神降りし地ハラントゥーガ
 鳥歌い、泉あふるる常世の楽園

 らんと欲せど紺碧の谷、風に黙して生者を拒む
 ことばむすびしいにしえの神、水墓に眠りて死者を抱く

 神求めし地ハラントゥーガ
 鳥歌う、いきてかえれぬ果ての国



chapter5 ROUTE OF COVERUN

35 凡俗を拒む海(Ⅱ)



「何回読んでもこれだけだよね」

 もう一度、パラパラと最初からページをめくってみたが、やはり他には見当たらない。諦めた私はあくびをしつつ、本を閉じた。

 頭の良い人の考えることは良く分からない。

 日に焼けた表紙の書籍は、ハラントゥーガの参考になるといってベックマンが貸してくれたものだった。これを読めばなんらかの情報を得られる―― はずだったのだが、妙なことに肝心のハラントゥーガについての記述がほとんどないのである。
 ハラントゥーガの名が出てくるのは、最初から最後まで通してもたった一節だけだった。

「“神降りし地”ハラントゥーガねえ」

 日焼けた表紙を指先でつついていると、医務室の扉が開いた。入ってきたのはウィックである。

「あっ、イチルさん!いらっしゃってたんですね」
「おかえり。お邪魔してます」
「たっ、ただいまです!なにか、飲まれますっ?」

 バタバタと部屋に走りこんでくるウィック。
 これではどちらが部屋の主か分からない。慌てた様子の彼に先んじて、私はポットを取り上げた。

「とんでもない。こういうのは居候にお任せください」
「あっ、そんな、えっ」
「飲みたいものがあれば淹れるよ?」
「じゃ、じゃあ、紅茶でお願いします」

 お湯を沸かし、茶葉を用意する。
 医療行為および衛生的な環境維持のため、医務室には給湯室が併設されている。はじめてそのことを知った時は、レッド・フォース号の水事情に半ば呆れたものだ。あちらの世界における中世末十六世紀、給湯室を完備したガレオン船が一体どこにあったろう。給湯室に飽きたらず、シャワー付の個室まであるのだから、海賊船というよりもはや豪華客船である。
 水は容易に腐ってしまうため、長期わたって大量に保存しておくことが難しい。海上で水を惜しみなく使えるということは、いつでも補給を受けられるということ、つまり赤髪海賊団がこの海において強固な基盤を有していることの証に他ならない。

「ウォーカーさんたちの授業は終わったんですか?」
「うん、ちょっと前にね。三人とも優秀だから、最近は課題を出してもすぐに終わらせちゃうんだ」
イチルさんの教え方が良いんでしょうね」
「ありがとう。でも、褒めたってお茶しか出ないぞ」

 茶化して返すと、ウィックは「お茶が出れば十分です」と笑った。
 授業が終わってしまえば、他には特にやることがない。話相手が欲しい時、私は医務室に顔を出すことにしていた。
 クルーたちは気さくだが、非番の時は九分九厘酔っ払い(もしくは二日酔い)なので、世間話をするどころか、うっかりすると「タコの踊り食い」の悪夢ふたたび、である。ああだこうだととりとめのない話をする相手としては、齢の近さ、性格、どの点を取ってもウィックが一番しっくりくる。

 ポコポコとお湯の沸き上がる音がした。
 ティーカップを彼の机に置き、自分の分を持ってイスに戻る。隅にある小さな飾り机が、医務室における私の定位置だ。

 紅茶を飲みつつ他愛ない話をしていると、ウィックが私の手元に目を留めた。

イチルさん、その本は?」
「ああ、この前ベックマンさんが貸してくれたんだ。もう読んじゃったんだけど」

 難航するかと思われた解読作業は一日もかからず終わってしまった。『日誌』にあれだけ手こずっている私がこの本にかぎってあっさり読破できたのには理由がある。
 ウィックは興味深そうに本を見つめている。ちょっと試してみよう、と私は表紙を開き、冒頭の一文を読み上げた。

「『いざ行かん、目指すは我らの』……」
「碧き泉!」

 興奮気味に叫んで、ウィックは立ち上がった。

「そっ、そっ、それ!『古き海の冒険』ですよね!冒険小説の!」

 白っぽい表紙を指差す彼に、私は頷いてみせた。
 そう、ベックマンが貸してくれた本は、古びた文献でもなく、暗号だらけの航海日誌でもなく、小難しい論文でもなく、なんと普通の小説だったのだ。

 表紙がひどく日焼けしているが、中の紙はそれほど劣化していない。印刷されたのは遡ってもせいぜい十数年前だろう。文体は少々古くてお堅いが、活字になっているうえ近代的な注釈も加えられていて『日誌』に比べれば格段に読みやすかった。

 まあ、読みやすかった理由はそれだけではないのだが。

「ウィックも知ってたんだね」
「知らない人の方が珍しいですよう。古典冒険小説の金字塔じゃないですか!ご多分に漏れず、僕、小さい時からこの本が大好きで……海に憧れるようになったきっかけも『古き海の冒険』だったんです」

 文庫本を見つめる瞳は、うっとりととろけていた。(なお“文庫”というのは私が便宜上そう呼んでいるだけであって、こちらの世界の共通規格に同じものがあるという意味ではない。なんとなくだが、私の知る文庫本よりも少し大きい気がする)

「主人公が滝壺に飛び込むところなんてもう……」
「宝を目前にして、海王類に襲われる場面もハラハラしたよね」
「子どもの頃は『いつか海賊になって、こんな冒険をするんだ!』というのが口癖でした。危ない真似をしては姉を困らせたものです。こんな形で叶うとは思いませんでしたが」

 ウィックは白衣に視線を落とし、照れた笑顔を浮かべた。

 『古き海の冒険』はひとりの男が船に乗り未知の海を探検していくという話で、物語の舞台はこの世界に似た、ここではない世界である。冒険物としては王道を行くストーリーだが、文章が非常に巧みで、読み始めると止まらなくなってしまう。

「どうやったらこんなに手に汗握る話が書けるんだろうね。著者は、えっと、白くなっちゃって読めないな」

 日焼けした表紙を擦っていると、ウィックが不思議そうな顔をした。

「おや、ご存知ないのですか?『古き海の冒険』の著者は――
「ウィック、痛み止めくれねェか」

 ガラガラと入り口の扉が開き、入ってきたのはウォーカーだった。背の高い、精悍な顔立ちの青年は、私を見て露骨に面倒くさそうな顔をした。

「なんだ、イチルもいるのかよ」
「なに、その嫌そうな顔」
「別に」

 彼はどかっと丸椅子に腰を下ろした。

「フライが二日酔いでな。頭が痛いってうるさいんで、効きそうな奴を頼む」
「も、もし良かったら診に行きましょうか? いま、ちょうど空いてますし……」
「いや、さすがにな。二日酔いで船医を呼んだなんてバレてみろ、甲板長にどやされる」

 船医の生真面目さに恐縮したらしく、ウォーカーは苦笑し、片手を振った。
 ウィックが慣れた手つきで棚を開け、薬を選定する間、手持ち無沙汰になった私と彼はどちらともなく話をはじめた。

「ここで何やってんだ」
「ウィックと楽しく本の話をね。『古き海の冒険』って本なんだけど、知ってる?」
「あたりまえだ。舐めてんのか」

 ウォーカーが不機嫌そうにこちらを睨んだ。つい先日まで字が読めなかった彼にしては少々意外な発言である。表情から私の内心を読み取ったのか、彼は目を逸らし、ぼそぼそと呟いた。

「昔、母親が読んでくれた。『いざ行かん、目指すは我らの』ってな」
「登場人物で誰が一番好き?」
「……シスコ」
「シスコ!主人公の名付け親ですねっ。僕も大好きです!」

 はしゃいだ声をあげながら、ウィックが戻ってくる。彼は机の上に小さな小瓶を置いた。

「はい、こちらになります。ぬるま湯で飲むと頭がすっきりしますよ」
「痛み止めじゃねェのか」
「もちろんです。診ていない患者さんにお薬は出せません」

 若き船医はにこやかな笑顔で言い切った。
 気弱で頼りない感じのウィックだが、強面の海賊だろうが市井の小娘だろうが、脅されようがすかされようが、患者に対する態度は一貫している。幼いながらも大海賊のお眼鏡にかなったのは、きっとこういうところだろう。

「ま、自分で来ねェアイツが悪ィ」

 ウォーカーが薬瓶を持って立ち上がる。彼が部屋から出て行く前に、と私は気になっていることを訊いてみた。

「ねえふたりとも。ハラントゥーガって覚えてる?『古き海の冒険』に出てくる地名なんだけど」
「ハラントゥーガ?」

 二人は顔を見合わせていたが、しばらくして何か思い出したらしいウィックが手を打った。

「そういえば!最後の方の詩にそういう名前があったような気が……」
「あー、言われて見ればあったような気も」

 記憶を辿ったウォーカーが、腕を組んで唸った。

イチル、それがどうかしたか?」
「ちょっとした記憶力テストだよ。さすがレッド・フォースの若き船医!記憶力抜群だね」
「よっ、若き船医!」
「ええっ、いや、そんなことは全然っ」

 頭を掻くウィックを前に、私は考えを巡らせた。

 今、彼らが裏付けたように、ハラントゥーガという単語はストーリーの根幹に全く関わってこない。作中で語られるのは、通りすがりの商人が短い詩を口ずさむ、その一シーンだけだ。

 ハラントゥーガについて知るなら他にもっと適当な資料があったはずだ。
 考えても考えても、いやむしろ、考えれば考えるほど、ベックマンの意図が分からなくなっていく。

 ひっかかる点は他にもあった。

 医務室から出て行くウォーカーと見送る船医の後姿を見ながら、私は心中でひとりごちた。

 ハラントゥーガは実在の島名だ。それが何故、架空世界の冒険記フィクションに登場する?


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