39 ブリジット・テラス(Ⅲ)
「すげェ女だったろう」
「ええ、本当に」
帰船すると、何を思ったかベックマンは仕事に戻らず、そのまま私を船内のバーへと誘った。夜になれば賑わうここも、あと数晩は閑古鳥が鳴くことになるだろう。
無人のカウンターに腰掛けて、私と彼はそれぞれ好きなものを飲んだ。戸棚の中にこれでもかと並べられた古今東西の酒。酒好き垂涎のコレクションには目もくれず、私は私のためだけに買い入れられたオレンジジュースをグラスに注いた。
「現役を退いたとは言え、海賊女帝に勝るとも劣らない傾城だ。お前はこれから一生、海中の男どもを恨めしがらせるだろうよ。あの女を半時間呼ぶのに、いったいどれだけの金がかかると思う」
「女の私ですらコロリといっちゃいそうになりましたからね。百万分の一でいいからあの魅力を分けてほしいです」
ベックマンは瓶に口をつけながら、目だけを動かしてこちらを見た。
「飲んで騒げばすっきりするかと思ったが、逆効果だったか?」
「まさか。とっても楽しかったです。けどまあ、こうやって戻ってくると現実がのしかかってくるというか」
宴会の酒気に当てられたのだろうか、言わないと決めていたはずの気持ちが口からぽろぽろとこぼれ出した。ベックマンは肩を竦めたかと思うと、単刀直入に切りこんできた。
「お頭のことだろう」
「聞いてくださるんですか?」
「言ったろ、こういうのも俺の仕事だってな」
アルコールのせいか、その顔にいつもの鋭さはない。代わって見え隠れする男くさい荒っぽさに、不思議と安堵を覚えた私は白状してしまうことに決めた。
「なんだか避けられてる気がするんです」
「……ぶ、あっはっは」
一瞬黙りこんだ後、ベックマンは普段より大きく快活な声で笑った。
「なるほどなァ。これは面白い話を聞いた」
こみあげる笑いを飲み下そうとするかのように、彼は琥珀色の酒を瓶ごと呷った。
「何か心当たりは」
「それが、特には。シャンクスは細かいことで怒ったりしない人だし」
「ふうん?」
ベックマンは愉快げに口の端を上げ、私の目の中をのぞきこんだ。無言の催促を受け、私は腹の底をつまびらかにした。
「彼の力になるなんて大それたことは無理でも、話相手になるぐらいならできると思ってたんです。でも……」
見目美しく、万事に通じた“宵の瞳”。彼女のような女性を知っていながら、いまさら私に何を求めるというのだ。友人としてすら、彼女には叶わない。“宵の瞳”と出会って、シャンクスと肩を並べようと思っていたことがどれだけ身にそぐわないことだったか思い知った。
「娼館の女たちのことを言っているのなら、見当違いもいいところだぜ。あいつらが売るのは身体だけじゃない」
「でも、男の人はそれでもいいんでしょう?」
「そりゃァな。イイ女を見れば、腹が減るのは男の性だ」
ギラギラした男性が少ないとされている日本にさえ、“飲む・打つ・買うは男の甲斐性”という格言があるのだ。これまでたまたま知る機会がなかっただけで、彼ら海賊の日常はやはり“酒・金・女”なのだろう。
「今からでも、お頭のところに混ざってくるか?案外あっさり仲間に入れてくれるかもな」
「ちょっ……!」
とんでもない言葉に、思わず飲んでいたものを噴き出しそうになった。そんな私を見て、少々下世話な表情を浮かべるベックマン。なんとなく察してはきたが、この人からは若干サディストの匂いがする。
「もう、そういう話じゃないですから。そりゃあ、さぞかし魅力的な男性なんでしょうね、彼。でも私が言っているのは友達として、ってことです」
ベックマンはほんの少し目を見開いた。だが、じきに呆れ顔になった。
「友達ねェ。それはそれでとんでもねェけどな」
私はシャンクスを男として見ていないし、それ以上に彼は私を女として見ていない。見て欲しいとも思わない。文通していた時のように、対等な友人でいたいのだ。たったそれだけのこと。
それは、身の丈に合わない願いなのだろうか。
寂しさに蓋をして、私はにやりと笑って見せた。
「他にしっくりくるのは、お父さん?すぐに頭を撫でてくるし」
「でけェ娘だな。あいつが聞いたら泣いて喜ぶぜ」
“あいつ”という普段は絶対にしない呼び方をして、ベックマンは喉の奥を震わせた。
「じゃあ、このへんでそろそろ」
「おう。しっかり休め」
一時間ほどバーで過ごした後、ベックマンと別れて自室に戻った。手早くシャワーを浴びてベッドに潜り込んだが、刺激を受けすぎた心身は興奮冷めやらず、なかなか寝静まってはくれなかった。
ベックマンに話を聞いてもらって、わだかまっている感情はひとつでないと分かった。寂しさ、不甲斐なさ、劣等感。後ろめたさ、失望感。あとは何だろう。
「まったく、人が悩んでるっていうのに当のシャンクスは今頃楽しくお姉さんたちと―― って、だー!恥ずかしいな!」
良からぬ想像をしてしまいそうになって、ベッドの上でひとり悶えた。何を考えているんだ、私は。
風呂あがりの火照った頬を枕に押し付け、無理やり目を閉じた。ざあ、ざあという海の音が聞こえる。
まぶたの裏に現れたのは、あの黒い海。
しばらくすると、意識は遠く漂い出ていった。
キィ、というかすかな音で目を覚ました。
いまだ暗い部屋の中、起き抜けということもあって、視界はぼんやりとしている。時間をかけて、のろくさく周囲を見回してみたものの、特に異常はないようだった。
ところが、再びベッドに潜り込もうとした時、枕元に黒い影が立っているのに気付いた。
「ベ、ベックマンさん?」
返事どころか、身動きひとつしない。震える手でランプをつけると、ぼうっとした光が影の正体を暴きだした。長躯の上の髪色を見て、私は安堵の息をついた。
「なんだあ、シャンクスか」
船の揺れに合わせて、室内を照らす光も揺れる。暗いのでもうひとつのランプにも火を入れようとしたが、上手く点かなかった。
そういえば油を切らしてたんだった。
「眠気が吹っ飛んじゃったよ。当分は帰ってこないと思ってたのに」
ランプの弱い光では表情が今ひとつ分からない。応えがないのを不審に思った私は、立ち上がって声をかけた。
「おーい。聞こえてますか」
ペチペチと彼の黒服を叩いていた時、伸びてきた腕に手首を掴み取られた。
「ん?」
状況を把握するより早く、強い力でベッドに押さえつけられる。すぐ目の前で、シャンクスの喉がごくり、と上下した。身長差を埋めるように大きく身を屈めた彼は、そのまま私の首元に顔を埋めた。
「え?」
咄嗟に押し返そうとした両手を、身体だけで器用に抑えこんだ後、彼は空いた右手で私の下腹に触れた。
まずは服の上から。腰のラインを撫で上げた後、今度は服の裾から中へ――
「ちょ、何やってんの!?ストップストップ!待って、シャンクス」」
ぶっとんだ展開に、理解が追いつかない。声に反応してシャンクスが顔を上げた途端、酒気を帯びた息にむせ返りそうになった。
私はようやく思い至った。彼は酔っている。ものすごく。
「あのね。さすがに怒るよ。お店へ帰って!はい、リターン!」
「ダメか?」
なァ、と艶を含んだ声に耳元を撫でられ、背筋に痺れが走った。目尻を赤くにじませ、熱に浮かされたように私を見つめる彼の瞳には、男の欲が行き場を求めてわだかまっていた。
薄金の瞳が舐めるようにこちらを見る。その途端、下腹の奥が熱くなり、焦れったく疼いた。
これはダメだ。絶対にダメなやつだ。強引に相手の女スイッチを入れて、事に及ぼうとしているやつ。
私は半ばパニックになって、火照りだした己の身体を叱咤した。
「ほんと頼むよ、そういうのはダメ、ちょっ」
しかし彼の手が腰を這った途端、ふにゃりと力が抜けた。経験の差がありすぎて、端から勝負になっていない。
キャミソールが突破されれば、次は地肌だ。もう後がない。うかうかしていると、この前仕方なく買ったちょっと派手なパンツが外気に晒されてしまう。
やらなきゃやられる。
くすぐられる首元や腹部の感覚を遠ざけて、深呼吸した。幸いにも足はまだ自由に動く。気づかれてはならない。
膝を軽く曲げた私は、一瞬の溜めの後、思い切り彼の股間をかち上げた。
「見境ないにも程があるよ!いい加減にしろ、痴漢!」
「すまん。本当にすまん」
金的の痛みで正気を取り戻してから今に至るまで、シャンクスは見ているこちらが哀れになるような表情で土下座に終始していた。
ベッドに腰掛けて普段は絶対見えない頭の天辺を眺めていると、そういう趣味の女性の気持ちがほんの少しだけ分かる気がする。征服感というのだろうか。鞭で叩きたいとまでは思わないけれど。
「ちょっと飲み過ぎた。店を出たところまでは覚えてるんだが」
「ちょっと?」
「いや、とても」
あともう少しで良い子には見せられないシーンが繰り広げられるところだったのだ。反省を促すために、ここは意地悪しておくことにした。
「まさか船の中でボンちゃんの痴漢撃退技を使うことになろうとは」
「すまん、ボンちゃん……」
「いや、被害者は私だからね」
「そうだったな、すまん……」
ずうん、と音が出そうな顔で沈み込むシャンクス。大の男がしょげかえっている様は滑稽を通り越し、かえって同情を誘う光景だった。
「ま、酔った末の濫行ということで、今回は許してあげよう。びっくりしたけど結局何もなかったしね」
私はパンと手を打ち、罪人に恩赦を与えた。
だいたいにして彼は本気ではなかった。その気になれば、いくらでも思い通りにできたはずだ。本来、私の抵抗などまるで通用しない相手なのだから。
和解の印にぽんぽんとベッドを叩いてやると、シャンクスは安心したように相好を崩し、私の隣に腰掛けた。
「正当防衛とはいえ、私の方こそごめんね。あー、えーっと、痛かった、よね?」
「旗揚げ以降、俺を地面に這いつくばらせた奴は指の数ほどもいねェ」
苦笑いをした彼に、数分前、急所を押さえて床に倒れ込んだ様を思い出した。
良かった、今回は誰にも見られなくて。
「で、ずいぶんと早かったけど、どうしたの。フラれた?」
「まさか。途中で抜けてきた。興が乗らなくてな」
あの美女軍団のどこが不満だったというのか。さすが海賊の大頭ともなると、求めるレベルが天井知らずである。
「“宵の瞳”さんも?」
シャンクスはその名にピクリと反応した。が、何事もなかったかのように答える。
「あいつはもう客を取ってないからな」
客を取っていないから―― では、彼女が押しも押されもせぬ“アトランティカ”の看板だった時代ならば。
「本当にすごい人だった。世界中の女性の良いところをかき集めたような、憧れることすらおこがましい人」
「イチルはあいつとは違う」
「知ってるよ」
顔を見る勇気がなくて、下を向いて答えた。
彼の指先がぴくりと動く。緩慢な動きで手が伸びてきたが、以前と同様に、その手はこちらまで届かず、途中でベッドに不時着した。
身体に見合った、大きく分厚い手。何でも掴めるはずの手が、力なくシーツを撫でている。
それを見た途端、辛抱の緒が切れた。顔を上げ、私はきゅっと詰め寄った。
「シャンクス、私のこと避けてるでしょう」
ばね仕掛けのように、彼は顔を上げた。泳ぐ視線を捕まえようと、私は腕を掴み、顔を近づけた。
シャンクスは何かを言おうと口を開き、だが途中で諦めたように閉ざす、ということを繰り返した。空気を求める魚のようにパクパクと口を動かした後、彼は喉から声を絞り出した。
「俺は……」
続く言葉を待って、私は浅く静かに息を吸った。だがしばらく経っても、シャンクスは俯いたまま何も言わなかった。頬に垂れた赤い髪は、ベールのように彼の真意を覆い隠していた。
ああ、やっぱり私じゃ届かないのか。
そう思った途端、強気の心はみるみる萎んでしまった。代わりに膨らんできたのは寂しさと不甲斐なさ、それから悲しさ。
「ごめん、変なことを聞いたね。忘れて」
そう言って手を離そうとした時、隣に座っていた彼の身体がこちらに向かって大きく傾いた。倒れてきた上半身に逃げ出す間もなく押しつぶされてしまう。またか、とぎょっとして顔を見ると、シャンクスは目を閉じて寝息を立てていた。
「はっ、寝た!?このタイミングで!?」
手で押し上げてみても、のしかかってきた身体はうんともすんとも言わない。
「待って待って、ほんとに?」
深夜に人を叩き起こし、重大な話をぶった切ったあげく、今度はひとりで勝手にご就寝とは。いくらなんでも自由すぎるだろう。
だが、すやすやと気持ち良さそうに鼻提灯を膨らませている顔が目に入ってしまっては、怒る気にもなれなかった。つくづく得な性分の御仁である。
「仕方ないなあ」
せめて下敷きになった片手だけでも脱出させようと、もぞもぞ身動きした時、シャンクスが何事かをつぶやいた。起きたのかと思ったが、目は閉じられたままだった。
「……船長が言うんだ。“不思議”は触ったら消えちまうんだって」
たどたどしく言葉を紡ぐ彼に少年の姿がだぶって見えた。それはきっと、手紙のやり取りをしていた頃の。
「遠くからは見えても、近寄るとなくなっちまう」
虹みたいに。
その言葉に、ぎゅっと目を瞑った。ああ、そっか。
手紙の中でのみ語らうことを許され、決して出会えるはずのなかった二人だった。相手が目の前にいること、生きて動いていること、同じ人間であること、そんな当たり前のことが、私たちには信じられなかったのだ。
うわべにばかりに気を取られ、もっともらしい言い訳をくっつけて、挙句の果てに、生きる世界の違う人、だなんて。私は何を見ていたんだろう。
触ったら消えちまう―― そんなことを真面目に考えている、はにかみ屋の男の子はいつもすぐそばにいたのに。
寝言に返事をしてはいけない。おばあちゃんはそう言ったけれど、今回だけは多目に見てもらおう。
「ねえねえ、聞いて。シャンクス」
閉じた唇に囁きかけた。
虹は消えちゃったかもしれない。
「でもね、手紙はちゃんと届いたでしょ。消えなかったでしょ」
“Who are you?”
おそるおそる伸ばし合った手は、海を越え、世界を越えて、確かにあの時繋がれたのだ。
「大丈夫、ここにいるからね」
癖のない、それでいて長年の潮気でごわついた髪を胸の中に抱き込んだ。華やかな夜会の匂いの奥底から、彼を育んだ海の香りが立ち上ってくる。
幼いころ夢見たあの海が、今この手の内にあった。
髪を撫でてやると、シャンクスは幼子のように身体を丸めた。確かな重みがとても心地よい。身体を横にすると、シャンクスの手が身体に回ってきた。
さっきとは違う穏やかなぬくもり。その手を捕らえ、離れないように握りしめる。
「おやすみ、シャンクス」
もう反対の手で、大きな背中を何度も撫でた。深い寝息に合わせて、ゆっくりと、ゆっくりと。
ようやく出会えた少年と少女は、二人仲良く手を繋ぎ、眠りの海に潜っていった。
次に目を覚ました時、あたりはまだ暗かった。
だが、ここが夜明けのない島であることを思い出し、瞑りかけていたもう一度目を開いた。引き出しから取り出した腕時計は朝の十時を指している。
あくびをしつつ起き上がろうとしたところで、身体が動かないことに気付いた。
「ん?」
腹のあたりに人肌のぬくもりを感じる。その顔を凝視した後、昨日の出来事に思い至った。「げ」
「結局あのまま朝まで寝ちゃったのか……」
ところが安らかな寝顔に顔を近づけようとして、私は思わず鼻を摘んだ。
「酒くっさ」
強烈に酒臭い。全身から酒気が立ち上っているような感じがする。間違いなく二日酔いコースだ。
「シャンクス、そろそろ起きたいんだけど」
ビリビリに痺れた右手で彼の背中を叩いてみるも、蚊が刺した程度の反応すら見られなかった。
どうしたものかと途方に暮れていた時、ととと、と誰かが廊下を歩いてくる音が聞こえた。海賊たちのずっしりと詰まった足音とは違う、跳ねるように軽いそれには聞き覚えがあった。ウィックだ。
彼は怪我人の面倒を看ていたいということで上陸を差し控えていた。そうでなくても、ああいう場には積極的に行きたがらないだろうが。
通り過ぎるかと思いきや、ウィックは部屋の前で立ち止まった。
「イチルさん、いらっしゃいます?」
返事をしようとして、両手でばっと口を塞いだ。ダメだ。
胸元の肌蹴たお頭がイチルさんにのしかかっている図は、どう考えてもアウトだろう。これでも教育者の端くれ、未成年に悪影響を与えるような真似は絶対に避けたい。
ごめん、ウィック。
と、口を閉ざし居留守を決め込んでいると、ドア越しにしてははっきりとした自問自答が聞こえてきた。
「外出中なんでしょうか。でもこの島じゃなあ。あれ、ドアが開いてる」
見れば、入り口にほんのわずかな隙間が空いていた。寝る時は閉じておくのは習慣になっているから、昨日だってそうなっていたはずだ。
と、なると。
犯人と思しき腹の上の男を睨みつけた。おっさん、締め忘れたな。
その時、ドアの隙間を通して、ウィックと目があった。
「あ、イチルさん!」
探していた相手が無事に見つかって、彼は喜んで部屋の戸を開けた。
そして、完全に停止した。
「違うのウィック!これは―― 」
「ごめんなさいっ、誰にも言いませんから!失礼しましたっ!」
顔を真っ赤にした彼は、言うやいなや一目散に逃げていってしまった。
「頼むから起きて!今笑えない勘違いが発生したから!」
「……肉喰いてェ」