カラン、とグラスが音を立てた。
さざめきの間を縫って、しっとりとピアノが歌う。照明を抑えた室内は、もやがかかったように生ぬるく霞んでいた。
干されたグラスには、間を置かず次の酒が注がれる。度数も値段も桁違いの酒が、男たちの喉へ湯水のごとく流し込まれていく。現実離れした光景と、目鼻から染みこむアルコールの匂いに、頭がくらくらした。
華やいだ笑い声が聞こえた。
少し離れた上座に、女たちが寄り集まっている。色とりどりのドレスに身を包み、ひとりの男の寵を受けようと四方八方からしなだれかかるその数は字面通り、“片手”では足りない。
金色の巻き毛は男の腕を絡めとり、長い黒髪は夜の帳のようにその膝に落ちかかる。肌、目、唇―― 形の美しさも然ることながら、このためだけに磨き上げられた身体の艶めかしいこと。女の私でさえ生唾を飲まずにはいられないのだから、誘われる男たちは肌が粟立つほどの昂ぶりを覚えることだろう。
理性を蕩かす白いうなじ。見知った隻腕がひとりの女の、とびきりの細腰を引き寄せた。一際高い歓びの声が上がると、残った女たちも「ずるい」と笑い、競って男の膝に擦り寄った。
盛り上がる上座から視線を外す。ぬるくなったグラスを爪で弾いて、壁際の私はひとりため息をついた。
やっぱりやめとけば良かった。
37 ブリジット・テラス(Ⅰ)
昼下がりの海は青い。手すりの向こうに目をやった時、どん、と肩に何かがあたった。
バランスを崩してよろめいた私を、太い腕で支えたのは色黒のクルーだった。ぶつかってきたのはどうやら彼らしい。
「おおっと!怪我はねェか?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
「すまん。気をつけて歩かねェとな」
私の無事に胸を撫で下ろしたらしい彼は背を向けて廊下を歩き出した。が、その足取りはふわりふわりと覚束ない。酔っぱらいの千鳥足とはまた違う、見慣れない様子に首をかしげた。
物理的な意味で他人としばしば衝突する人は大抵の場合、目が悪いか、自分の身体をコントロールできない運動音痴である。動体視力を含め身体能力が著しく高い彼らは、余程のことがないかぎり、人にぶつかったりしない。
声をかけようか迷っているうちに、彼は角を曲がって姿を消してしまった。
「お酒の匂いはしなかったしなぁ。体調不良かな」
ウィックに会ったら伝えておこう、と階段を降りかけた時、階下から良く知った声が聞こえてきた。
「俺たちも上陸できるんだよな?」
そわそわとした声はウォーカーのものだ。
「お頭が言ってたろ、俺らは初めてだから船番から外してやるって。聞いてなかったのか?」
「正直それどころじゃなくてよ。だってもうひと月近く陸に上がってねェんだぜ?お前だってそろそろ限界だろ」
「ん、まあな」
「あー!早く明日にならねェかな。やっとヤ―― 」
むぐ、とくぐもった音とともに、ウォーカーの台詞が途切れた。
「イチルが聞いてる」
彼の口に蓋をしたのはダンピアらしかった。名指しされた以上、黙っているわけにもいかず、私は手すりから顔を出した。
「はあい」
こちらを見上げる彼らは、気まずい、という言葉をそのまま形にしたような顔をしていた。
「ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
「い、いや、別に構わねぇよ。ただな、ちょっと」
普段のふてぶてしい態度はどこへやら、ウォーカーは目を泳がせてしどろもどろになった。そんな彼を見兼ねたように今度はフライが口を開いた。
「お頭から聞いてない?次の島の話」
「ううん、全く」
「全く?意外だな。お頭にもそういうところあったんだ」
フライが驚いたようにつぶやいた。そういうところとは一体なんだ。
「それなら、俺らから伝えるのは違うな。ごめんよ、イチル。じゃ!」
胡散臭い笑みを浮かべたフライは私の返事を待たず、ウォーカーとダンピアを引きずって船倉へと消えていった。
わけがわからない。
食堂へ向かいつつ、ひとりで唸る。
妙なのはウォーカーたちだけではなかった。
あれから数人のクルーとすれ違ったが、皆どこかおかしかった。心ここにあらずといった様子で海を眺めている者、廊下の隅で額を付きあわせて何事かを話し合っている者、上機嫌で鼻歌を歌っている者。
船全体が浮足立っていた。
もちろん、ただの客分には伝えられないこともあるだろう。だが妙なのは、私に気付いた途端、揃いも揃って何とも言えない表情を見せることだった。
決まり悪そうな、それでいてどこか面白がっているような顔。
疎外感を感じるほどではないが、やはり気持ちは悪かった。さっきフライが次の島がどうとか言っていたが、私が上陸するのに何か問題でもあるのだろうか。
こんな時にかぎってベックマンをはじめ幹部の姿は見当たらない。私室に行けば会えるだろうが、休んでいる相手を探し出してたずねるのは気が引けた。
遠慮なく会いに行ける唯一の相手には、距離を置かれているし。
「まあ、別にいいか」
必要なことは今まで漏らさず教えてくれた。逆に言えば、教えてくれないことは知る必要がないということだろう。
欲をかくとろくなことがない。乗せてもらってるだけでも御の字だ、と自分を戒め、足を進めた。
曲がり角の向こうから賑やかなざわめきが聞こえてくる。ちょうどお昼時、大食堂はお腹を空かせたクルーたちでいっぱいに違いなかった。
角を曲がり、食堂の入り口をくぐると、一番手前に座っていた若い男が私の顔を見て、小さくはない声を上げた。
「あ、イチル!」
その瞬間、いつもより騒がしく喋っていた男たちはピタリと話をやめた。静寂に包まれたホールに、カチャカチャという食器の音がやけに大きく響く。
見渡すかぎり、誰も彼もがあの顔である。申し訳なさそうな、気まずそうな、それでいてちょっと面白がっているような。
―― いったい何なんですか。
そう言いかけた時、私に代わって口を開いた者がいた。
「いったいどうした、こりゃ」
「ル、ルウさん!」
巨体がのしのしと食堂に入ってくる。幹部の登場に泡を食ったクルーたちは慌てて道を空け、席を譲った。
「気にすんな。飯食いに来たわけじゃねェからよ」
察した厨房係が慌てて表に出てきて、ルウに骨付き肉を手渡した。
気が利くじゃねェか、と上機嫌で受け取った彼は、一口かぶりついた後、食堂内を見回して疑問を口にした。
「で、さっきのは何だったんだ?」
「次の島のことで」
「次の島?それがどうした?」
「ええっと、イチルに……」
肉をかじっていたルウは、突然豪快な笑い声を上げた。
「アッハッハ、なんだそんなことかァ」
「“あそこ”について、お頭はまだイチルに話してねェそうなんで。それなら黙ってなきゃいけねェのかと思ったんでさ。ほら教育上良くねェし」
「お頭がまだ言ってねェって!?ははーん、なるほどな」
ひとり納得したように頷いて、こちらを見おろしてくるルウ。観察するような視線に居心地が悪くなり、私はもぞもぞと足を動かした。
「イチル、お前はガキか?」
「ち、違います。もう成人してます!」
半ば睨むようにして見返した私に、ルウは再び笑い声を上げた。
「それなら、聞いちゃいけねェわけがあるめェ。なあ、お前ら」
「お、おう!その通りっす!」
幹部直々のお達しに、食堂中がわっと沸いた。
「待ってましたァ!」
「コソコソすんのは男らしくねェ!」
肩を組んで口々に言い合う取り巻きを押しのけて、ルウが一歩前に出る。部屋中の視線が私たちに集まった。
「明日上陸するのは、ブリジット・テラス―― 通称“夜会の島”」
彼は私にぐいっと顔を近づけ、イヒヒと笑い声を立てた。
「“偉大なる航路”でも指折りの娼館街だァ」