夜の森に入ってはいけない。
忌まわしき“病の獣”がお前の後ろをついてくる。
深く暗い森だった。
珍しく長引いてしまった仕事を終え、男は家路についていた。
木々の間から差し込む夕日は血と見紛うばかりに赤く不気味で、男の歩みは自然と早足になった。その背を追って、目玉の大きな鳥が鳴き声をあげる。嫌に尾を引く、気味の悪い声だった。
茂みの中を歩いていると、誰もいないはずの森の奥からぞっとする物音が聞こえてきた。ズルズルと何かが這いまわるような音。
恐ろしくなった男は、一刻も早く森を抜けようと走りだした。だが、音は消えるどころかますます近づいてくる。追いつかれると思った男は近くにあった岩の陰に隠れた。
そうしている間にも、物音は少しずつ迫ってくる。
いよいよ、すぐ側まで近づいてきた得体の知れない“何か”、怖気の走る声でこう呼ばわった。
―― おーい。
男は震える手でロザリオを握りしめ、ひたすら神に祈った。
主よ、我を守りたまえ。
―― おーい。
―― おーい。
―― おーい。
恐ろしい声はしばらく岩の前をうろついていたが、必死の祈りが通じたのか、しばらくしてゆっくりと遠ざかっていった。
ああ良かった、助かった。
男がそう思った瞬間、ガン、と何かが降ってきた。身体のすぐ横に突き立っていたのは、血のこびりついた大斧だった。
ゆっくりと頭上を見上げると、岩の上から“何か”が、真っ赤な目を見開き男を見下ろしていた。“何か”は男と目があった途端、つぶやいた。
ちがう。
「……おまえじゃないィィィィ!」
「ぎぃえあああ!やめてェェ!」
かっと白目を剥いて肩を揺すぶってきたルフィに、私は思わず絶叫した。
50 “病の獣”(Ⅱ)
「うるせェよい」
マリオがうんざりしたように眉を寄せた。
「そう思うなら止めてくださいよ!不可抗力です」
「なあなあ、どうだった?怖かった?怖かった?」
ルフィがにやけた顔を近づけてきたので、手のひらでムギュっとその頬を押しやった。
ほの暗いランプの灯りが、小部屋の中を照らしている。元は白かっただろう宿屋の古壁は、歳月を経て薄汚れ、シミだらけになっていた。
シミのひとつが、なんとなく人の顔のように見えてしまった私は、ぶんぶんと頭を振った。
「笑いごとじゃないです、ホント」
「『ぎぃえあああ!』って野獣みたいな声出してたもんな。これじゃ、どっちが化物か分からねェよ」
失礼極まりない言い草に憮然としていると、ルフィは「悪ィ悪ィ」と全く悪びれない様子で謝ってきた。
「ま、そんなに怖がるなって。少なくともこの島で起こったことじゃねェみたいだし。いくら化物でも海を渡るのは無理だろ」
「否定して欲しいのはそこじゃないんですけどね」
助けて求めてマリオを見たが、こちらもあっさりとスルーされてしまった。この男、面倒見はいいのだが、女だからと言って甘やかしてくれない。
ハーフパンツにシャツという、この世界でよく見る海人スタイルの二人は古い木イスに陣取っている。向かい合うようにしてベッドの縁に腰掛けていた私は、鳥肌の立った腕をこすり合わせた。
前触れもなく怖い話をするのはやめていただきたい、本当に。夜中ひとりでトイレに行けなくなったらどうしてくれるんだ。
ルフィのせいですっかり雰囲気が変わってしまったが、今実施しているのは、旅の慰みにひとつ怪談でも……というエンターテイメント目的の座談会ではなく、れっきとした成果報告会である。
今日は昨日決めた通り、マリオは港で船の痕跡探し、残り二人はそれぞれ別ルートで聴き込みを行った。
一日かけて情報収集に勤しんだ私たちは、夕方になってから宿に集まり、手に入れた情報を申し合わせていた。
私自身について言えば、アンジェリーナ母娘に出会った後にも幾人かの村人と話す機会があったが、「羊の初仔が生まれた」「秋麦の出来が悪い」といった良くある内容ばかりで、実になりそうな話は聞けずじまいだった。役に立つと宣言した手前、なかなか肩身の狭い結果である。
対して、「面白い話を聞いた」と言って帰ってきたのはルフィだった。話の内容は前述の通り。
貴重な情報とうそぶいて、怪談話で私を恐怖の淵に突き落とした彼は、気が済んだとばかりにぱちんと手を打った。
「以上、俺からの報告は終わり。二人とも何か質問は?」
「その男の人は結局どうなったんですか?」
「さァな。そこまでは知らねェ。怪物に食われて死んだんじゃねェのか」
「またまたァ」
窓の外には、とっぷりと夜の帳がおりている。民家の火はとうの昔に消え、あたりは海の底のように真っ暗だった。
日没後に吹きはじめた風が、建て付けの悪いガラス窓を痛々しく軋ませていた。ザワつく木々の音が耳に入り込んでくる前に、私は口を開いた。
「きっと何かと見間違えたんですよ。ほら、こういう場所って土着の伝承が多いですし」
田舎の夜は闇が深い。光の届かない世界には、人々の妄想が人ならざる形を取って闊歩する。
同意を求めてルフィの顔を見た。
「その怪物の正体、一体何だったんでしょうね」
「だから怪物だって言ってるだろ」
「そういう意味じゃなくってですね」
「陸の奴は“正体”ってのが好きだな」
ルフィは笑っていたが、その表情は決してふざけたものではなかった。意図が分からず、私は大した返事もできないまま黙りこんだ。
マリオが横から口を挟んだ。
「この近海の連中はほとんど生まれた島から出ねェから、噂を持ち込んだのは新聞屋か行商だろうな。信じるには足りねェが、与太話だと決めつけちまうのも早いよい。異変には必ず理由がある」
「“No steam without fire.”だな」
“fire”というところに何故か力を込めたルフィ。それを横目で見ながら、マリオは呆れたように言った。
「“steam”じゃなくて“smoke”だ。さて、今日はそろそろお開きにするよい。明日も引き続き情報を集めていくが、強引に聞き出そうとはするな。ここにはもう少し滞在しなきゃならねェんだからな。住民に怪しまれたら森の中で野宿するはめになるぞ」
森の中と聞いて、私はぶるりと震え上がった。さきほど耳にしたフレーズが蘇ってくる。
―― “夜の森に入ってはいけない”
一方、ルフィは平気な顔で答えた。
「野宿か。俺は全然いいけどな」
「そういう答えは期待してねェんだ。野生児は黙ってろい」
マリオは疲れた顔をして、今日何度目になるか分からないため息をついた。
情報収集二日目。
前日と同じく、マリオは港周辺の調査、残り二人は村人に聴き込み、という分担で情報収集にあたることになり、私たち三人はそれぞれ違う方向へ散った。
アンジェリーナという村娘を再訪し、今度こそ話を聞こうと決めていた私は、宿屋を出てすぐ、昨日彼女と出会った場所に向かった。
村の中を流れる小川を渡り、左右に羊の群れを見ながら坂道を登っていくと、じきに昨日の家畜小屋が見えてきた。
スムーズな調査のためにも、母親の方には会わずに済ませたい。彼女は余所者の私に内々のことを話すのを嫌がっていた。
正面ではなく、裏口から小屋の中をのぞきこんだ。家畜の体臭と干し草の匂いが混じり合ったあの独特の臭気が鼻腔に滑り込んでくる。
大して広くない小屋の内には、お乳の出そうな立派な牛が一、二、三頭。それだけである。獣の気配はあれども人の気配はない。
「まだ来てないのかな?」
しばらく待っても、アンジェリーナは現れなかった。小屋から一旦離れた私は、道の向こういた羊飼いの少年に声をかけた。
「人を探してるんだけどね。アンジェリーナさん、どこにいるか知ってる?」
暇そうに木の根元に座り込んでいた牧童は、くわえていた草笛をぺっと吐き出し、こちらに向き直った。
「おっかさんと一緒に山に行ってるよ」
「戻ってくるのは?」
「キノコ採りだから、帰ってくるのは夕方。あんた旅人だろ?アンジーの姉ちゃんに何の用?」
少年は怪訝そうに青い目を細めた。
「聞きそびれたことがあって。でも、また出直すよ。教えてくれてありがとうね。ああ、それと私がここに来てたこと、大人には内緒にしておいてくれると嬉しいな。お願いできる?」
私はポケットから飴玉を取り出し、彼の手に握らせた。今朝ルフィに分けてもらったものだ。少年は私の顔と飴玉を交互に見やり、うんと頷いた。
丘を下り、再び村の中に戻った私は、小橋のたもとで見知った相手と鉢合わせした。
ソーセージを齧りながら熱心に地図を見つめていたのはルフィだった。後ろから近づいて、その背中に声をかける。
「ルフィさん?」
「……ルフィ?」
黒髪の青年が勢い良く振り返る。だが彼は私の顔を見た途端、我に返ったようにぎくりとした。
「どうかしましたか?」
「あ、いや。ちょっとボーッとしててな。そうそう、ルフィだ。俺の名前はルフィ」
そばかすの頬を掻きながら、ルフィは自分に言い聞かせるように己の名を繰り返した。
「何か収穫はあったのか」
「いいえ、特には。ルフィさんの方は?」
「俺はこれからだ。まァ、手に入れたものと言えばコイツだけ」
言いながら、ルフィはソーセージの最後の一欠片を口に放り込んだ。すでに親指程度の長さになっていたそれは、ぼりぼりと咀嚼され、あっという間に飲み込まれてしまった。
「朝ごはん、さっき食べたばっかりなのに」
「マリオみてェなこと言うなって。足の悪いバアさんに手ェ貸してやったら、その礼にくれたんだよ。他人の好意は素直に受け取らねェとな」
ルフィは満足そうに油まみれの指を舐めた。
「あんた、今日はこれからどうすんだ?」
「話を聞きたい相手がいたんですけど、夕方まで外出しているらしくて。どうしようか考えていたところです」
「それなら一緒に周らねェか?」
意外な申し出に驚き、その顔を見上げた。黒い瞳に何ら他意は浮かんでいなかったが、何を考えているかもまた、良く分からなかった。
マリオ抜きで二人きりになれるなら、こちらとしては願ったり叶ったりである。普段の様子を見るかぎり、マリオは確かに私を警戒していない。が、信用してくれているかと言うと、おそらくそうではない。
事あるごとに感じるあの探るような視線に、いまだ手の内をさらす勇気がない。迂闊に口を開けば最後、何もかも見透かされてしまう気がする。
マリオがいないうちに、何らかの情報を―― あわよくばレッド・フォース号やシャンクスについての情報を―― 手に入れる。
頷いて同意を示すと、彼は地図をたたみ、村の中を指差した。
「行き先は決めてある。アンタの役目もな」
しばらく村の中を歩いた後、ルフィが立ち止まったのはとある古家の前だった。
「ここだ。っと、その前に」
半開きになっていたシャツの前を合わせ、丁寧にボタンを止めていく。派手な帽子も背中側に落としてしまう。ボサボサの髪を整えようと思ったのか、腕を真上に伸ばした時、袖に隠れていた肩口のタトゥーが一瞬だけ見えた。
A、S、C、E―― いや、Sにはバッテンが入っているから、A、C、E――
「どうした? 俺の格好、どこか変か?」
身支度を終えたルフィが不思議そうに見下ろしてくる。
「いえ、そういうわけじゃ」
「やっぱりサングラスもかけた方がいいか」
「大丈夫です!いや、むしろ今のままで!」
バッグを漁ろうとするのを、必死で押し留めた。せっかくいい感じなのに、サングラスなんてかけたらあっという間に不審人物だ。
服をきちんと着て、帽子を取っただけだったが、風貌は一変していた。荒っぽい印象は消え去って、なかなかの好青年ぶりである。後は、目つきさえ良ければ、というところ。
「ちょっと確認してくれよ。特に背中。めくれ上がったりしてねェか?」
言うやいなや後ろを向いて見せたため、私は慌ててシャツの隅々に目を走らせた。
「大丈夫ですよ。でも、どうしてこんなことを?」
「念には念を、ってやつだ。俺には、熱烈なファンが多くてな」
良く分からないことを言いつつ、ルフィは雑貨屋の木ドアに視線をやった。ドアに掲げられた看板には“アーサーの古道具屋”との文字がある。そう、雑貨屋は雑貨屋でも、数日前私が地図をもらった店とは別の店なのだ。
彼は脱いだ帽子を背中から外し、私の頭に被せた。
「こういう店には意外と面白れェモンが置いてあったりするんだ。俺は店主から話を聞き出す。その間にあんたは店の中を見てまわれ。いいな?」
ろくに返事もしないうちに、ルフィはドアを開け、店の中へ踏み込んだ。
アーサーというらしい古道具屋の店主は、奥の部屋からネズミのように飛び出してきたかと思うと、興奮もあらわに客を出迎えた。
「い、いらっしゃい! 旅人さんかね!」
「ああ。良い店があるってんで、ちょいと覗いてみることにしたのさ」
商品やら箱やらが所狭しと置かれた店内、ルフィは窮屈そうに肩を狭めていた。
「せ、狭いところだが、ゆっくりして行っておくれよ。おや、お客さん、ア、アンタどこかで見たような」
薄暗いカウンターから身を乗り出し、顔を覗き込んでこようとした小柄な店主を、ルフィは慌てて押し戻した。
「あー、気のせいだ、気のせい。そうだな、あの商品はなんだ?」
「さ、さすが外海のお方、お、お目が高い!これはかのネフェルタリに連なる貴族の家系図でして、賊に奪われてから何十年も海を彷徨ってきたいわくつきの……」
それまでの話はもちろん、私の存在すら忘れて、店主はお宝自慢に熱中し始めた。
“外海かぶれのアーサー”―― そういえば、前に行った雑貨屋の女店主がそんなことを言っていた気がする。
「ほうほう」と控えめな相槌を打ちながら、ルフィが横目で合図をしてきたので、私は静かにその場を抜け、陳列棚の前へ移動した。
奇妙な造形のアクセサリー、魚のような蛇のような生き物のホルマリン漬け、埃の被ったコンパスなど、良くわからないもの(以前行った雑貨屋の女店主曰く“ガラクタ”)が雑多に詰め込まれた棚はろくに掃除されておらず、商品を手に取るどころか触れることさえ躊躇われる。
おそらくはいわく付きであろう、赤黒いシミのついた木彫の人形から目をそらした時、ふと空っぽだと思っていた最上段に何かが置かれているのに気づいた。近くにあった脚立に足をかけ、手を伸ばしてみる。
ギリギリの姿勢で掴み取ったものは薄汚れたタペストリーだった。
何の気なしに表返した私だったが、描かれていた内容を見ていくうち、それを手に取ってしまったことを大変後悔することになった。