―― “神降りし地”ハラントゥーガ。

 低い声が朗々と天井へ伸びる。
 潮気と煙草のせいで少し掠れているが、それがかえって艶っぽい。シャンクスとはまた違う、力のある声だ。
 いい意味で背筋をぞわぞわと粟立たせながら、私は木のイスに深く座り直した。声とカリスマ性には深い関連があると言うけれども、目の前の男はその良い例だろう。この声で命じられれば、女も男もすすんで身を差し出すに違いない。

 詩の一節を読み終えて、ベックマンは本を閉じた。

「というのが、唯一現存するハラントゥーガの記述だ。聞いていたか?」
「えっ、あ、はい、もちろん」

 肝心の内容が疎かになるほど声に聞き入っていた私は、慌てて背筋を正した。

「ええっと、つまりこの詩が、唯一現存するハラントゥーガの記述?」

 口に出してみてようやく事の重大さに気付いた。

「えええ!これだけなんですか!?」
「ああ。ハラントゥーガの名が出てくる文献は、俺が知るかぎり古今東西これ以外にない」

 これ、と指し示すのは、先立って私に貸してくれた文庫だ。一通り読み終えたため、今は主の手元に戻っている。

「ちょっと待ってください。だってその本――
「『古き海の冒険』、面白かっただろ?こんなに早く返しに来るとは思わなかったが」

 ベックマンは愛おしげに小説の表紙を撫でた。その様子に気を取られて、私はうっかり余計な口を滑らせた。

「前に一度読んだことがあるので、さらさら読めて……あっ」

 口をつぐんだが時すでに遅し。彼は意外そうに「へェ」と応じた。

「読んだことがあるのか。世間の物事には疎いと思っていたが」
「いえ、仰る通り、その点については否定できないです」

 苦笑いして頭を掻いた。
 というのも、私が過去にこの本と関わることになったのは、教養を身に付けるために読書をしよう、といった殊勝な理由ではなく、もっと人に言いづらくて残念な理由によるものだったからだ。

「実を言いますと、昔出版に携わっていたことがあるんです」
「出版?あんたが?」
「あ、やっぱり今のは聞かなかったことにしてください」

 思った以上に食いついてきたので、両手を振ってオフレコをお願いした。自ら前科をバラしてどうする。
 そう、声を大にして言えることではないのだが、バギーのところで出版していた海賊版の中にこの本があったのだ。ちゃちな恋愛物ばかり取り扱うバギー書房の書籍の中、お堅い文体で異彩を放っていた原稿。手を伸ばさずにはいられなかった。

 こんなところで再びお目にかかるとは思わなかったが、『古き海の冒険』が誰でも知っている有名な古典だというのなら、それほど不思議な巡り合わせではないのかもしれない。

 過去に読んだことがあれば、二回目以降、時間をかけずに読み通せるのは道理である。これが一日もかからずに読めてしまったカラクリだった。

「何度読んでも面白いですってそうじゃなくて!」

 乗せられてしまって、私は慌てて話を戻した。小説の感想を話し合うためにわざわざやって来たわけではない。

「ハラントゥーガの話ですよ。たしかにハラントゥーガに関する記述は、この『古き海の冒険』の中ではさっきの一節だけでした。でも、ハラントゥーガは地図にも載っているちゃんとした島ですよね。それくらい認知されている島なら、きちんとした資料があってもおかしくないじゃないかと思うんですけど……そもそも、フィクションに実在の島名が登場しているのも変な話で……」
「逆だ」

 ベックマンははっきりと言った。言葉の意味が理解できず困惑していると、彼は部屋の隅にまとめてある地図の束を顎で指した。

「この前あんたに見せた海図は、そうそうお目にかかれない特殊なモンでな。実在の島名だけでなく、言い伝えや古地図なんかに出てくる島も片っ端から載せてある。黄金都市シャンドラといった有名どころはもちろん、デイヴィ・ジョーンズの隠し港、セイレーンの墓地など迷信の範疇のもの、果ては口にも出せない“いわくつき”までな。この島は多分この辺にあるらしい、あの島は伝承ではあのあたりに存在するはず……そんなあやふやな情報が土台になっている。前向きな言い方をすりゃあ、夢の詰まった宝の地図ってヤツだな」
「夢の詰まった宝の地図?」

 嫌な予感が舌の付け根からにじみ出し、口の中をカラカラに乾かした。ベックマンが薄笑を浮かべる。

「さて、ここで問題だ。唯一の記述は物語の中、海図は眉唾もの。それらが示す真実は?」

 ひきつれた喉から掠れた悲鳴が漏れた。

「つまり、ハラントゥーガは架空の島ってことですか!?」



chapter5 ROUTE OF COVERUN

36 凡俗を拒む海(Ⅲ)



「ここまで来て、そんな」

 ハラントゥーガは実在しない。
 信じたくない真実がぐるぐると頭を回る。

 ハラントゥーガという実在の島が物語に出てくるのではなく、物語の中のハラントゥーガがあたかも実在の島のように描かれていたのだ。『古き海の冒険』は古典だから、その内容が伝承・言い伝えとして扱われ、地図に載せられていたとしても不思議はない。

 呆然とする私を真面目くさった表情で眺めていたベックマンだったが、煙を一筋吐き出した後、唐突に笑いはじめた。

「まったくお頭の言った通り。お前さん、からかうにはもってこいの相手だな」

 彼は楽しそうに、喉の奥をクックッと鳴らした。

「悪かった、冗談だ」
「ちょっと、ベックマンさん!」

 両手で机を叩くと、彼はにやにやと見返してきた。

「安心しろ、ハラントゥーガは架空の島じゃない。公的には存在しないことになっているだけで、知っている者は知っている。資料がないのも、普通の地図に載っていないのも、正式な島として登録されていないからだ」
「じゃあハラントゥーガはちゃんと存在するんですね!?」
「そうでなければ、あんたを乗せたまま俺たちはどこへ向かってるっていうんだ」
「なんだあ、びっくりさせないでくださいよ」
「いい暇つぶしになった。ありがとよ」

 たちの悪い冗談を茶目っ気で流しながら、ベックマンは煙草をくゆらせた。
 力が抜けてしまった私は、重力に抗うことなくイスの上に座り込んだ。日に焼けた書斎の床がギイと鳴る。

「でも、普通の島が“存在しないことになってる”なんて変な話ですよね」

 ハラントゥーガという島には何か特別な事情がある。
 確信を持ってそう言うと、ベックマンは「ああ」と軽く頷いた。だが、続いて明かされた内容は想像以上にヘヴィーなものだった。

「この五百年間、誰も到達できていない」
「……え?」
「発見者当人と、もう一人を除いてはな。ハラントゥーガは実在する。だがそれを確認できた者はかぎりなくゼロに近い。発見から今に至るまで約五百年もの間、凡俗を拒み続けてきた絶海の孤島。それがハラントゥーガだ」
「辿りつけたのはたった二人だけ……」

 “紺碧の谷、生者を拒む”

 先ほど読み上げた物語の一節が脳裏に蘇る。
 ベックマンのカサついた指が、机の端の地球儀を指差した。丸い形こそ向こうのものと同じだが、表面に塗られた色は絶望的に相違している。間違えてペンキをひっくり返してしまったような、青一色の球体だった。

「彼の島を外部から隔絶せしめる青き谷、それは“凪の帯”だ。ハラントゥーガは正確には“偉大なる航路”ではなく“凪の帯”に存在する」

 ベックマンが指さす球体儀には、“偉大なる航路”の縁をなぞるようにして分厚い濃青色の帯が描かれていた。

「“凪の帯”は名の通り、完全な無風海域だ。おまけに大型海王類の巣とくれば、普通の船はまず近づけない。だが、冒険者を阻む最も深い”谷”は、発見者当人が一切の航海記録を残さなかったことだ。島の場所が分からなけりゃ、どんな勇者もお手上げだろう」
「残さなかった? でも地図には載っているんですよね?」

 聞き返すと、彼は灰皿にトツトツと灰を落とし「記録“は”な」と言葉を区切った。

「確かに記録は残さなかった。だが記録の代わりに、その男は自分の冒険を元にして物語を書いたんだ」
「それが、この『古き海の冒険』というわけですか」

 私は彼の手元にある、古びた本に視線を落とした。

「その通り。海あり島あり、人生をかけてさまざまな場所を冒険した彼は、その内容を脚色し、組み直し、心を駆り立てる一編の物語として編み上げた」

 ハラントゥーガの発見者であり、同時に『古き海の冒険』の著者でもある人物。日に焼けた表紙から、タイトルと著者名は真っ白に消えてしまっている。
 バギーのところで扱ったのは本文の原稿だけだ。誰が書いたのかは結局分からずじまいだったし、その後もわざわざ人にたずねることはしなかった。その人物とは一体誰なのか。訊いておこうと思った時、ベックマンが先に口を開いた。

「ま、ハラントゥーガについてはこんなもんだ。自分がどんな場所を目指してるかくらいは知っておかねェとな。前も言った通り、実際の目的地はウチの拠点だが、同じ方向だから問題はない」
「乗せてもらってる立場で、こんなことを言うのはどうかと思うんですけど……まともに辿りつけた人のいない島なんですよね。行く方法はあるんでしょうか」

 おそるおそるたずねると、ベックマンは口の端を上げた。

「あんたが乗ってる船の名は?」
「レッド・フォース号、です」
「いずれ王の船になる。越えられねェ海があると思うか」

 書斎を出ようとしてドアノブに手をかけた時、ベックマンがさらりとこぼした。

「これぐらいのことなら、お頭も知っていると思うが」

 私のことをよく理解した、的を射た指摘だった。私はどんなことでも真っ先にシャンクスに相談する。普段なら。

「借りた本を返すついでです」

 ふうん、と含みのある声が返ってきた。

「あんたがいいならそれで構わないがな。長い旅になる。気になることがあるなら早いうちに解決しておけ」
「迷惑をかけてすみません」
「これも俺の仕事だ」

 黒髪の副船長は頬杖をついて、珍しく親しみやすい笑みを浮かべた。

◇◇◇

 部屋に戻った私は、靴も脱がずにベッドに倒れ込んだ。

 ひとまずハラントゥーガがどういう場所なのかはわかった。だが、そこが私の“帰り道”にどう関係しているのか、いまだ何のヒントもない。

 わからないと言えば、例の古地図―― ベックマン曰く“夢の詰まった宝の地図”―― だって良くわからない。彼の言を信じるならば、ハラントゥーガについての記述は『古き海の冒険』に出てくるあの詩だけで、他には何の記録もないはずなのだ。なのにどうして地図上に場所が特定されていたのだろう。

「謎が謎を呼ぶ……あー、やめたやめた」

 うつ伏せになったまま、頭の中から余計な思考を追い出した。謎が解けようが解けまいが、今はただこの船に身を任せるしかない。

 身の丈に合わない願いを叶えるため、身の丈に合わない世界に踏み込んだ私は、誰かの助けなくしては先に進むどころか、今日を生き延びることさえできない。帆も櫂もないちっぽけな筏船が大海に浮かんでいるようなものだ。

 寝返りをうって仰向けになった。シミだらけの天井が全身に覆いかぶさってくるような気がした。

「“これくらいのことならお頭も知っている”……だよねえ」

 ベックマンに気づかれたのは大失態だった。下らないことでブルーになっている私にうんざりしたに違いない。
 悩んだって仕方ない、と言い聞かせたが、心は淀んだまま、憂鬱な色のもやもやも一向に消えてはくれなかった。信じられないことに、それはハラントゥーガや『日誌』と同じくらいの割合で私の心を占領しているのだ。

 枕を抱きかかえて、駄犬のように唸った。
 話しかければ普通に返事はしてくれるし、時には冗談だって言う。だが最初の頃と比べると、また手紙をやり取りしていた頃に比べると、素っ気なく、よそよそしかった。
 明らかに避けられている。

「気にしなきゃいいだけの話なんだけどなあ」

 他人の心を覗けない以上、相手との距離を図る物差しは自分の内にしかない。こちらは友人だと思っていても、相手はそう思っていないかもしれない。逆も然り。
 同じ人間の同じ行動を受けて、ある誰かは“自分は好かれている”と感じ、別の誰かは“自分は嫌われている”と感じる。そういう話を聞く度に、人間関係は一方通行の認識によって成り立っているのだと思う。

 他者との関係を規定するのは、常に自分自身だ。
 しかし頭の中では、いつかの言葉が反芻される。

『忘れるな。あんたは“客”だ』 

 あの時、この台詞を実際に口にしたのはシャンクスではなくベックマンだった。だがそれは船長の口を煩わせるまでもないと思った彼が代弁を買って出ただけのことだ。

「はあ、実物を見てがっかりしたのかな。手紙の中ほどお淑やかじゃないし。いや、それ以前の問題?」

 考えれば考えるほど、思考は絡まって悪い方に傾いていった。
 ぱちんと両手で頬を叩く。

「はい、ここまで」

 大勢の上に立つ彼を、私のちっぽけな思考で判断すること自体、あまり意味のないことなのだ。“避ける”“避けられる”といった思春期の少年少女のごとき次元に、一瞬でも彼を当てはめてしまったことがひどく恥ずかしかった。大人物の行動は往々にして世間の理解を超える。燕雀安んぞ、というやつである。

 ベッドに寝転んだまま、枕元の小窓を覗いた。
 あかり取りの丸ガラスの向こうには、真っ黒な海が深遠と横たわっている。荒れ狂ったかと思えば、一個の固体のように沈着する。人を生かしもし、殺しもする。

 凡俗に、海の心はわからない。


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