とても苦しい。
俺は何もできない。
俺には、力がない。
これを読んだ者へ、恥を承知で乞う。
49 “病の獣”(Ⅰ)
「―― この檻を壊してくれ、か。どう思う、マリオ?」
「内容の如何はともかく、オルランドが書いたものには違いねェな」
偽『日誌』のページを睨んで言ったマリオに、ルフィが眉を寄せた。
「確かに字はオルランドのモンに似てるが、じっと見てると、本当にそうか分からなくなってくるな。サインでもしてあるんならともかくよ」
「“anything”のaがeになってるのが分かるか? これはアイツの癖だよい。オルランドが読み書きを覚えたのは大人になってからだからな。前に連絡文を書かせた時も、綴りがややこしいだのなんだの抜かして、結局間違えたまま送っちまいやがった」
オルランドという男のものらしい文字は、お世辞にもうまいとは言えなかった。習いたての子供が必死になって書いたような、不慣れな筆跡だ。
助けを求めるその二、三行の文章を除けば、ノートの中身はほとんど白紙だった。パラパラとページをめくった後、マリオは私の顔を見た。
「で、本当にこれだけだったんだな」
「はい。あの時、袋に入っていたのはこれだけでした。他に手がかりになるようなものは何も」
首を振って答えると、黒髪の青年ルフィは眉根を寄せて唸った。
「せめて、アンタを攫った海賊船の特徴だけでも分かればな。ジョリーロジャー、船の形、船員の名前。何か覚えはないか?」
「逃げるのに必死だったので、船の形や海賊旗はあんまり覚えていないんです。船員は、うーんと、ああそうだ!チェスターとテリーって名前は何度か聞きました」
「チェスターとテリーか、心当たりはねェな。マリオ、あんたは知ってるか?」
「いいや。名のある海賊じゃねェんだろう。“チェスター”も“テリー”も、このあたりじゃ特に多い名前だしな。地元のチンピラどもが小舟に乗って、ママゴト遊びでもしてるんだろうよい」
そのママゴト遊びで誘拐された人間がまさに目の前にいるのだが、マリオは全く気に留めていない様子で言った。
偽『日誌』改め、オルランドのノートを手に入れた経緯を説明するにあたり、私がルイスハリスに来てしまった事情も伝えてある。誘拐された後に脱走、という事件性のある内容のために、大袈裟に反応されて「海軍に保護してもらおう」なんて話になりはしまいかと恐れていたのだが、あらましを聞いた二人は特に驚きもせず「殺されずに済んで良かったな」という至極実際的な言葉をかけてくれた。
ほっとしたのと同時に、これがもし日本だったら“誘拐”という単語だけで上へ下への大騒ぎになっただろうと、改めて環境の違いを思い知った次第である。
「あーあ、わっかんねェなァ」
ルフィはノートを放り出してテーブルに頬杖をついた。精悍な顔立ちと成熟した体つきから予想するに、齢の頃は二十歳かそこら、男女問わず人好きのする言動で他人を萎縮させない青年である。
一方のマリオは、一見すると癖のありそうな、悪い言い方をすると気難しそうなタイプである。ルフィに比べると何事にも年季が入っていて、頼れるおじ……ゴホン、お兄さんと言ったところ。日本人の感覚からすると少々クレイジーな髪型をしているものの、中身は至って常識人らしかった。
「大事な手がかりだ、手荒く扱うなよい」
ルフィによって無造作に投げ出されたノートに、例のごとく顔をしかめたマリオは独特の口癖でたしなめた。
内容といい、年齢差といい、ベックマンと例の見習い三人組の会話が思い出されてならない。猪突猛進型の新人と、クールな上司の組み合わせは、どこに行っても鉄板である。
上司のマリオと、新人のルフィ。
どこかの船の用心棒らしい彼らは、行方不明になったオルランドという仲間(正しくは部下)を探して、はるばる海を渡ってきた。だが、この近海に入ってから目撃証言がプツリと途絶えてしまい、探せど探せど手がかりは見つからず。
そんな時、ルイスハリスへの定期船が出ていることを知り、藁をも掴む気持ちでこの辺鄙な島にやってきたという。
「せっかく手がかりにたどり着いたと思ったのになァ。ノートの中身は、独り言と“SIZZ”だけで、後は真っ白だってんだから泣けてくるぜ。おーい、オルランドォ、どこへ行っちまったんだよ」
ルフィは、テーブルに突っ伏した。
“SIZZ”というのはさきほどのメッセージの真下に、添えるようにして記された単語だった。
ただ“SIZZ”とだけ殴り書かれているだけで、他には何の説明書きもない。文字の形が上記のメッセージと同じなので、メッセージの方がオルランドの手によるものであるなら、この“SIZZ”という言葉も彼本人が書いたと考えて間違いないだろう、というのが現在の我々の見立てだ。
分厚いノート全体を通して、メッセージと“SIZZ”との二箇所のみがヒントとなりうる記述だった。
「辞書がないから何とも言えないんですけど、“SIZZ”なんて単語ありましたっけ?」
「あったっけ?」
集中力が切れたらしいルフィは、テーブルに顎を乗せたまま、頼りになる相棒に丸投げした。
「全くねェってわけでもないが、読んだ奴がぱっと思いつかねェ言葉を書き残したりするかねェ。ただでさえ読み書きが苦手だってのに。そんなことをするくらいなら、分かりやすく絵でも地図でも描いてるよい。字が苦手だってだけで、アイツは馬鹿じゃねェからな」
「となると地名か人名ってことですかね。うーん」
「“SIZE”の書き間違いってわけでもなさそうだしなァ」
「“SIZE”にしたって意味が分かりませんよ」
「だよなァ」
腕組みをする私の隣で、ルフィがくわえたストローの先をぴこぴこと上下させた。彼の前には、食べ終わった朝食の皿が山と積まれている。この青年が食材を食べ尽くしてしまったせいで、小さな食堂は昼前にも関わらず早々に店じまいをした。おかげで現在は私たち三人の貸し切り状態である。
「考えても分からねェなら仕方ねェよい。ノートの内容を解くにしろ、ノートを持っていた奴らを追うにしろ、今のままじゃ情報不足だ。変わったことがなかったか住民に聞いて回るぞ」
「あいよ」
「じゃあ、私は西の方から回りますね」
二人に続いてイスから立ち上がると、マリオは怪訝な視線を向けてきた。
「まさかとは思うが、ついて来る気か?」
「駄目ですか?」
聞き返すと、彼はひくりと眉を上げて、なんとも言えない顔をした。
彼は私の扱いをいまだ決めかねているようだった。なにせ昨日の今日である。お互いに自己紹介はしたものの、名前とこの島に来た経緯を軽く話しただけで、特別に親しくなったわけではないのだ。
追いかけっこの末、エネルギー切れで貧血を起こした私は、彼らの介抱を受けながら港で夜を過ごし、朝が来た時点で一緒にこの村に戻ってきた。ルイスハリスには集落がひとつしかないため、野宿が嫌なら他に選択肢はない。
村に戻ってきた後はそのまま食堂に入り、そこから先はさっきの通りである。
小さな食堂の中、私は天井に頭が届きそうな二人を見上げた。
「聞いて回るなら人手が多いに越したことはないですよね。若い女だと怪しまれにくいし」
「アンタが運悪く巻き込まれただけの一般人だってことはもう疑ってねェ。ろくに確認しねェで、追いかけ回したことについても悪かったと思ってる。だが、それとこれは別の話だ。俺たちは遊びでここに来たわけじゃねェ」
マリオは首を横に振り、拒絶の意を示した。
私も日本人の端くれ、一度断られたらそれ以上はなかなか押せない性分である。が、今回にかぎっては、彼らから絶対に離れるわけにはいかない切実な事情があった。それも二つ。
ひとつめはもちろん、海賊たちに持ち去られた『日誌』の件だ。
海賊たちがどこへ行ったのか、どうすれば追いかけられるのか、そういったことを考えるには、素人の私などよりも余程、現職船乗りの彼らの方が頼りになるだろう。用心棒をしているなら海賊との荒事にも慣れているだろうし、まさに渡りに船である。
私は『日誌』のため、彼らは仲間のため、動機は違えど“海賊を追う”という点で目的は一致している。膠着した現状を打開するためには、彼らと行動をともにするのが最善手だった。
逃してなるものかと私は必死になって食い下がった。
「あの海賊たちのことを知っているのは私だけです。きっと役に立つはず!」
「必要なことは、さっき全部聞いたよい。それとも他にまだ何か隠してるのか?」
どう答えてもこちらの不利に転ぶ返しをされ、自分の交渉下手を恨んだ。全部言ってしまわないで、取引の材料に使えば良かった。
「さっきも言いましたが、あの海賊船に大切なものを置いてきてしまったんです」
なくしたものが何なのか、彼らにはもちろん明かしていない。コーヴランの『日誌』です、だなんて言えるはずがない。
「代わりになるモンはねェのかい?」
「ありません」
かぶりを振って答えた。彼らを納得させるための理屈も話術も持ちあわせていない。ありのままを伝える他に方法はなかった。
「父親代わりの人からもらった、本当にすごく、大切で貴重なものなんです。諦めるなんてできません」
ダメだと言われたら、どうしたらいいんだろう。
手を握りしめた私を見下ろし、マリオはしばらく考えていた。
「父親ねェ」
そうつぶやいた後、彼は観念したようにため息をついた。
「そこまで言われちゃァ、捨てるモンも捨てられねェよい。邪魔しねェなら好きにしろ」
「本当ですか!?」
飛び上がりたくなるのを抑えて、平に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まァ、考えてみりゃ俺らにとっても悪くねェ話だからな。アンタの言った通り、女にしか得られない情報もある」
己の強面を気にするように、マリオは顎を撫でた。ここでようやく、隣でずっと聞いているだけだったルフィが口を挟んだ。
「そうと決まれば善は急げだ。早速行こうぜ」
「待て、その前にメシ代だ。食い逃げなんぞで海兵を呼ばれるのはごめんだよい」
メシ代。その言葉は、致命的な響きをもって私の耳に届いた。
そうだった。彼らに同行できるようになっただけでは、万々歳とは言えないのだ。
もうひとつ、大変切羽詰まった問題がある。つまり、アレである。アレだけは悪魔に魂を売ってでも確保しなければならない。さもないと売る魂すらなくなってしまう。
“二人から絶対に離れるわけにはいかない切実な事情”その二―― 先立つ物はなんとやら。
ここからが正念場だった。
「ここは俺が持つよい。昨日怖がらせちまった詫びも兼ねて」
「ひゃっほう。さっすがマリオ、太っ腹だぜ」
「テメエの分まで奢るとは言ってねェ」
「いやあ、やっぱり持つべきものは度量の広い兄貴分……ん? マリオ、今なんて?」
「食い過ぎだって言ってんだ。店の食料食い尽くしやがって。当分はこの島にいなきゃなんねェのに、グレンシールの時みてェに出禁になったらどうすんだ。反省も兼ねて自分で出せよい」
目立つ真似はやめろって言っただろうが、と馴染みの小言を唱えるマリオ。味方が欲しくなったらしいルフィは私の肩を抱き込んで、耳元でボソボソと囁いた。
「いいことを教えてやる。マリオは昔、ケチが行き過ぎたせいでな……」
「ほうほう」
「髪型がパイナップルになる呪いをかけられてだな……」
「なんと……!」
「全部聞こえてるよい」
睨まれたルフィは、こそこそ私の後ろに逃げ込んだ。想像するまでもないが、私の背中と彼の図体の組み合わせでは頭隠して尻隠さずである。
「頼む、マリオ!俺には金がない!」
決して胸を張れない台詞を、ルフィはあろうことか、どん、と効果音がつきそうな堂々とした態度で言い放った。が、即座に却下された。
「だめだ。テメエは甘やかすなとオヤジに言われてる」
「そこをなんとか!」
「だめだ」
「俺は文無しなんだ!」
「実は私も!」
「だから、テメエの分は出さねェって言って―― おい、今なんて言った?」
ルフィと言い合っていたマリオはぴたりと動きを止めた。
「おう、俺は文無しだぞ」
「誇らしげに言うな。テメエじゃなくてもう一人の方だ」
半目のまま見下ろしてくる彼に、私は頭を掻き掻き言った。
「実は海賊に全部盗られちゃって、今日の宿すら……」
顔色を伺いながら陳情していると、すかさずルフィが便乗してきた。
「実は全部メシ代に使っちまって、今日の飯すら……」
私と彼は肩を並べ、二人一緒にモジモジした。マリオが頬を引きつらせる。
「やめろい、俺にたかるな」
「お願いします、必ず返しますので」
「頼む……絶対返すから」
「マリオさん」
「マリオォ」
ゾンビのようにマリオに縋り付く。
二人の亡者に詰め寄られた彼は、深い深いため息とともに財布の紐に手を伸ばしたのであった。
知らない間に、ずいぶんと図々しい人間になってしまったらしい。
村人へと聞き込みを行うため、彼らと一旦別れた後、私は川沿いの土手をひとりで歩いていた。
とことん泣き落とした結果、衣食住のための金銭はひとまず融通してもらえることになった。もちろん“貸し”という形でだ。少々強引だった気もするが、昨日は散々な目に遭わされたことだし、今回はお互い様ということにしておこう。どちらにせよ、彼らに縋る以外にこの状況を打開する方法はなかったのだ。
「ま、返すし!意地でも返すし!」
無事に帰れた暁にはレッド・フォース号に置いてある残りのお金から、耳を揃えてお返しする予定である。なんなら利子をつけてもいい。
たかったわけではない、決して。ちょっと借りておくだけだ!
涙は女の武器というが、少なくとも私には似合わない。似合わなさすぎて寒気がする。
「生まれ変わっても私に不二子ちゃんは無理だな」
「エマ?」
「エマちゃんは小悪魔っていうよりウィンガーディアム・レビオーサって感じ―― 」
振り向いた先にいたのは、私と同年代の女性だった。
丈の長いチュニックワンピースの上にエプロンをかけ、白い頭巾で金髪を小奇麗にまとめ上げた、アンデルセン・ワールド全開の村娘である。
私の顔を見て目を見開いた彼女は、そばかすの頬に落胆の表情を浮かべた。
「ごめんなさい、旅人さんだったのね。後姿が似てたから友達かと思ったんだけど」
「そのエマさんという方、どうかされたんですか?」
「実はね―― 」
「アンジェリーナ!」
村娘が何かを言おうとした時、鋭い女の声が割って入った。村娘は打たれたように肩を揺らした。
家畜小屋の前に立っていたのは、母親と思しき女性だった。
「その人、旅人だろう。余所の者にその話はいけないよ」
「母さん、でも」
彼女の母親は、黙って首を横に振った。
「何があったかだけでも教えてもらえませんか?」
海賊たちの行方を追うために、情報は少しでも多い方がいい。普段と違う出来事の裏には、重要な手がかりが隠されている可能性がある。
しかし、母親はどこまでも頑なだった。
「今の話は忘れとくれ、旅人のお嬢さん。さあアンジェリーナ、仕事に戻るよ」
そう言って娘の背中を押して、家畜小屋の方へ歩いていく。途中ちらりと振り返った母親は、私がその場に留まっているのを見て足を止めた。
「あの子はね、連れて行かれちまったんだ」
彼女の声は、ひどく掠れていた。
「……何に?」
母親の青い目に、怯えの色が浮かんだ。瞳を伏せた彼女は、娘の手を強く握りしめた。
「“病の獣”に」