38 ブリジット・テラス(Ⅱ)
“夜会の島”ブリジット・テラス。
高級娼館が立ち並ぶその海上都市は、終わらぬ夜に閉ざされて、闇に浮かぶ灯台のごとく海の男たちを惹き寄せる。
女、酒、賭博、食―― ありとあらゆる悦楽を提供するかわり、外部からの干渉を一切受け付けない、事実上の中立・治外法権地帯である。
ここにいる間は、海賊も海兵も外界の争いを忘れ、ただ己の欲望を満たすことにのみ没頭する。
「つまりは男の人の遊び場、ってことだね」
そう言うと、隣を歩いていたシャンクスが眉間に皺を寄せた。いつものラフな格好ではなく、黒の一揃えを身につけた彼は、海賊の親玉というよりもマフィアの首領のように見える。
「何が言いたい」
「いや、なにも」
船着場で降りてから、私たちは一本道を歩き続けていた。両側には高い生け垣があり、外からの視線を完全に遮っている。
お忍びの上客に対しては、貸切の船着場と、なんとそれぞれ専用道まで準備されるのだ。外界の争いを持ち込まない、という不文律を徹底させるため、島側も細心の注意を払っているらしい。
「絶対に顔を合わせてはいけない者たち」が存在するのはどこの世界でも同じようだ。
当然のことながら最上客として扱われているらしい彼らは、隊列と呼ぶにはてんでバラバラな並び方をし、わいわいガヤガヤとボスに続いていた。ついイメージするのは小学生の遠足である。水筒の代わりに武器を提げ、山頂の代わりに娼館を目指す赤髪海賊団はいつも以上に陽気な集団だった。
たったひとりを除いては。
先頭を行く“たったひとりの例外”は私を見下ろし、唸るように言った。
「俺は反対だった」
「……なんで?」
周りをちらりと確認して、声のトーンを下げた。
人のいる前で、彼に向かって気安い口を叩くのはできるだけ避けるようにしている。普段もそうだが、今日は特に。
今のところ誰とも出くわしていないが、不特定多数が集まるこの島では誰が聞き耳を立てているか分からない。そこいらの海賊ならまだしも、“四皇”が私のような小娘に舐めた態度を取られているとあっては、面子も何もあったもんじゃないだろう。私の存在ごときでグラつく看板ではないと思うが、一応。
囁くように問うた私に対して、シャンクスは小馬鹿にした態度で黒服の肩を竦めた。
「酒もろくに飲めないんじゃあな。場違いにも程がある」
ここまで来て今更何を言い出すのか、と少々鼻白んだ。そもそも、自分から行きたいとせがんだ覚えはない。
だが後ろに続くクルーたちに遠慮して、その言葉を口にするのはやめた。
『行こうぜイチル!』
『酒がダメなら飯でも食ってりゃいいのさ。世界中の旨いモンが食えるぜ』
『飯食うぐらいだったらお頭だって何も言わないって。な、ルウさん!』
『ヒヒ、俺からも言っておいてやるよ。留守番は寂しィもんな』
船に残される私を気遣って、というよりも見るからに「そっちの方が面白そうだ」という顔をして、彼らはブリジット・テラスへの上陸を半ば強引に勧めてきた。好奇心半分、断りにくさ半分で同行を決めたが、軽率な判断だったかもしれない。
「それならそうと言ってくれれば良かったのに。シャンクスが言うなら留守番してたよ」
ぽろりと不満がこぼれた。彼は結局、出発するまでろくに口をきいてくれなかった。
私の心とは正反対に、歩く夜道はさながら真昼のような明るさだった。レンガ舗装の道路にはシャンデリアを思わせる豪奢な街灯が立ち並び、真下を通るたびに、あふれ出した光の粒がシャンクスの黒服と赤い髪とを煌めかせた。
ブリジット・テラスには朝も昼もない。比喩ではなく、特殊な地理条件により本当に一日中太陽が昇らないらしい。歓楽都市が拠って立つのにこれ以上ふさわしい島もねェ、そう言ったのはベックマンだった。
「お頭ァ、今日はどこへ行くんっすかァ!」
後ろから一際大きな声が飛んできた。もう我慢できない、とウズウズする子分たちに笑いを浮かべ、シャンクスは肩越しに答えた。
「“アトランティカ”」
「うおォォ!まじっすかァ!」
「さすがお頭ァ。太っ腹だぜ!」
シャンクスが妓楼の名と思しきものを口にした途端、あちこちで野太い歓声が上がった。話についていけない私のため、すぐ後ろを歩いていた古株クルーが助け船を出してくれた。
「ブリジット・テラスの女帝“アトランティカ”―― 文句なしに世界最高位の店のひとつだ。女は言わずもがな、酒も一流、飯も一流、音楽も一流。見合うだけの金・力・地位、すべてを兼ね備えていなけりゃ、女に会うどころか敷居をまたぐことすらできねェ。いい経験になると思うぜ。入りたくても入れない奴がごまんといるんだからな」
さきほどの会話で意気消沈していた私だったが、そこまで言われればさすがに興味が湧いてきて、ひとつ覗いてみようという気になった。
だが、その前にはっきりさせておきたいことがある。
「すごく今更なことを聞いてもいいですか」
「なんだ」
「私、これでも一応女なんですけど入って大丈夫なんですか?」
クルーたちは揃って呆気に取られた顔をした。が、じきに笑い出した。
「心配はいらねェ。そこらの安宿とは違ェんだ。まずは全員の宴になるからよ、好きなモン食って飲んで、雰囲気味わってりゃいいのさ」
「途中で抜けるのも自由だしな」
娼館という響きから、少々下世話なイメージが先行していたが、どうやら銀座の高級クラブのようなところらしい。
胸を撫で下ろしていると、後方からざわめきが起こった。
「見えたぞ、“アトランティカ”だァ!」
クルーたちが口々に叫び、前方の丘を指差した。巨大なシルエットが闇夜に浮かび上がり、私は思わず息を飲んだ。
一本道の最奥部、そびえ立っていたのは壮麗な楼閣だった。
繊細なレリーフがあしらわれた柱は、神木のように天高く伸び、訪れる者を静かに見下ろしている。この暗さにも関わらず細かなところまで見通せるのは―― どのような材質なのだろうか―― 建物全体が月色に輝いているからだった。
夜の天蓋の下、“アトランティカ”は女王のように君臨していた。敷地の周囲の高い垣根が、視覚的にも心理的にも一切を外部から遮断し、内部をひとつの世界として仕立てあげている。
心を奪われ立ち呆けていると、後ろの誰かに名を呼ばれた。
「イチル、こっちに下がっていろ」
いつの間に追いついたのか、仕事で遅れるはずだったベックマンがくわえ煙草で手招いていた。言われるままに後列に下がると、彼は宥めるように私の頭に手を載せた。
「最初に踏み入っていいのはただ一人だ。あちらさんの恰好がつかねェからな」
ベックマンはそう言って、長たる男の背中を見た。
肩がけの上着の長裾を大きく翻したシャンクスは、開戦の狼煙を上げるがごとく、血を騒がせる声音で叫んだ。
「今日は俺の奢りだ!存分に騒げ!」
玉の肌、とはよく言ったものだ。
感心を飛び越え、尊崇の念さえ抱きながら、私は真横にいる女の白い頬を眺めた。真珠の粉をまぶしたような滑らかな艶は、色白などといった語感平らな単語には荷が勝ちすぎる。
「どうしたの?」
見つめる視線に気付いた彼女は、こちらを向いて涼やかな目尻を緩ませた。
「い、いえ。綺麗だなって」
「ありがとう。ふふ、嬉しいわ」
褒め言葉なんて聞き飽きているだろうに、目の前の美しい人は心底嬉しそうに笑った。
綺麗なバラには棘がある?とんでもない。本当に綺麗なバラには棘なんて必要ないのだ。他人を刺そうとするのは、そうしないと生き残れない二流三流の人間だけではないだろうか。
会話の合間にそんなことを考えてしまうくらいに、彼女は完璧だった。私のような客とも呼べない相手に対しても、全く手を抜かずにもてなしてくれるプロ中のプロ。すでに現役を退いたというこの“アトランティカ”の楼主は、“海の一人娘”と言われた全盛の美しさに、いまだ一片の陰りも許していないようだった。
「さあイチル、次はどんなお話をしましょうか」
それほどの女性がどうして私の隣に座っているのか。理由を説明するためには、三十分ほど時を遡らねばならない。
“アトランティカ”に入った私たちは、楼閣の最奥部に案内された。
大人数の海賊たちを招き入れてもまだ余裕のあるその部屋は、照明が抑えられ、しとやかなピアノの旋律が流れ、柔らかそうなソファやごちそう満載のテーブルがあちらこちらに配置されている。壁際にさり気なく飾られている絵画や彫刻は本物だろうか―― いや、本物に違いない。一流には一流を。こちらの美術品はまったく分からないけれど、どれもこれも目玉が飛び出るほど価値のあるものばかりだろう。
磨き上げられた大理石の床。まっすぐに敷かれた赤絨毯。上座に設けられた舞台。庶民的な家庭に生まれ育った私には、すべてがまばゆく映った。
だが、そんなものはあくまでおまけ、序の口に過ぎないと知ったのは両側の扉が開いてからだった。
赤絨毯の両側に頭を垂れ、私たちを出迎えたのは、まさに世界の頂点を極めた女性たちだった。世界中の海から選り抜かれ、幼い頃からこのためだけに育てられたという彼女たちの微笑みには、天使の清らかさと女神の妖艶さが背中合わせに住まっていた。
「ようこそ」
エメラルドのドレスを纏った女性が視線を合わせ、囁きかけてきた。あまりに魅力的なその声に、頬がぼうっと熱くなった。ドレスよりももっと鮮やかな緑の瞳が私を捕らえて離さない。
この人は今、私のことだけを考えてくれている。
とろけた頭でそんなことを考えて、はっと我にかえった。目を瞬かせた私に向かって、エメラルドの彼女は「続きはあとで」とばかりに優雅に会釈した。
彼女たちの武器は顔の造作などという表層的なものに留まらない。視線ひとつ、声ひとつで客の心を自由に操り、夢の世界に導くのだ。全身からにおい立つ気配が、彼女たちを美たらしめていた。
まさに海上の楽園。楽園などという表現はチープでつまらないものだと思っていたが、実際目にしてみると、他に相応しい言葉が出てこなかった。
古株の海賊たちは、居並ぶ女の中に見知った顔を見つけると「よう」「変わりはないか」などと気安く声をかけた。だが特定の女性に対しては、目配せをしたり、耳元へ何事かを囁きかけたりすることがあって、そういう時、彼女たちは決まって少しはにかんだ。いわゆる馴染みの仲なのかもしれない、と野次馬根性逞しく、私は彼らの逢瀬を眺めた。
ちなみに例の若手三人組はというと、目元は緩んでニヤニヤ、口元は緊張でガチガチという器用なモンタージュ状態で行進し、女性陣の軽やかな笑いを買っていた。
席についてしばらくすると、ふっと室内が暗くなった。音楽も消え、ざわめいていた海賊たちは何がはじまるのかと話をやめた。
静まり返った室内に、さらさらと衣擦れの気配がした。
つられて振り向いた私は、脊髄に雷が落ちたような、人生でも指折りの衝撃を受けたのだった。
前に向かってゆっくりと歩いてきたのは、藍色のドレスを纏った妙齢の女性だった。きらびやかな装いの女たちに比べれば、地味とも言える恰好をした彼女は、それでいて別次元の存在だった。
纏う空気が根本から異なっている、と言えばいいのだろうか。すれ違っただけだったとしても、十人いれば十人とも、百人いれば百人とも、幸運に身を震わせ、その姿を永遠に目の奥に焼き付けておこうと誓うだろう。
生まれてはじめて、本物の女を見たと感じた。
上座に辿り着いた彼女は、大理石の床に夜色のドレスの裾を広げ、男の前に跪いた。シャンクスはソファにゆったりと腰掛けたまま、女を見下ろした。
「ようこそ、はるばるお越しくださいました」
「世話になる。よろしく頼んだ」
「至上の時を、必ず」
微笑んで立ち上がった女は酒の入ったグラスを取り上げ、シャンクスに手渡した。一口だけ杯を傾けた彼は、飲みかけのグラスを再び女の元に戻した。
女はグラスを掲げると、優雅な仕草で残りを飲み干した。
沈黙を守っていた海賊たちがワァッ、と一斉に歓声を上げた。グラスのかち合う音に続き、あちこちで笑い声が起こる。
宴のはじまりである。これまでの神妙さはどこへやら、室内は瞬く間に雑多な賑やかさに満たされた。
ところがそんな中、空気に乗りそこねた者がいた。他の誰でもないこの私である。
今日に至るまで高級クラブなどとは全くご縁のない人生を送ってきた私は、慣れない雰囲気の中で次第に落ち着かない気分になり、どうしていいか分からなくなってしまったのだ。クルーたちは皆、宴に夢中である。
身の置き所に困った私は、仕方なく壁際に行って、ひとり音楽に耳を傾けることにした。
ピアノとバイオリンのアンサンブル。その合間を縫って、話し声と笑い声がさざめいている。広い部屋の中は男女問わず楽しそうな声でいっぱいだったが、その中でも一際華やいだ声のする場所があった。幹部たちの集まる一角である。他の場所に比べて、圧倒的に女の比率が高い。質も高い。
とびきりの美女ばかりを膝や肩に侍らせ、シャンクスは上機嫌で酒を呷っていた。
英雄色を好むと言う。彼も例外ではないのだろう。
それぐらいのことは理解して来たはずなのに、いざ実際に目にしてみると何とも腹立たしい気持ちになって、ふんだ、と顔をそむけた。
あの嬉しそうな顔。私とはろくに口も聞いてくれないくせに。
室内を見回してみても、皆が皆引っ張りだこで、手の空いていそうな女性は見当たらなかった。美女は大勢いるが、男の方もまた同じくらいたくさんいるのだ。
誰かと話せれば少しは気が晴れるかもしれない。そんなふうに思っていたのに、期待が外れて肩を落とした。
「それなら、私とお話しましょう」
舐めた程度のグラスを片手に壁にもたれていた私は、心を読んだような声にぎょっと振り向いた。そして、危うくグラスを取り落としそうになった。
立っていたのはあの美しい女性だった。
近くのソファへと私を誘った彼女は自分も隣に腰を下ろし、目の前の新しいグラスに薄水色の液体を注いだ。
「あ、えっと、まだ前のが残ってて」
「本当はお酒、苦手なんでしょう? お酒がダメなら、美味しいジュースを飲めばいいのよ」
どこかの王妃が言った有名なセリフのような―― でも、実際には真逆の細やかな思いやりが詰まったそれとともに、グラスが差し出される。半信半疑で鼻を近づけてみると、彼女の言う通りアルコールの匂いはしなかった。
ぬるくなった酒を手放し、注がれたばかりの冷たいジュースに口をつけてみる。柑橘類のような涼しい甘さは、地に足つかない心をちょうど良い感じに落ち着けてくれた。
「美味しいです」
「良かった、わたしも好きなの。子供っぽいって笑われちゃうけど」
いたずらっぽく口角を上げたその顔に、不思議と故郷の親友マリを思い出した。もちろん彼女はこんなに美人ではないし、年齢だって違う。だが凪いだ海のような、揺らがない穏やかさが瓜二つだった。
遠く薄れかけていた記憶が戻ってきて、目の奥が少しツンとした。
「海賊が仲間の女の子を連れてくることは時々あるけれど、貴女みたいな子ははじめてよ。ねえ、名前を聞いてもいいかしら」
「イチルです。貴方は?」
「素敵な名前ね。私は“宵の瞳”と呼ばれているわ」
そのままの渾名でしょうと笑った彼女の瞳は、夕が夜に移り変わる、その狭間の色をしていた。
ふと視線を感じて周りを見ると、近くにいるクルーたちが愕然とした表情で私と“宵の瞳”を見ていた。
「イチル、お前にゃもったいないぜ!」という心の叫びがここまで聞こえてくるようだが、残り物には福があるということだ。彼女を残り物に例えるのは無理があるにしても、私をほったらかしにして、楽しく飲み騒いでいた彼らに内心あっかんべーである。
「“宵の瞳”さんは、ここで一番偉い方なんですよね?私なんかが独り占めしちゃっていいのかな」
「わたしはもう現役じゃないし、偉いわけでもないの。古株だからって店を任されているだけの立場よ。若い子たちが立派に後を継いでくれているから心配いらないわ」
彼女はそう言って、幹部席に集まる女性の集団を見やった。
若い子、とはこれいかに。“宵の瞳”の容姿は私よりほんの少しだけ歳上、高く見積もっても二十代半ばほどにしか見えなかった。
「ねえ、イチルのことを教えて?貴女はきっと私が今まで聞いたことのない素敵な話をしてくれるわ」
「遠くの生まれだって分かります?」
「なんとなくね」
私は乞われるままに故郷の話をした。
記憶を辿りながらたどたどしく語る私に、“宵の瞳”は古くからの友達のように気さくに相槌を打った。
おばあちゃんと遊園地に行ったこと、放課後の学校で肝試しをしたこと、好きな子の隣に座りたくて席替えの度におまじないを試したこと。途中“宵の瞳”ではなくマリに話しているような気持ちになってきて、また泣きそうになった。目頭に力を入れて頑張ってみたのも虚しく、とうとう涙はこぼれてしまった。
「ごめんなさい……急に」
「いいのよ」
“宵の瞳”はさりげなく身体を移動させ、周囲の視線を遮ってくれた。白くて細い手でハンカチを渡してくれる。
“渡って”しまったことは当然言わなかった。シャンクスとの出会いも話さなかった。だがそれを抜きにしても、自分についてこれほど長く話したのはこの世界に来てから初めてだった。
彼女はやはり不思議で特別な人だった。
一通り話し終えて気楽な雑談を楽しんでいると、ベックマンが上座を離れて歩いてきた。
「イチル、帰るぞ」
「ベックマンさん」
彼は頷き、ちらりと“宵の瞳“を見た。
「そろそろ頃合いだろう、“宵の瞳”」
「あら、そういう貴方はお泊りには?」
そう答えた“宵の瞳”の声には、私に対する親しみやすさとは全く別の、凛とした優雅さがあった。彼に媚びてそうしているのではない。客が最も喜ぶように己を七色に変える、類まれなる女の技量だった。
「仕事が山積みでな。行き先がここだと聞いたから顔を出しただけだ」
時計がないから正確には分からないが、話し込んでいるうちにずいぶん時間が経っていたらしい。どういうわけか、室内の人数は半分近くに減っていた。
その時、こちらを見つめる視線を感じた。向こうの壁際から部屋を横切って注がれる一対の眼差し。
振り返ったものの、目が合うことはなかった。シャンクスの瞳が映していたのは私ではなく、私の後ろにいる彼女だったのだから。
しばらくして彼はふいと視線を逸らし、取り巻きの女たちと共に奥の扉から出て行った。扉の向こうに、どこか違う場所へと続く長い廊下が見える。
遅ればせながらようやく、消えた男女の行方に思い至った。頬のあたりがじわりと熱を持った。見てはいけないものを見てしまったような後ろめたさに襲われる。
ベックマンに連れられて、そそくさと“アトランティカ”を出た。
火照った頬が外気に冷やされて、私はようやく自分の立場を直視した。
隣に並ぼうすること自体が間違いだったのだ。彼という器に釣り合うのは、たとえば“四皇”であり、ベン・ベックマンという最高の頭脳であり、“アトランティカ”であり、“宵の瞳”である。
あの夏の日、手紙をくれた少年は今や遠い人になってしまった。
嫉妬や悔しさはない。ただ友達との間にできた、海より深い隔たりがひどく寂しいだけだった。