ヴェルコンは言った。
我が育ての父、敬愛する師、シスコよ。私は行くが、貴方の眼差し、手の熱、その全てを忘れない。血分けぬ子を育んだ愛深き父に、神の祝福があらんことを。
シスコは答えた。
我が息子、名付けし子、ヴェルコンよ。
たとえ千里の隔てがあろうとも、私は貴方とともにあり、神もまたともにある。己の名を忘れるな。さすれば必ず生きるだろう。
さあ、今ぞ別れの時。
荒野を行く者よ、乾きを恐るることなかれ。
―― 『古き海の冒険』(第二章「シスコとヴェルコン」)
42 古き航路、かつて往きし者の名を忘れじ
「ねえ、シャンクスって航海日誌つけてるの?」
何の気なしにそう問うと、だらしなくソファに寝そべっていたシャンクスがまぶたを上げた。昼寝から覚めたライオンのように、気怠げにあくびをして、私の顔を見上げてくる。
「そんなことをする人間に見えるか?」
「いや、全然」
「だろ?そういうことだ」
当然と言わんばかりにそう答え、彼は再びあくびをした。
「でもさ、いろいろな場所へ行って、いろいろな冒険をするわけでしょ。その時の記録とか出来事とか、どこかに書き留めておきたいって思わない?」
「そういうことはベックに任せてある。航海士だって何人もいるしな。俺がやる必要はない」
「じゃあ、その時の思い出は?」
窓の外ではざあざあと大粒の雨が降っている。湿気った木の床は滑りが悪い。ギギ、と軋んだ音を立てつつ、書き物机のイスを動かし、身体ごとシャンクスの方を向いた。
一、二メートル離れた先、彼は豪奢なベルベットの肘置きに頭を載せたまま、天井のシミに語りかけるような感じで口を開いた。
「忘れて困ることは忘れないさ。忘れたくないこともな。ガキの頃から物覚えは良い方なんだ。まァ、そのせいで散々嫌な目にも遭ってきたが」
雨の日の湿っぽさとは反対の、からりとした口調だった。
彼の言う“嫌な目”がどれほどのものだったのか、私には分からない。教えられたとしても、本当の意味で理解することはできないだろう、きっと。
分かることがあるとすれば、彼の辞書に嘆きという言葉はないということ、たったそれだけ。
彼は己を哀れまない。昔からそうだった。
「あー、昨日も雨、今日も雨。やる気が出ねェな。こう陰気な天気が続くとやんなっちまう」
「前に会った人も、ほぼ同じ格好で同じようなことを言ってたよ」
ポーンショップ島で会ったあの赤鼻の船長は今頃どうしているだろうか。無事に海軍から逃げ出して、彼の望む海に辿り着けただろうか。
もう二度と会うことのないだろう背中が、まぶたの裏に浮かんだ。
「へェ、そりゃあ気が合うな。今度会ったら、“ウチの船に乗らないか”って訊いておいてくれ」
「オーケイ、キャプテン。機会があったらそうするよ」
話が途切れたところで、イスを動かし、読書に戻った。読みかけていたのは、まさにバギーのところで扱った『古き海の冒険』だ。すでに何度か完読しているが、雨続きの海域に入った機会に、ベックマンから借りて読み直している。
さすが古典冒険小説の金字塔、山あり谷あり海あり島あり、ひとたびページを捲れば、誰もが古の海の航海者になれる。
ざあざあと降りしきる雨。船長室はとても静かだった。
人の話し声も波の音も何もかも、雨音が紡ぐベールの向こうに霞んでいる。ここを船上だと伝えてくるのは、ゆったりとした床の揺れだけである。全ての物音を柔らかに覆い隠す繭の中、蝶の夢を見る蛹となって、私はただ海の物語に耽った。
―― 雨の日は読書に限る。
「ヴェルコンは言った!我が育ての父、シスコよ―― 」
「うるさいぞイチル。読むのは勝手だけどな、いちいち声に出すんじゃねェ」
ウォーカーは課題を続けながら、手元から視線を外さずに言った。フライとダンピアも、黙って首肯している。
「だってここは涙なしじゃ読めない、感動のシーンだよ!冒険に旅立つ主人公ヴェルコンが、名付け親シスコに別れを告げる場面なんだから」
「知ってる。あんたの下手くそな朗読で、名場面を汚すなって言ってんだ。傑作に対する冒涜だぞ」
日本の大学生がうんうん唸るような課題を容易く仕上げていく三人だったが、師に対してはあまりにもドライだった。
「この恩知らずくんたちがぁ……ヴェルコンを見習いなさい」
「あんたがシスコをやるのだけは認めない」
いかにも脳筋といった感じのウォーカーだが、幼い頃に物語を読み聞かせてくれたという母親の影響なのか、字が読めるようになって以来、古典文学にドはまりしている。『古き海の冒険』においては、重度のシスコフリークである。
「シスコは強くて格好良くねェと駄目なんだよ。元海賊の頭だからな」
シスコは物語のキーパーソンであり、主人公ヴェルコンに次いで人気のある人物である。大勢の部下を持つ海賊だったが、赤ん坊だったヴェルコンを拾ったのを契機に、陸に上がり、彼を育てることに人生を捧げる。航海中、さまざまな危険を逞しく克服していったヴェルコンの知恵と技術は、シスコの教育の賜物である。
やれやれ、と生意気な教え子たちに肩を竦めてから、私は手元の『古き海の冒険』に視線を落とした。
シスコと別れ、冒険に出たヴェルコンは、仲間を集め、幾多の海を越えていく。巨人の島、人魚の島、大渦に囲まれた島。
「でも一番ドキドキするのは、やっぱり宝島の地図を手に入れてからだよね」
「最終章?」
「そうそう」
「小さな島でサーカスと出会って、夏島の近くで大きな魚を捕まえて―― 」
最終章のあらすじをすらすらと諳んじるウォーカー。負けてなるものかと無駄な対抗心を燃やした私は、続きを奪うように口を開いた。
「娼館の街に誘われて、それから綺麗な原っぱのある島に……ってあれ?」
「どうした? それで合ってるぞ」
「いや、そうじゃなくて」
ふとある仮説が思い浮かんで、私は顎に手をやった。
最終章の最初に出てくるのは何の変哲もない小さな島だ。そこで老人から宝の地図を譲ってもらったヴェルコン一行は、地図に従い、夏島の海域に入る。巨大魚の住処となっていた海を、這々の体で越え、次に辿り着いたのは高級娼館が立ち並ぶ大きな街だった。歓待を受け、旅の疲れを癒やした後、彼らは人の住まない春島に船を寄せる。それから――
まさか、と顔を上げた。
「ねえ、この船って次にどこに寄るのか知ってる?」
「グレンシールって言ってたな、確か。相当な田舎街らしいけど」
ウォーカーに代わり、フライが答えた。
「それって秋島だったり?」
ダンピアが首を縦に振るのを見て、私は自分の仮説の正しさを確信した。
間違いない。偶然の一致にしてはできすぎている。
「なんだ、また買い物か?」
「うん、まあそんなところ」
適当にごまかすと、ウォーカーは“これだから女は”という顔をした。そんな彼をフォローするように、フライが合いの手を入れた。
「そういえば、グレンシールから少し東に行くとカイドウの縄張りだってヤソップさんが言ってたな」
「カイドウ? おいおい、そんな島に寄っていいのかよ」
「縄張りの境目は、正確に言うとグレンシールの二つ隣の島だからな。グレンシールで補給するくらいなら何ともないらしいよ。だいたい縄張りって言ったって、カイドウの本拠地から言えば辺境もいいところなもんで、カイドウ本人や幹部はもちろん、下っ端だって滅多に近寄らないって。あ、これはお頭が言ってた話ね」
「へェ、そんなもんなのか。お頭が言うんなら絶対に間違いないんだろうけど」
「そうとも限らんぞ」
「いや、限るって―― 」
そう言って横を向いたウォーカーは、いつの間にかすぐ隣に腰掛けていた船長に笑いかけられ、ベンチから三十センチくらい飛び上がった。
「お、お、お、お頭!」
「落ち着け、ウォーカー。海の男たるもの、いつでも堂々と構えてなきゃァな」
「は、はいィ!」
憧れの船長にぽん、と気さくに肩を叩かれ、ウォーカーは目を剥いて口をパクパクさせた。シャンクスの存在を確認した時点で、目にも留まらぬ速さで立ち上がり、直立不動の姿勢を取っていたフライとダンピアは、その光景を哀れみ半分、羨ましさ半分、といった様子で見下ろしている。
シャンクスは、机に広げた羊皮紙を見やり、誰にと言わず問いかけた。
「どうだ、進み具合は?」
「じゅ、順調です!」
ガチガチになってしまっているウォーカーに代わり、フライが声を張り上げた。さすがの彼も少し緊張しているらしい。
いくら気さくな質だと言っても、相手は大頭、新人が一対一で話をする機会はそうそうない。ベックマンや他の幹部なら業務的な連絡で顔を合わせることも多いだろうが、船長がクルーに直接申し伝える機会など限られている。
そんな部下たちを満足気に眺めた後、シャンクスは少し意地悪な笑い方をした。
「じゃあ、先生に生意気な口を叩いたりは?」
「え、あ、いや」
答えに詰まった彼らの、懇願するような顔が大変面白かったので、それに免じて助け舟を出してやることにした。
「私からもいいですか、船長?」
「ほう。言ってみろ」
「三人ともそれはもう真面目で真面目で。私に対しても大変丁寧です」
まさしく『古き海の冒険』のヴェルコンがシスコを敬うごとくに。
真面目くさった口調でそう付け加えると、シャンクスはとうとう我慢できなくなったらしく、大きな声で笑い始めた。
「ぶっ、あっはっは!そうかそうか」
「そうだよねー、みんな」
「はい!そうですイチル先生!」
いつの間にか立ち上がっていたウォーカーを含め、三人は何度も首を縦に振った。そんな三人と私を順に見て、本当は何もかも分かっているシャンクスは茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべた。
「よしよし、師を敬うのは大切なことだ。敬われるような師で居つづけることもな」
彼はそう言って、私に向かって意味ありげに目配せした。
一方、若者たちはシャンクスの言葉のひとつひとつを、頷きながら真剣な顔で聞いていた。
そう、彼らにとってのシスコは私じゃない。英雄であり、師であり、父であり、兄であるその人物はとっくの昔に決まっている。
赤い髪のシスコは短く薫陶を授けた後、「頑張れよ」と破顔して、彼らの頭をくしゃくしゃに撫でた。
シャンクスが部屋を出て行った後、そういえば、と私はずっと気になっていた疑問を投げかけた。
「さっきの話で出てきた、カイドウって誰?」
三人の顎が揃ってカポンと落ちた。
「おいおい、頼むぜ、イチル先生よ……」
「アンタ、誰の船に乗ってんだ」
「勘弁……」
見習い三人組は、参ったと言わんばかりに机に突っ伏した。
ぱさり、と本の落ちる音で目を覚ました。
机の上の時計は、覚えている時間よりも三十分ほど進んでいる。ソファでは、シャンクスがさっきと同じ姿勢で寝息を立てていた。
窓の外ではいまだ雨が降り続いている。ざああ、という穏やかな雨音が子守唄になって、いつの間にか夢を見ていたらしい。
膝から滑り落ちた本を拾い上げようとした時、上着の袖が床に滑り落ちた。いつの間に肩にかけられていたそれは、私のものではなく、この部屋の主のものだった。染み付いた潮の香りが鼻をくすぐる。懐かしく心休まる匂いに惹かれて、大きな上着に顔を埋めた。
「起きたか?」
突如かけられた声に、私は昨日のウォーカーのごとく、イスから飛び上がった。ソファを見ると、シャンクスが薄開きにした片目でこちらを見ていた。
「びっくりした。寝てると思ってたのに」
「いい海賊ってのは寝たふりがうまいんだ」
「なんで?」
「寝物語に女が恨み事を言ってきた時―― って、ハイハイ冗談だ。そんな目で見るなよ」
シャンクスは私の視線を遮るように片手を振った。
「寝たふりは死んだふりに通じる。死んだと見せかけて実は生きている、っていうのは海賊の常套手段でな。中途半端に手傷を負わされた場合、負わせた方は逆に警戒を強めちまう。手負いの獣って言うだろ? そういう状況で油断を誘うには、死んだふりが一番いい。そんでもって、始末したと思って近づいてきたところを―― 」
ガブリ。獣の口を模したシャンクスの手が、私の喉元に噛み付いた。
「シャンクスも良くやるの?」
「ガキの頃はしょっちゅうだったな」
過去を思い出すように、彼は目を細めた。
「死んだふりならアイツの方が抜群に上手かったけどな。白ひげと戦闘になった時なんて、十も数えないうちから死体の真似だ。まァ、あっさり見破られちまってたが」
馴染みの戦友を思い浮かべたのか、シャンクスは楽しそうに喉で笑った。そしてしみじみと言った。
「ああ、そうか。もう二十年も前になるのか」
忘れたくないことは忘れない。彼の記憶は、彼の望むままに記録され、今もなお褪せることがない。
記憶、記録、思い出。
ふと、以前ベックマンに言われたことを思い出した。
『確かに記録は残さなかった。だが記録の代わりに、その男は自分の冒険を元にして物語を書いたんだ』
『―― 海あり島あり、人生をかけてさまざまな場所を冒険した彼は、その内容を脚色し、組み直し、心を駆り立てる一編の物語として編み上げた』
膝の上に乗っているのは『古き海の冒険』。
そうだ、シャンクスに訊きたいことがあったのだ。
本を持って立ち上がり、ソファの前まで行くと、意図を読んだらしい彼は身体を起こし、私の座る場所を空けてくれた。以前とは違い、必要以上に避けたりはしない。
彼の手ひとこぶし分くらいの距離を空けて、私はその隣に座った。今まで寝転んでいたせいで、ベルベットは人肌のぬくもりを持って私の膝裏を撫でた。
「シャンクス」
すぐ隣を見上げると、彼は顔を傾けて話を聞く姿勢になった。
少しの間、頭の中で言葉を選んだ後、私は単刀直入に切り出した。
「これまでこの船が辿ってきた航路って、この本の中身と似てるよね? どうして?」
昨日ウォーカーたちと話している時に気付いたことだ。小島からはじまり、夏島の海域、巨大魚、娼館の島、野原のある春島と順番に船を進めてきた。ヴェルコンも、それから私たちも。
彼は私の目指すものについて積極的に話したがらない。今回も上手く逃げられてしまうかも、とある種の疑心を抱いていた私だったが、シャンクスは意外にもすんなりと答えを口にした。
「似てるどころじゃないぞ。全く同じだ。―― 俺たちはその本の示す通りに海を渡って来たんだからな」
「本が示す通り?じゃあ、やっぱりそれって」
彼ははっきりと頷いた。
「そう、『古き海の冒険』はそのままハラントゥーガへの道標になってるんだ。むしろハラントゥーガへの道を暗示するために『古き海の冒険』を書き残したと言った方がいいかもな。ハラントゥーガにはじめて到達した者の話はベックから聞いたな?」
「うん。『古き海の冒険』の著者は、ハラントゥーガへの最初の到達者なんだよね」
「だが、その事実は全くと言っていいほど世間に知られていない。理由は二つある。ひとつめに、故郷に生きて帰れたのがそいつ一人だけだったということ。そして二つ目に、『古き海の冒険』の著者として有名になった後も、自分がかつてハラントゥーガの地にたどり着いた者であることを、生涯語らず、ついには墓まで持って行ったということ。さて、そいつはどうしてそんなことをした思う?」
シャンクスは珍しいことに、ベックマンのような問い方をした。
物語にヒントを託しながらも、ハラントゥーガに到達しながらも記録を残さず、辿り着いた事実すらひた隠しにしてきた理由とは。
「誰にもたどり着いて欲しくなかったから?」
いや、違う。
口に出しておきながら、私は自分の言葉を即座に否定した。
ハラントゥーガの存在を自分だけのものにしたければ、何も残さなければ良かった。誰にも解けない暗号を用意して、永遠に封印してしまえば良かったのだ。
にも関わらず、わざわざ物語を書き、その中にひっそりと情報を紛れ込ませた理由は――
「見つけて欲しかったから?」
「……イチルらしい答えだ」
シャンクスは微笑んでいた。なぜか正否は口にしなかった。
「そいつはハラントゥーガへの道を、宝を得たい欲深な者ではなく、純粋に冒険を求める者だけに残したかったんだ」
夢のような冒険を追い求め、それでも飽きたらず海へ飛び出して行く者たち。『古き海の冒険』の作者はそんな人間だけが見つけられる場所に、本当の冒険を隠しておいたのだ。
まさしく夢のある答えである。嬉しくなってしまった私を前にして、シャンクスはぼそりと言った。
「といっても、物語の結末と、イチルの目にする未来が同じだとは限らないがな」
「それってどういう―― 」
「さて、話はこれまで。そろそろ晩飯の時間だろ。一緒に食おうぜ、イチル」
一足先に立ち上がったシャンクスは、手首を掴んで私を立たせた。話を断ち切られてモヤモヤしていた私だったが、身体は正直なもので、食事のことを想像しただけでお腹が鳴った。
「今日のメニューはトビサワラの照り焼き、アマオオイカのバターライス詰め、海かぼちゃの冷スープ、その他野菜料理多数、デザートはコック長特製のレモンパイだ」
よどみなく今日の夕食のメニューを述べた彼に、私は感心を通り越して、呆れてしまった。
「よくもまあ、しっかり覚えて」
「俺は何も書き留めない。昔からな。だが、たったひとつ紙にしたためたものがあるとすれば……」
彼はそれ以上何も言わず、ただ私を見下ろして笑っただけだった。
部屋の戸に手をかけて、彼は私にこう言った。
「いざ行かん、目指すは我らの?」
「―― 大食堂!よし、先についた方が敗者にデザートを捧げること!」
本を机の上に置いて走り出した。出遅れたシャンクスが後で何か叫んでいるが気にしない。
廊下の向こうに、夕暮れの海が見えた。鮮やかに赤い黄昏は、いまや故郷のように心安らぐ。
あの人が見ていてくれるかぎり、私はどこまでも進んでいける。
ずっと。これからも。