まぶたの向こうに太陽の光が見えた。身体がぽかぽかと暖かい。
もう朝か。そろそろ起きないと。
頭の中でぼんやりとそんなことを考えたが、手足は心地よいまどろみに沈み、そう簡単には動いてくれなかった。
昨夜聞いた話によると、船は今春島の海域を航行中らしい。“春眠暁を覚えず”ということで、もう少し眠っていたくなった私は、誘惑に逆らうことなく寝返りを打った。柔らかいマットレスがブチブチと音を立てて背中を支えてくれる。
なんだか青臭い匂いがするけど、まあいいか。きっと草か何かが入りこんじゃったんだ。起きたらベッドの掃除をしよう。
ねぼけた頭でそう結論付けて、再びベッドに潜り込もうとした。しかし、なぜか被っていたはずのブランケットの感触がない。頭の周りを手で探ってみると、どうやら枕もないようだった。
ここまできてようやく、脳みその回転速度が上がってきた。
ブチブチ?草!?
ブランケットがあったなら部屋の端まで跳ね飛ばすぐらいの勢いで、私はベッドから立ち上がった。はずだった。
眼前に広がる光景に、大袈裟でなくぽかんと口が開いた。
「え?」
朝起きて一番に目にする天井のシミも、海の見える小窓も、荷物を収めた小さなクローゼットも何もない。それどころかそもそも部屋自体が、ない。
天高くどこまでも突き抜けていくようなスカイブルー。薄くかかった白雲の下、背の低い草がしゃらしゃらと囁いている。
だだっ広い原っぱの真ん中で、私はひとり立ち呆けた。
「ここ、どこ?」
40 ハックルベリー=フィンの秘密(Ⅰ)
まずは深呼吸から。
丘の上に仁王立ちした私は、大きく息を吸い、嫌になるくらいの時間をかけて吐き出した。
夢なら醒めてくれ、という願いも虚しく、目の前の景色に変化は見られなかった。野の緑をキャンバスに、赤・白・黄色のお花柄。絵に描いたような春の風景が見渡すかぎりどこまでも広がっている。
「昨日の夜って何してたっけ」
皆と一緒に夕食を取った後、『日誌』を読み、シャワーを浴び、軽くストレッチしてからベッドに入った。いつも通りの夜だ。寝ている間にお花畑にワープしてしまう要素がどこにあったというのか。
アゲハチョウに似ているが不思議な文様をしたちょうちょが目の前を横切っていった。つられて視線を下げれば、足元にはピンク色の花が慎ましげに咲いていた。
由々しき事態にも関わらず、今ひとつ緊迫感を持てないのは、このうららかな陽気のせいだろうか。寝起きということもあって、どうにも夢から覚めきれていない心地がする。
「誰かがふざけて、私の夕食に幻覚を見るキノコを入れたとか」
そんな馬鹿な話があるか、と否定できないのが悲しい。
あちらにいる時であれば「あり得ない」と一蹴できた話も、今となっては笑えない冗談の方が多い。妙な夢を見るキノコどころか、妙な力を得られる実がそこらじゅうにゴロゴロしている世界なのだ。
しばらくの間、さまざまな可能性について考えを巡らせてみたが、思考が解決に導かれることはなかった。
突っ立ってるのも埒が明かない。とりあえずそこらへんを歩いてみよう。
そう思って足を踏み出した時、むぎゅ、と何か肉厚なものが土踏まずに触れた。下を見れば、さっきのピンク花が私の裸足の下でぺしゃんこになっていた。
「わっ!ごめん」
ぎょっとしてすぐに足をどけたものの、時すでに遅し。花は見るも無残に踏み潰され、短い生を散らし……てはいなかったようだ。見ている前で、桃色の花弁がぴくりと動く。
次の瞬間、地面に貼り潰されていた花が、しゃきん、と音がしそうな勢いで起き上がった。折れもせず千切れもせず、元通りの姿である。
「うーん、さすが丈夫。もはや花と呼べるのか分かんないけど」
この不思議なる世界、逞しいのは人間だけではないようだ。
安心したような、空恐ろしいような複雑な気分になりつつ、立ち上がろうとした時だった。
復活したピンクのお花が突如牙を剥いた。比喩ではなく、本当に。
私は自分でもびっくりするような反応速度で飛び退った。
「ちょっと待って、ちょっと待って」
花弁の中心がばくりと開き、そこから尖った牙が覗いている。動かないはずの茎や葉や根がのたうちはじめ、可愛いらしかった桃色の野花はまたたく間に悪魔の植物へと変貌を遂げた。RPGに必ず一回は出てくるタイプのモンスター、と言えば適切に伝わるかもしれない。現実離れした体構造のわりには細部があまりにリアルで、夢心地は一気に覚めた。
足元でキーキー泣き叫ぶ食虫植物もどきから離れようと、数歩後ろに下がった私はそこで再び、むぎゅ、と柔らかな何かを踏みつけた。
叫び出したい気持ちを抑えて、おそるおそる振り向くと、白いウサギがこちらを見上げていた。
「ご、ごめんね?」
謝罪の言葉を言い終わらないうちに、今度はウサギが牙を剥いた。ふわふわの小さな身体が、ビキ、ビキと音を立てて隆起し、ボディビルダー顔負けの巨大な筋肉だるまになる。
二本足で立ち上がったウサギは、横方向にかっ開いた瞳孔で私を睥睨し、雄叫びとともに飛びかかってきた。
「おおォ!」
高速アッパーカットを避けられたのは偶然だった。ウサギの雄叫びとさほど変わらない野太い悲鳴を上げた私は、一目散にその場から逃げ出した。
「ごめん!ごめんなさい!」
走りながら後ろを見て、振り返ったことをすぐに後悔した。悪夢のウサギは依然目を血走らせて追ってきているし、野原のあちこちではピンクやら白やら赤やらをした何かがもぞもぞと身を起こしはじめていた。
「無理!無理だって!」
この光景を見て落ち着いていられるのは、不思議の国のアリスぐらいのものだろう。
半泣きになりながら逃げていると、ようやく原っぱの終わりが見えてきた。緑の短草が尽きた先は雑木林になっている。
あそこまで行けば、追うのを諦めて……くれはしないかもしれないが、少なくとも身を隠す場所はある。
心臓に無理を強いつつ、残る数十メートルを駆け抜けて雑木林に駆け込んだ。
ところがその途端、走っていたはずの地面が消えた。足が空を掻く。
「えっ、落ち……!?」
ひょん、という落下時特有の気持ち悪さが胸の底に走り、次の瞬間、腰に衝撃が来た。
「痛ァ!」
私はあられもない悲鳴を上げて、湿った地面を転がった。
正直痛みよりも驚きの方が勝っているのだが、とりあえず何か喚いておきたいのが人間の性である。
腰をすりすり真上を見上げると、一メートルくらい上に円形の青空が見えた。どうやら穴に落ちたらしい。
「は!そういえばウサギ!」
自分の状況を思い出して、さあっと血の気が引いた。
上から入って来られたら、もうどうしようもない。大した抵抗もできずに、穴の底で貪り食われるのを待つのみである。
頼む、通りすぎてくれ。
湿った土壁に張り付きながら祈っていると、しばらくして何かが穴の縁から顔を出した。光が遮られ、穴の中が暗くなる。
私の心も絶望で真っ暗になった。しくしく泣きながら懇願する。
「私を食べるつもりならどうか優しくお願いします……多分美味しくないけど、でも!でも、できることなら見逃して欲しいです……何でもしますから!」
「こりゃあ、でかいのが掛かったな」
聞き慣れた声にばっと顔を上げた。上から落とし穴を覗いていたのは、花でもウサギでもなく人間だった。逆光で顔はよく見えないが、光に透けた赤い髪に思わず声を上げる。
「シャンクスゥ!」
「おはよう、イチル。起きたのか?」
「起きたのか、じゃないよ!どうなってるのこれ!」
「昼飯を捕まえようと思って仕掛けてみたんだが、まさかイチルが落ちるとはなァ。底に竹槍を仕込まなくて良かった」
さらりと恐ろしいことを言われて、鳥肌が立った。知らないところで生殺与奪の権利をほしいままにされていたらしい。
私は顔を上げ、穴の上のシャンクスに話しかけた。くぐもった声が反響する。
「訊きたいことが山程あるんだけど、とりあえずここから出してくれないかな?」
「ふうん」
目が慣れて、次第に表情がわかってきた。穴の縁に片膝を立てて座ったシャンクスは機嫌の良さそうな顔でこちらを見下ろしていた。
「ねえねえ、聞いてる?」
「何だろうなあ。こういうのも意外と嫌いじゃない」
「はあ?」
「助けて欲しいんだろ。それで?」
助けてくれるどころか、立てた膝に肘を乗せて、にやにやと続きを促すばかりである。
落とし穴を掘ったことにまで罪悪感を持てとまでは言わない。だが腰を強打した上、土まみれになった可哀想な女が目の前にいるのだ。もう少し労ってくれても良いんじゃなかろうか。
「何でもする、って言ってなかったっけな」
「あのねえ」
呆れ返ってため息をついた。ようやく彼の意図が読めた。
ブリジット・テラスの一件以来、シャンクスは時折こういう意地の悪い遊びを仕掛けてくるようになった。要するに悪ガキのイタズラである。遠慮がなくなったのは嬉しいが、その分容赦もなくなったため、しばしば閉口させられる。
私は両手をメガホンのように丸め、赤髪の船長を褒めそやした。
「よっ、お大尽!かっこいい!天下のYO・N・KO!というわけで、ここから出してくれると嬉しいなっ!」
「んー、却下。そうじゃない」
彼はぺぺっと片手を振った。その様子を見て、私はため息をついた。
柄ではないが、仕方ない。ぱちんと拝むように両手を合わせ、半ば媚びるようにお願いした。
「シャンクス、助けて」
彼はそれを見下ろして、鷹揚に頷いた。上がった眉尻がいかにも満足気である。
「仕方ねェなァ。ほら」
茶番のようにそう答え、手を差し伸べてきた。逞しくて頼もしい大きな手のひら。それを目の前にして、私は少しだけ戸惑った。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
おそるおそる背伸びをしてその手を伸ばすと、力強く握り返された。彼の手に以前のような躊躇いは一切なかった。
それだけで急に嬉しい気持ちになって、今までのことは全部どうでも良くなってしまった。我ながら単純なことに。
片腕で人一人を軽々と引っ張りあげた彼は、私の手を引いて歩きはじめた。