chapter6 FEAR IS LIKE FIRE

48 パストラル・プリズン(Ⅲ)



 質量のある炎が肌を撫ぜる。
 そんな想像をしてしまったのは、この尋常でない威圧感のせいだろう。
 地獄門のように立ちはだかる大柄な男たちの前で、私はクマに睨まれた人のごとく、死んだふりをしたくなった。

「どこで手に入れた?」

 黒髪の青年が急かすように問いかけてくる。
 低い声の合間を縫って、小鳥の鳴き声と人の歓談。岩場を流れ落ちる水音。楽器の音。のん気な音の組み合わせがどうにも場違いだった。
 答えられないでいると、彼は苛立ったように眉を顰めた。

「時間が惜しいんだ。早く――
「まあ待て。そんなにビビらせるこたァねェだろよい」

 青年の言葉を遮り、年上の男が前に出た。

「難しいことは訊いてねェはずだ。どこで手に入れたか、それだけ教えてくれりゃあいい」

 子供を諭す時の言い方だった。台詞を奪われた黒髪の青年は、難しそうな顔でこちらを見下ろしている。

「これはここにあるはずのモンじゃねェ。アンタみてェな嬢ちゃんがなんでこんなモンを持ってんのか、俺たちだってまるで分からねェんだよい」

 私は黙りこんだまま、視線を地面に落とした。
 剣呑さを慎重に包み隠そうとするのんびりとした口調。だが、所詮それは気休めのようなもので、私がだんまりを決め込む度に場の空気は冷え込んでいく。

 膝に力が入らなかった。へたり込んだままずりずりと這い下がった先で、雫がひやりと肩に散った。
 すぐ後ろに泉があった。

 行き止まり。これ以上は逃げられない。
 震え始めた私に、男はため息をついた。そして、背を丸めてしゃがみ込み、摘んでいた『日誌』を私の目の前にぶら下げた。

「俺らがそんなにおっかねェか。せめて顔くらいは上げて欲しいもんだ」

 腕利きの釣り人が獲物を針に誘う時のように、男は『日誌』を右へ左へと動かした。それにつられるようにして、私はゆっくりと顔を上げた。視線が合う。男の眼に苛立ちの色はなく、ただゆったりと凪いでいて、それが逆に恐ろしかった。
 ここから逃がす気は微塵もない、彼は静かにそう告げていた。

 涙のにじんだ目を擦った。
 万事休すだ。もう“アレ”しかない。覚悟を決めた私は、息を吸い込んだ。

「う、うああああ!」

 自分でもぎょっとするくらいの大声をあげた。さすがに広場の喧騒には届かなかったが、近くにいた人々は顔を上げてこちらを見た。私は彼らの背後を指さしながら、精一杯おびえた表情でこうつづけた。

「あ、あ、あ、“赤髪”がいるゥゥ!!」

 この世の終わりと言わんばかりの悲鳴に、男たちは素っ頓狂な叫びで応じた。

「“赤髪”!? ハア!?」

 逃げるためのハッタリだ。“赤髪”がこんなところにいるはずない。
 そんな確信が脳の表層に上がってくるまで―― コンマ1秒にもみたないほんの僅かな時間、彼らの意識は確かに目の前の私から外れた。まさしく狙った通りの反応だった。小娘だと侮っていたが故の、油断だったのかもしれない。

 とにかく私の目はその隙を逃さなかった。自分でも信じられないスピードで、目の前の『日誌』をふんだくり、空いている方の手を背後の泉に浸した。

「って、ンなわけ――

 男たちの台詞は最後まで続かなかった。
 すでに身体をひねっていた私はその勢いを利用して、思い切り、それはもう思い切り、泉の水を跳ね飛ばしたのだ。

 ばしゃん。
 ビンタの要領で撃ちだされた水の塊は、咄嗟に払いのけようとした男たちの手のひらをすり抜けて、見事その顔面にスプラッシュした。
 “美浜のカツオ”秘技・水上猫だましである。

「ッ、エース!」

 水を引っ被った男が、呆気にとられていた青年をどやしつけるも、時すでに遅し。その頃にはもう、私は人混みに向かって一目散に走りだしていた。
 一呼吸遅れて、青年の手が宙を掴む。

「ちっ! マルコ、あんたの能力で――
「これ以上目立つのはマズいよい。走って追うぞ」

 そんな会話が後ろの方で聞こえた。
 散々脅された腹いせに、心の中で「ざまあみろ」とばかりに下品なハンドサインを使った私は、そのまま広場の人いきれに突入した。

 

◇◇◇

 広場を出てすぐ、手近な小屋に飛び込んだ。
 三メートル四方のごくごく狭い倉庫には、家畜の餌らしい干し草が天井いっぱいにまで積まれていた。香ばしい匂いをかき分けかき分け、私はすっぽりと藁の中に身を隠した。

 息が苦しい。思ったより保たなかった。
 すうっと目の前が暗くなっていくのを、膝を抱えて耐えた。ただでさえエネルギー不足の身体は、激しい運動に耐え切れず、貧血を起こしかけていた。

 逃げられるものならもっと遠くへ逃げたかったが、倒れてしまっては元も子もない。
 灯台もと暗しとも言うし、遠くに逃げられないのであれば、中途半端なところに隠れるよりも広場の近くにいた方がいい。彼らは人目を忍ぶ立場のようだから、人の多い場所にいることで足かせをつけておける。
 ちくちくと居心地の悪い藁の中、荒い息を吐いた。

 ―― 『日誌』を見られてしまった。

 呼吸を整えながら、さきほど男たちが見せた反応を思い返した。彼らは『日誌』が何なのかを知っているような口振りだった。ドルテン先生が禁書として封印し、海軍が血眼になって探していた『日誌』の価値を。

『これはここにあるはずのモンじゃねェ。アンタみてェな嬢ちゃんがなんでこんなモンを持ってんのか、俺たちだってまるで分からねェんだよい』

 まるで分からねェんだ、か。口の端を上げて、私は自嘲した。
 私だってまるで分からない。そう言ってやれたら、どれだけスッキリしたことだろう。こちらの方は『日誌』と縁を持った理由はおろか、『日誌』の真の価値さえ良く分かっていないのに。

 元の居場所に帰るために必要な物。私にとってはただそれだけの物で、だからこそ決して手放すことのできない物である。

「とにかく、奪われにくいところに隠さないと」

 一番安全なのは服の下、ということになるのだが、これまで腹巻きのようにして『日誌』を収納していた袋は、気絶している間に海賊たちに取り上げられてしまっていた。

 『日誌』以外の荷物を取り出し、麻袋をそのまま服の下に巻きつけてみたが、粗い繊維が肌をつついて居ても立ってもいられない。今度は逆に『日誌』だけを取り出し、ズボンと身体の間に挟み込んでみる。こちらもやはり座りが悪い。

「大きさも分厚さも中途半端なんだよね」

 ボロボロのハードカバーを掴みあげた時だった。私は突如、奇妙な違和感に襲われた。

 ―― こんなに軽かっただろうか。
 余白なく文字が書き込まれた『日誌』は、インクの重量が加わって見た目以上に重い。いや、重かったはずなのだ。
 ひやりと、言葉にならない緊張が背を走り、私は『日誌』のページを捲った。

「なん、で」

 白い。捲れど捲れど白紙のページ。
 紙を捲る手を速める。だが、見慣れたコーヴランの文字はどこにもなかった。

 『日誌』によく似た、それでいて『日誌』でないただのノートを前に、私の視界は今度こそ真っ暗になった。

「まさか、あの時に」

 ボロボロの黒い表紙、手帳と同じ大きさ―― 外から見れば『日誌』と瓜二つのそれ。海賊船から逃げる時、中身を確認することなど二の次だった。本物に違いないと思い込んで、全く別のものを持ちだしてしまったのだ。
 本物はまだあの海賊船に乗ったままだ。

 どうして中身を確認しなかった。どうしよう。誰かに内容を見られていたら。いや、それだったらまだ良い方だ。価値の分からない海賊たちに、ゴミとして捨てられてしまっていたら。
 後悔と悪い想像で頭の中がいっぱいになる。ショックのあまり吐き気すら覚えながら、私は小屋から走り出た。

 港に向かわないと。あの船を追わなくてはならない。

 無我夢中で広場を走り抜けた。
 家々に農道を駆け抜け、小川を渡る。ズボンと靴がビショビショになったが、気にも留めなかった。

 教会の敷地を横切り、最初の丘を越え、元来た森に入りかけた時、人影が行手を遮った。

「よう、また会ったな。三度目の正直って言うんだっけか」

 そう言って、黒髪の青年はサングラスを外した。想像通り私と同じか、私よりも少し若いくらいの精悍な青年だった。彼は気怠げに、でも少し楽しそうに私を見ていた。

「急いでるんです……!」
「奇遇なことに、俺らもだよい」

 青年を避け、別の方向に走り出そうとしていた私の腕を、強い力が引き留めた。振り向いた先にいたのは、もうひとりの男だった。十分ほど前、水を浴びせたはずの身体は、不思議なことにすっかり乾いている。

「油断してたこっちも悪ィが、ずいぶんと手こずらせてくれたもんだ。ご想像の通り、俺たちは人前じゃァ自由にできねェ身分でよい」
「アンタは知らねェみてェだが、とある界隈じゃちょっとした有名人なんだ。これでも」

 頬のそばかすを掻きながら、青年が付け加えた。腕を掴む力が強くなる。

「追いかけっこはこれで終いだ。二度目はねェよい」
「離してください!港に行かないと!」
「俺らの用が終わったあとでな」

 逃げることを許さぬ声に追い詰められて、私は奥歯を噛み締めた。
 船はもう行ってしまっただろうか。それともまだ港に?
 ろくに物も食べずに走り続けてきたツケか、 頭の奥が熱っぽく痛み始めていた 。

「あのノート、どこで手に入れた?」
「だから、港に――
「こっちとしても穏便に済ませたい」

 コチコチと時計の秒針が心の中で時間を刻み、その度にズキンズキンと頭痛がした。急がないと。こんなことをしている暇はないのに。

「チンピラみてェな脅しはしたくねェんだがな。いい加減にしねェと、こっちもそろそろ――

 ズキン。再び頭が痛み、視界が一瞬明滅した。
 焦りと体調の異常によって、恐怖心がぶよぶよに溶けてしまったようだった。気がつけば私は相手を睨みつけていた。

「いい加減にするのはそちらです! 私がどこに何しに行こうが関係ないでしょう!?」

 何かを言いかけていた男は、その状態のまま動きを止めた。目をぱちくりさせる二人。お構いなしに畳み掛けた。

「どこで手に入れたか? 今ちょうどそこに向かってところなんですって!港です!み、な、と!さっきから何度も言ってますよね!そこに停まっている船の中で見つけたんです!早く行かないと手がかりがなくなっちゃいますよ!?」

 息継ぎも忘れて盛大に啖呵を切った後、私はチョップで男の手首を払い落とした。
 呆気に取られた男たちに見守られながら、鼻息荒く足を踏み出した時、上映直前の映画館のようにスッと目の前が暗くなった。

「あれ?」
「お、おい!」

 すぐ後ろにいたはずの男の声が、どこか遠くで聞こえた。何かの倒れる音がした後、身体に鈍い痛みを感じた。
 黒幕がスッと引かれ、私の世界は真っ暗闇に沈んだ。

◇◇◇

 パチパチという音とともに、パンを焼くオーブンような懐かしい暖かさが頬を撫でた。まぶたの向こうに浮かぶのは欲してやまない赤い光。赤くて眩しい炎だった。

「やっぱり死んじまったんじゃ……」
「勝手に殺すな。まだくたばってねェよい」
「この顔色で?」
「貧血で倒れた時は誰だってこんなもんだ。走った後にあれだけ喚けば当然だろうよ」

 頭上で声がする。薄目を開けると、二人の男が枕元に座っているのが見えた。あぐらをかき、火を起こしている。久しぶりに見る炎の揺らめきに、ほっと気持ちがほぐれた。
 そう言えばあの夜もこうして――

「って、夜!? 船は!?」
「とっくの昔に行っちまってるよい」

 夢心地から覚醒した私は、地面から飛び起きた―― つもりだったのだが、実際には肩が少し動いただけだった。身体に力が入らない。

「何でこんな」
「いいから寝てろ。急に動くとまた倒れるぞ」

 地面に寝かされた身体に、薄手の毛布がかけられていることに気付き、難詰のための言葉を呑み込んだ。
 そうだ、確か気を失ったんだ。
 さっきよりかは柔らかい口調を意識して、黒髪の青年にたずねた。

「どういう状況ですか?」
「港へ行く、って言った後、急に倒れたんだ。放っとくわけにも行かないんで一緒に連れてきた。この港まで」

 何のものか分からない肉の塊を頬張りながら、黒髪の青年が答えた。
 キャンプファイヤーの炎を通して、闇の向こうに目をやった。寂れた港には船はおろか、明かりひとつなく、虚しい夜が広がっているだけだった。

「船、もう行っちゃんたんだ」
「俺らがここに着く何時間も前にな。港の形跡を見るかぎり、昼前には出たんじゃないか?」

 炎に照らされて、青年の頬がオレンジ色に艶めいた。シャツの袖からは逞しい腕が覗いている。見られていることに気付いた彼は、肩を竦めた。

「アンタを運んだのは俺じゃないぜ。俺はそういうの、向いてないから」

 言いながら、彼はアゴでもう一人の男を指した。
 向かいに座った男は、まぶたを落としてあくびをしていた。年はシャンクスと同じか少し若いくらいだろうか。炎でできた陰影のせいか、顔つきには凄みがあったが、昼間のような険しさはなかった。

「波の跡を辿ってはみたんだが、このあたりは潮の流れが複雑でな。おまけに日が暮れてきちまったもんだから、途中までしか追えなかったんだよい」

 男は気怠げにそう言い、火の中に新しい薪を放り込んだ。その横顔に悪意や害意は見当たらない。反省した私は、小さく頭を下げた。

イチルといいます。助けてくださって、ありがとうございました」

 二人の男は顔を見合わせ、何ともいえない表情をした。
 元はと言えば、追いかけ回されたせいでこんなことになったのだが、介抱してもらったのは事実である。

「おふたりは、っ、ゲホッ、ゴホ」

 カラカラの喉が痛み、ひどい咳が出た。年上の男が水の入ったコップを手渡してくる。

「マリオだ。元漁師で、今はとある船の用心棒をしている」

 鍛えられた身体の言い訳をするように、彼は己の職業を付け加えた。横で聞いていた若い方の男が、俺も俺もと手を上げた。

「俺の名前はエー――

 言いかけた青年の頭に、男が無言で手刀を落とした。涙目になった青年は、咳払いをして自己紹介をやり直した。

「エー、エー、ゴホン。そうだな、えっと……ルフィだ。俺の名前はルフィ。職業および職場はマル―― じゃなくてマリオと同じ」
「マリオさんとルフィさん、ですね」

 水を飲んで人心地ついた私は、何から聞こうかと考えを巡らせた。昼間のこと、ノートのこと、船のこと。話をしなければいけない内容は山程あった。が、しかし。

「……とりあえず」
「とりあえず?」
「何か食べさせてもらえませんか……?」

 今まさに頬張られようとしていた肉に視線を送ると、青年は口の周りを汚したまま、「なんだ、意外と素直だな」と笑い声を上げた。


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