夜風に怯える一晩を過ごし、翌日私はマリオと一緒に港へ向かった。
私を攫ってきた、例の海賊船の痕跡探しをするためである。
港の周辺はすでに彼が二日かけて調査済みだったが、今日こそは自分の目で確認したい、と無理を言って連れて行ってもらうことにしたのだ。なにせ三人のうちで実際に船を目にしたのは私だけ。改めて赴くことで、新たなヒントを掴めるかもしれない。
そういうわけで現在、村での聞き込みはルフィに任せて、私たちは黙々と獣道を辿っている。
52 翼の還る場所
「マリオさん、毎日この道を往復されてたんですか」
「まあな」
細い林道は足元が悪く、アップダウンも激しい。もう一時間近く歩いているが、まだまだ先は長そうである。
「それにしても徒歩で片道二時間って、なかなか」
「そんなにかからねェよい。俺一人だったらな」
俺一人、を強調しつつ彼は空の高いところに視線をやった。
「最近の若ェ奴らはすぐに音を上げやがる。志願したんだから、四の五の言わずにキリキリ歩け。だいたい船から逃げた時、自分だってここを通ったんじゃねェのかい」
「あの時は、死に物狂い、だったので」
ゼイゼイと荒い息を挟みつつ、なんとか言葉を返す。
村まで一本道だったとはいえ、よく無事にたどり着いたものだ。夜だったり天気が悪かったりと、あと少しでも条件が悪ければ行き倒れていてもおかしくなかった。
「悪運の強い女だよい。海賊船から無傷でトンズラこくたァ」
「持って生まれた幸運に感謝、です」
いつか言われた言葉を思い出した。眉間に深く皺を刻み、無謀な私をたしなめたシャンクス。あの時、彼はひどく怒っていた。当然だ、砲撃戦の最中に飛び出していったのだから。私は彼にどれくらい心配をかけたのだろう。
戻ったら叱られるんだろうなあ。
気付けば、そんなことを考えていた。遠ざけていた寂しさが、ふっと胸の奥を吹き抜けた。
「ルフィから聞いたが、そういやアンタ“東の海”出身なんだってな」
会話の空隙をわずかながらも気にかけたのか、マリオが話題を変えた。
「そうなんですよ。お国は全然違うんですけど」
「えらく平和な場所らしいじゃねェか。読み書きその他、教育も充実してるってな。まァ、言動みてりゃ一目瞭然だが」
「そんな奴がなんで“偉大なる航路”にいるんだ、って思います?」
ちょっと笑って、隣を見上げた。仏頂面のまぶたは意外そうに見開かれていた。彼は一呼吸の後、静かに返してきた。
「言いたくねェなら、訊く気はねェよい」
「ありがとうございます。でもちっとも不幸な話なんかじゃないんですよ。ぜんぶ、好奇心だけで後先考えずに行動してしまった私の責任」
「今ここにいるのは自分の選んだ結果、ってわけかい。小生意気な口利くじゃねェか」
マリオは感心したような声で言った。褒められたのかと思ったのも束の間、次の瞬間にじろりと見下された。
「じゃあ、あの時『赤髪がいる』って叫んだのも、その後先考えない行動の一環か?」
「え、いや、あれは咄嗟に」
「咄嗟ねェ」
探るような視線に晒されて、つむじのあたりがチリチリした。鉛塊のごときプレッシャーが私の頭を上から押さえつけてくる。
さすがにアレはまずかったか。何と答えようかと口をパクパクさせていると、ため息をつかれた。
「アレには肝が冷えたよい。ここじゃ、奴の名前を口にするのはご法度だ。辺境とはいえカイドウの縄張りだからな」
「つかぬことを伺いますが、もしかしてそのカイドウ、さんと、シャンクスはあまり仲がよろしくないので……?」
なんとなく呼び捨てにするのは躊躇われて、迷った挙句、敬称には「さん」を採用した。これなら、万が一カイドウのシンパがどこかで聞き耳を立てていたとしても安心だ。
ところが、こちらを振り返ったマリオは、まるっきり気狂いを見る目をしていた。
「“もしかして”?世間知らずなんて生易しいモンじゃねェな。予想以上に重篤、いや、すでに手遅れかもしれねェ」
マリオは半眼のまま、呆れたように言った。
重篤。手遅れ。投げつけられる手厳しいワードに、モソモソと抵抗した。
「そこまで言わなくても」
「いんや、重傷だ。だいたい“シャンクス”ってどんだけ親しみ込めた呼び方してんだよい。赤髪はオメエの友達か何かか、エエ?」
「はい、実はそうなんです。って、そんなことあるわけないじゃないですか!やだなあもう」
本当のことを答えるわけにもいかず、私は頭をかきながら適当な答えを返した。
「聞くところによると気さくで寛容な人らしいですから。私ごときが何を言おうが気にも留めないですよ、きっと」
「赤髪が寛容ねェ」
マリオは何か言いたげに眉を寄せた。
「まァ、そんなことはどうでもいい。いいか、良く聞けよい。カイドウと赤髪は随分前から敵対関係にある。といっても、四皇の同盟なんざ元々ありえねェけどな」
「敵対ですか。でもそれほど不仲な話は聞かなかったような」
フライが口にするまで、カイドウという名前自体聞いたことがなかったし、『腐れカイドウ、いつかシメてやるぜ』とやる気満々のシャンクスも想像できない。シャンクスという男は、ライバルにマメに喧嘩を売りに行けるような真面目な人間ではないと思う。
「そこらのチンピラみてェに、気軽に切った張ったできる立場じゃねェからな、どっちも。万が一にも四皇同士が殺り合うなんてことになりゃァ、大将元帥クラスが動く。大戦争だよい」
大将という言葉に、一人の男の顔が浮かんだ。青キジ。彼とは軍艦で話をしてそれっきりだ。見逃してもらった立場でこんなことを言うのもなんだが、できれば二度と会いたくない。
捕まった時の緊張感と絶望感が蘇り、古傷がキリキリと痛んだ。
「うへェ。お腹が痛くなってきました」
「心配すんな。便所は五キロ先だよい」
私の呻きなど意に介さず、マリオは淡々とトイレの場所だけを教えてくれた。優しさを安売りしない男、マリオ。ここまで来るといっそ懐きたくなってくる。
眉間に皺を寄せながら、脳内で情報を整理した。
シャンクスとカイドウは対立している。そしてここはカイドウの縄張りである。となると、“レッド・フォース号が通りかかるかもしれない”という希望的観測は完全に潰えたことになる。というより、はじめから存在しなかった。
お腹だけではなく、頭も痛くなってきた。
脇腹の傷跡を押さえつつ、私はダラダラと坂道を登った。
「名前を言うのもダメだなんて。敵対するって大変なんですね。ここの人たち、皆穏やかそうなのに」
「住民が敵になって襲ってくるとか、密告されるとか、そういう意味で言ったんじゃねェ。事が起こった時、むしろあいつらは一番の被害者になる」
言っている意味が分からず、マリオの顔を見た。
彼は足を止め、私の目を見た。
「知らねェようだから、ひとつ助言しておく―― 力ある名は、争いを引き寄せる。たった一度口にしただけでも場の匂いを否応なく変えちまうんだ。血腥さに惹かれて集まってくる連中は、戦いの愉しみのためなら己の命すら遊び捨てる化物ばかりだよい」
厳しい口調で言った後、彼は言い含めるように付け加えた。
「自分がどこにいるべきなのか……どこに帰っていくべきなのか、決して間違えちゃならねェ」
五日ぶりにやってきた港は、思っていた以上に小さく、寂れた場所だった。
港当番の村人が使うという小屋は、三ヶ月に一度の業務を終え、廃墟のように静まり返っていた。あちらこちらに散らばるロープの切れ端。板切れ。桟橋の足に当たる古びたボートの縁が、コトン、コトン、と意固地に時を刻んでいる。
「何か思い出したことは?」
「まだ、何も。もう少し見て回ってもいいですか」
「ああ。俺の方ももう一度上から見てみるよい。何かあれば呼べ」
付近に高台などないのに、彼はそのようなことを言って、岩場の向こうへ歩いて行った。ここからは見えないだけで、どこかに港全体を見渡せるような場所があるのかもしれない。
後ろ姿を見送った後、私は桟橋の方へ身体を向けた。
『日誌』を取り返すために、海賊たちを行方を知る必要がある。だが鍵となるはずのオルランドのノートからは何の手がかりも得られていなかった。
助けを求めるメッセージ。“SIZZ”という単語。
それなら別の方面から、と村の中で情報を集めてみたものの、結局謎が増えただけだった。行方不明の女性エマ。いるはずのない五人目の旅人。“病の獣”と“新月の子”。
繋がりはいまだ見えてこない。
「そういえば」
ポケットに手を突っ込むと、思っていた通りの物が指先に触れた。引っ張り出したのは、グレンシールの街で拾ったあのハンカチである。
青いハンカチは奇跡的に、誘拐・監禁・脱走の三拍子を経てなお、汚れず綺麗な状態を保っていた。
“From Elena To Raymond”
「探してるだろうな、レイモンドさん」
愛を囁く金の刺繍を眺めて、少し申し訳ない気持ちになった。私のミスというわけではないし、むしろ私が一番の被害者なのだが、返してあげられなかったことには変わりがない。
桟橋の先端に腰掛け、海と向き合った。
空は青く、海も青い。
港に来たのはもちろん手がかり探しのためだ。しかし、こうして海を目の前にする行為そのものが、私にとって必要な内容だった。生まれてから二十数年、波の音を聞かずに過ごした期間は瞬きの間ほど。
思っている以上にこたえるものなのだ。
大切な何かを見失う、というのは。
目を瞑り、海の音に耳を傾けた。ざあ、ざざあ。
まぶたの裏側に恋しい景色が浮かんでくる。心休まる安寧の地―― この世界に来て以来、私を励まし続けてきた故郷の町並みは、おかしなことに今、別の光景に取って代わられていた。
夕日の垂れ落ちる甲板。磨かれた木板がつややかに空の色を受け止めている。その中にあってなお灼けつくような赤色が、目に焼き付いて離れなかった。
会いたいな。
心細い声は波の音が飲み込んでくれたおかげで、その場には残らなかった。私はなんとはなしに上を見た。
大きな鳥が一羽、空の一番高いところを飛んでいる。キラキラ光る長い尾羽がちょうど優雅に翻ったところだった。
「綺麗だなあ」
地上からはるかに隔たったところにいながら、その羽色は私の目にも鮮やかだった。炎のように揺らめく神秘的な青。感動ついでに両手を合わせ、幸せの青い鳥を拝んだ。
「帰れますように、帰れますように、帰れますように」
チルチルミチルも顔負けの真剣さで、願い事をブツブツとつぶやいた。シャンクスがいたら「流れ星じゃねェんだから」と大口を開けて笑ってくれるのに。
しばらくして、鳥はふっと雲間に消えた。
船の痕跡を探して港を歩きまわっていると、マリオが戻ってきた。
「どうでしたか、マリオさん」
「昨日と一緒だよい。そっちは?」
「今のところは何も」
私は首を横に振った。特に落胆した様子もなく、彼は「ふむ」と顎を触った。
「船が錨を下ろしていたのはこの辺か?」
「ええ。海賊たちは正面から上陸して、そのまま補給に向かったみたいです」
「大きさは?」
「上甲板と最下甲板を含めて三枚甲板の船でしたが、縦の長さはそんなになくて、桟橋の横にきっちり収まっていました」
質問に答えるうち、忘れていた船の全容が少しずつ蘇ってきた。降り際にちらりと見ただけだったのに、意外と覚えているものだ。
脱走時の記憶に、レッド・フォース号で教えてもらった知識を重ねあわせ、意味のある情報に整形していく。
「他に特徴は?」
「ジョリー・ロジャーが下ろされていて見えなかったのは、確かこの前お話しましたよね。その他の特徴と言えば……あ!そうそう、三本マストがすべて三角帆でした」
言いながら、私は違和感を抑えきれずにいた。あの海賊船、よく考えれば何かが変だった。なんだろう。
「三本マストの三角帆と言やァ、小型のカラベルか?最近はめっきり見なくなった船だよい。小勢なら使わなくもないが」
「海賊船、海賊船。何か忘れてるような」
船のイメージを思い浮かべながら散々頭を捻ったが、結局思い出せなかった。
「比較的珍しい船だが、それだけじゃ特定はできねェな。ここがウチの庭だったらどうにでもなるんだが」
「すみません……」
「アンタに謝られる義理はねェよい。海で何かを探すことがどれだけ大変か、船乗りなら皆知ってる」
返す言葉もない。『悪くないのに謝るな』だ。
私は小屋の前のベンチに腰掛けた。マリオは座らず、近くの柱に背をもたせかけていた。几帳面にボタンを留められたシャツの下、筋肉質の胸元は相変わらず窮屈そうだった。謎解きに疲れた脳が、勝手な思考を走らせはじめる。
これくらい良い身体をしているなら少々肌蹴ていても見苦しくないのに。むしろ一部のマニアたちには垂涎モノじゃないのか。
そういえば、と今は遠い人のことを考えた。彼は逆に、シャツの前をきっちり留めるということを知らない。ふとした瞬間、腹筋や胸板が無造作にお目見えする。「ほーら、触っていいぞ」と上質な筋肉を大盤振る舞いされた結果、元々マニアやフェチの気がなかった私も、今やすっかり目が肥えて、良い筋肉を見るとペチペチしたい衝動に駆られるようになってしまった。何につけ、環境に恵まれすぎるのは良くない。
そこまで考えて、頭を振った。
―― またシャンクスのこと考えてる。
筋肉から想起するホームシックなんて恥ずかしすぎるぞ、といつもの私が茶化そうとした。名状しがたい衝動がせり上がってきて、「あー、もう!」と声を上げた。
「鳥になりたい!です!」
立ち上がって、両手をいっぱいに広げる。見上げた空は海色に透き通っていて、どこまでも遠くへ遠くへ泳いでいけそうだった。向かいにいたマリオが眉を顰めた。
「何を言い出すかと思えば。急にどうしたよい」
「マリオさんも思ったことありません?鳥になりたいって」
そう言うと、彼は珍しく困ったような顔になった。
「何でこんな話になったかというと、さっきね、ものすごく綺麗な鳥がいたんですよ。あんな鳥、今まで見たことなかったから感動しちゃって。青く燃えてるみたいな、不思議な色だったんです!もしかしてマリオさんも見てました?」
「……いんや」
「そっかあ。もったいない」
私は天を指差した。
「ちょうどあのへん。空の一番高いところを、とっても気持ち良さそうに飛んでたんです。あー、うらやましー!」
翼に見立てた両手をパタパタと振り回す。そんな私とは反対に、マリオは相変わらず冷めた顔をしていた。
「鳥になってどうすんだよい」
「そんなの決まってるじゃないですか!行きたいところへひとっ飛びですよ!」
『この大空に、翼をひろげ』と有名な歌詞を持ちだしてみたが、マリオは「へェ」と答えただけだった。
「マリオさんってば、超クール。もっと共感してくださいよ」
「んなこと言われたってなァ。アンタが思ってるより、良いことばかりじゃねェよい。きっと」
返ってきたのは存外真面目な返答だった。答えの続きが気になって、耳を傾けた。
「確かに空は綺麗だよい。けどな、あそこには何にもねェ」
「水とか食べ物とか?」
さっき私が指したところを見上げ、彼は目を眇めた。
「水、食い物、一夜の寝床。身体を生かすための物はまァ、どうとでもなる。問題はもうひとつの方でよ。世界から浮き上がって、身の周りのモン振り払って、獣一匹どこまでも飛んで行った先で、果たして手に入れられるかねェ。たった一人きり、始まりも終わりもない海を見下ろして……そんな時の気持ちなんざ考えたくもねェよい」
マリオの視線ははるか遠くの海に向けられていた。
「帰る場所があればこそ。俺はそう思う」
帰るところがあればこそ。
彼の言葉は、私の心の深いところにゆっくりと沈んでいった。
往く道も帰る道も知らず、進みつづける。
それを自由と呼べるかどうか。