
「ハラントゥーガのこと」
船長室で話して以来、二人きりで顔を合わせる機会がなかった。思っていたことを遅ればせながら伝えると、彼は背を丸め、あぐらの上に頬杖をついた。
「協力するって約束したしな」
「ごめん。手間かけさせて」
「すぐに謝る癖、そろそろ直せよ。言ったろ、行きたいところへ行くだけだってな」
シャンクスは呆れたようにため息をついた。文通していた頃から何度も言われてきたことだ。悪くないのに謝るな。
シンプルな正論に頷かざるを得ない。不必要に身を屈める度、己の価値は損なわれていく。
「イチル」
見かねたように、シャンクスがこちらに向き直った。指先がゆっくりと伸びてくる。だが、もう少しで頬に触れるというところでぴたりと止まり、それ以上距離が詰められることはなかった。
「暑ィな。そろそろ部屋に戻れ」
人払いをするように片手を振って、彼は少し離れたところに再び寝転がった。その後姿に「おやすみ」とだけ告げて、私はとぼとぼとデッキを去った。
「これで完治です。お疲れ様でした」
最後のカーゼが外された。傷のあった場所は滑らかな皮膚に覆われ、わずかな痕を残すばかりである。指先でそこを撫でていると、若い船医は心底申し訳なさそうに眉毛を下げた。
「痕、消せなくてすみませんでした」
「とんでもない、これだけ綺麗に治してくれたら言うことないよ。ありがとう」
「で、でも、女性ですし」
「幸か不幸か、いまさら傷ひとつで価値の上下するような身体じゃないの。人に見せるわけでもなし」
冗談まじりにそう伝えると、ウィックはようやく表情を和らげた。
「イチルさんと話していると故郷の姉を思い出します。ちょうど同じくらいの歳で」
「お姉さんがいるんだ。えっと、今も故郷に?」
「ええ、ここからはとても遠い場所です。“西の海”の端っこの端っこ……ひとり飛び出したきり、もう何年も帰っていませんが」
ウィックはグリーンの双眸に望郷の色が浮べたが、じきに押し込めるようにしてまつげを伏せた。
幼い彼に、故郷を離れる決意をさせた何か。それはきっと私なんかが気軽に踏み込んでいいものではないのだろう。
「強いね、ウィックは」
「運が良かったんです。行き着いた島で、偶然この船に出会いました。まさか本当に雇ってもらえるとは思いませんでしたけど」
レッド・フォース号の船医がウィックだけかというと、この大所帯にかぎってそんなことはなく、他にも幾人かベテランの船医が乗っている。
そんな中、彼が私の担当になったのは『民間人を怯えさせないように』という配慮らしい。強面の中年男性と優しげな青年ならば、言うまでもなく後者の方が親しみやすい。
「船長は素晴らしい方です。あの人の下で働けるなんて、僕は本当に恵まれている」
彼にしては珍しい、熱っぽい口調だった。青年が崇敬のまなざしを向ける彼の人との、さきほどのやり取りが思い起こされて、胸のあたりがもやもやとした。
「どうしました?」
「なんでもないよ。気にしないで」
「もし痛むところがあれば、いつでも言ってくださいね」
「ありがとう。ウィックは良いお医者さんになるよ。いや、もうお医者さんだったね」
そう笑いかけると、青年は照れた様子で小さく頷いた。