ゴチンと鈍い音がして、若い男が頭を抱えた。
「いってェ。わざとじゃねェって言ってるだろ。だいたい小石が当たったくらいですっ転ぶか、普通」
げんこつを落とされた若者は涙声でぶうぶう文句を言った。サングラスのせいで顔は分からないが、声や雰囲気からして年の頃は二十歳やそこら、締まった身体の青年である。
もう一人の男が潮焼けした声で答えた。
「そういうことを言ってるんじゃねェよい。オメエの投げたもんが人に当たったらどうなるかなんざ、火を見るより明らかだろうが」
「炎だけに?」
ゴチン。見ている前で、黒髪の頭にもうひとつたんこぶができた。
拳をお見舞いした男の方は、落ち着いた声音から予想するに、おそらく三十過ぎから三十半ばである。シャツの上からでも、筋肉の隆起が透けて見えた。
「で、人様に迷惑をかけた時はどうすんだよい」
男に言われ、そばかすの頬にムッとした色が浮かんだが、素直に非を認めることにしたらしい。こちらに向き直ったかと思うと、青年は驚異的なスピードで頭を下げた。
「すみませんでしたァ!」
直立不動をポキっと半分に曲げたような、折り目正しすぎるお辞儀である。腰の角度はもはや直角。勢い余ったせいか、羽織っていた上着が少しずれ、二の腕が露出した。そこにAだのSだのというヤケに派手な刺青があるのを見て、私は思わず半歩下がった。
「い、いえ。そんな」
「俺が悪かったです! 許してください!」
「わ、私もフラフラしてましたし。ほら、もう大丈夫ですよ」
手足を動かして見せると、「く」の字に折れていた青年は、ビュンと再び身体を起こした。勢い良く上がった後頭部にアゴをカチ割られそうになって、私は盛大にのけぞった。
「そっか、あんたいいヤツだな」
青年はけろりとそう笑い、男に向かって得意気に眉を上げた。
「ほらな。俺は子供の頃から礼儀正しいことで有名だったんだ」
「おめえみてェな悪タレが?まったく世も末だよい。痛い目に遭わせちまって悪かったな、嬢ちゃん。ガキのしたことと思って水に流してやってくれ」
二人組の男はフードを深くかぶり直すと、そそくさと人混みの中に紛れていった。
46 パストラル・プリズン(Ⅰ)
教会の生け垣から顔を出し、周囲を見回した。レトロな雰囲気をまとったレンガの家々が、燦々と陽光を浴びている。村の平穏を確認して、安堵の息をついた。
「さすがにもう大丈夫だよね」
海賊船から脱走してからかれこれ数時間経つ。追手がかかる気配は一向になかった。
自分で言うのも癪だが、若い女であるということ以外にこれといった価値のない獲物である。いくらでも替えのきく私を、あの怠惰な海賊たちが熱心に追い回すだろうか―― 反語。今頃、海の上で「逃げられちまったな」「あーあ、またどこかで捕まえてくるか」と、紐の切れた風船のごとくライトでいい加減なやり取りがなされているに違いない。
「お腹すいたな」
空っぽの胃がしょんぼりと鳴いた。海賊船でパン切れをかじったのを除けば、ここ数日ろくすっぽ食事を取っていない。
飴のひとつでも入っていやしないかとポケットを裏返してみたが、糸くずがパラパラと虚しく散らばっただけだった。
「お金、お金さえあれば」
攫われた際に手持ちの現金はすべて取り上げられてしまった。取り返せたのは結局『日誌』だけだったのである。
「財布の中に結構入ってたのにな。くそう、海賊め」
聞き苦しい悪態を掻き消すように、藁を満載した荷車が目の前をゴトゴトと通りすぎて行った。
途方に暮れて、天を仰いだ。昼過ぎの空は青く、はるか遠くの山頂にはうっすらと雪が積もっている。
島の名はルイスハリス。
島と同じ名前の村が中央にぽつんとひとつあるだけで、あとは山ばかりの島である。村と言っても人口は小さな街と同じくらい、農商業もそれなりに賑わっていると言える。
山間で羊を追って暮らす者が多く、麓では主に羊毛や乳製品の加工が行われている。と、以上が先ほどここの牧師が教えてくれた内容である。喉がカラカラだった私のために、コップ一杯の水も添えて。宗旨はやはり“隣人を愛せよ”か。
牧師の解説に加えて個人的な感想を述べるとするならば、村は賑やかではあるが、やかましくはなく、どちらかと言えばのどかで、牧歌的で―― ええい、オブラートに包むのはやめよう。正直に言う。見た感じ聞いた感じ、ルイスハリスは田舎も田舎、ド田舎である。攫われて辿り着いた先が、無人島や治安の悪い島でなかったことには感謝している。だが、諸手を上げて喜べるかと問われれば、残念ながら答えはノーだ。
「どうやって連絡をとれと」
携帯電話はもちろん公衆電話も見当たらない。そもそもこの世界に電話はあるのだろうか。もう何ヶ月も暮らしているが、いまだにそれらしきものを目にしたことがない。
電話がないならせめて手紙を、と話のついでに牧師にポスト(もしくはそれに準ずるもの)の在り処を訊ねてみたが、彼は静かに首を振った―― そんなものはありません。
氷像のように凍りついた私だったが、それが氷山の一角に過ぎないことをじきに思い知った。牧師はさらなる衝撃の事実を口にして、追い打ちをかけてきたのである。
「『三ヶ月に一回の定期便だけ』って」
なんと、外部とやり取りは三ヶ月に一回の定期船だけだという。この島に人や情報が出入りするのは、その限られた一日以外にない、と彼は言い切った。アンタナ・リボナの辺鄙さもなかなかのものだったが、ここまでひどくはなかった。なるほど港の寂れっぷりも納得できる、と私はショックを通り越して、半ば感心してしまった。
そしてその肝心要、頼みの綱の定期船だが―― 直近の便は幾人かの旅人と三ヶ月分の新聞を下ろし、つい先日去ったばかりとのことだった。「嘘だと言って」とすがりつきたくなる答えである。
とにもかくにも連絡手段がない。何ひとつない。
かと言って、探す相手はかの“赤髪”御一行、おおっぴらに尋ね回ることもできない。“お尋ね者”なのに尋ねられないとはこれいかに。
俺たちの名は迂闊に出すな、と船長以下クルーたちに口を酸っぱくして言い含められている。副船長曰く、“赤髪”の名に、雑魚は逃げるが大鮫は寄ってくる、とのこと。
第一、居場所が分かったところで、海軍の軍艦ですら捕捉できないレッド・フォース号の船足に、徒手空拳の私が追いつけるはずもなかった。空でも飛べるなら別だろうが。
こうなった以上、向こうに見つけてもらうしかない。
と、暗澹たる気持ちに襲われた私は、深い深いため息をついた。なにしろドのつく田舎である。頭脳自慢のベックマンとて、私が今この時、教会の生け垣の裏で一人寂しく三角座りしているとは夢にも思わないだろう。
都会だったらもうちょっとマシだったのに、と膝を抱え込んだ。
じっとしていても情報は入って来るし、シャンクスの方だってまずは人の集まる場所から探すだろう。運が良ければ今頃あっさり再会できていたかもしれない。
現状、彼らとの再会は困難を極めている。どれくらいの距離を攫われてきたのか、どうすれば元の島に帰れるのか、皆目見当もつかなかった。
「まあ、帰り道が分かったところで、どうしようもないけどね。今日のご飯すら買えないし」
やけくそ気味につぶやくと、前を歩いていた牧童風の少年がビクッとこちらを見て、追われるように逃げ去って行った。一人きりになるとすぐに例の独り言癖が復活してしまう。悲しいことだ。
シャンクスのところに帰りたくとも、どこにいるのか分からない。居場所が分かったとしても、船がない。船があったとしても、それに乗るためのお金がない。かと言って、この島でじっとしていても見つけてもらえそうにない。
いつでも帰り道を探してるなあ、と頭を抱えた。
こんなところで迷っている場合じゃない。私はそうでなくても壮大な迷子状態なのだ。
「言ってても仕方ないか」
怪しまれる前に、やれることはやっておかないと。
閉鎖的な集落において、最も恐ろしい刑は“村八分”である。浮浪者同然の身分だとバレれば、あっという間に鼻つまみ者にされてしまうだろう。
ありがたいことに、私に対する島の住人たちの視線はまだそれほど厳しくない。今なら交渉次第で食べ物なりなんなり手に入るはずだ。
『おやま、若い娘の旅人とは。これまた珍しいお客さんだぁね』
半時間ほど前、教会から出てきたおばあさんもそんな正負のない感想をつぶやいただけで、すんなり歩き去っていった。
見るからに「余所者です」といった風体をしているにも関わらず、今のところ過度に怪しまれずに済んでいるのは、定期船に乗ってきた正規の旅人だと思われているかららしい。
船を逃したが故に、排斥されずに済んでいる。人間万事塞翁が馬、という言葉が思い浮かんだが、そもそも船に間に合っていれば村八分だのなんだので悩むこともなかったような。
ポジティブシンキングに限界を感じたところで、私はよいしょと立ち上がった。時計はないが、太陽の位置からしてまだ昼過ぎだろう。明るいうちに今後の作戦を練らなければ。
お腹はペコペコだが、物乞いは最終手段にしようと決めた。無一文だと知られたら、何かとやりにくくなる。
三歩ほど歩いて、空を見上げた。私の気持ちなど知ったことかと言わんばかりに、白い雲がのんびりふわふわ漂っていた。あの雲に乗って好きなところに飛んでいけたら、どんなにいいだろう。
「電話もねぇ、お金もねぇ」
おらこんな島いやだ。