今よりもずっとずっと昔、まだ海のすべてが自由だった頃、とある島に豊かに栄えた一族がいました。

 情け深く、また神から多くの知恵を授けられた彼らは、領主として多くの島々を従え、そのすべてにかぎりない富と幸福をもたらしました。

 年中花が咲き乱れ、美しい音楽が流れるその国には悲しみも苦しみも飢えも争いもありませんでした。人々はそこを海上の楽園と呼び、 この上なく平和に幸せに暮らしていました。

 しかし夢のような時代はそう長くは続きませんでした。

 栄華を極めた領主の一族は次第に傲慢になり、己の欲望を満たすことばかり考えるようになったのです。神は忘れ去られ、彼らの治める海には暴虐が満ちました。

 領主の一族はかつて神から多くの知恵を授かりましたが、それと同時にひとつの戒めも受けていました。しかし特別に傲慢で、特別に欲深な、とある時代の当主がとうとうそれを破ってしまったのです。

 怒った神は当主の男の元に預言者を遣わして言いました。

「お前の子と、お前に従う者の子は、新月の夜に生まれる時、かならず呪いを受けるだろう」

 しばらくして当主の妻が身ごもりました。十月を経て、新月の夜に生まれた赤子は予言の通りに呪われた姿をしていました。

 恐ろしさのあまり正気を失った妻とは反対に、もはや神を恐れもせぬ当主は、高い塔にのぼり、赤子を掴んで海へと投げ落としました。

 海に沈んだ赤子は、海の底で醜い化物へと姿を変えました。目がつぶれ、肌がただれ、もはや人とは呼べぬ姿になった赤子はすべてを恨み、毎夜父を呼ばわるようになったのです。

 おおい。おおい。

 最初は気丈だった当主も、尽きぬ呪いの声に憔悴し、とうとう遠く離れた別の島に移り住んでしまいました。

 またその頃には彼に従う人々もすっかりどこかへ逃げていってしまっていて、かつて楽園と呼ばれた国の姿はもうどこにもありませんでした。

 島に残された化物は喪った目や肌を求めては海に彷徨い出るようになりました。

 いつしか“病の獣ナックラヴィー”と呼ばれるようになったその化物は、今でも新月の夜になると人を攫っていくそうです。


(とある島に伝わるお伽話)




chapter6 FEAR IS LIKE FIRE

53 The Merchant of NALVA(Ⅰ)



 マリオと港へ出かけた日から数日が経ったが、有力な手がかりは依然として得られていなかった。
 森に出掛けてみたり、残されたメッセージとにらめっこしてみたり、思いつくかぎりのことは試してみた。しかし海賊たちの行方は、また『日誌』とオルランドの行方は一向にわからない。

 信頼の現れか、オルランドの安否についてはさほど危機感を持っていなかった二人も、次第に焦れてきているようだった。ルフィは口数が減り、難しい顔をしていることが増えたし、マリオの方は宿を空けている時間がひどく長くなった。日の出とともに宿を出て、日暮れとともに戻ってくる。どこに何を調べに行っているのかは教えてくれない。

 日没を見る度、焦燥感と徒労感がいや増した。『見つけられなかった』では済まないのだ。私も彼らも。

 疲れ果てて宿に戻り、明日こそはと藁にも縋る気持ちでベッドに入る。
 手がかりなんてないのかもしれない。『日誌』はもうこの広大な海のどこかに紛れてしまっていて、二度とこの手には戻ってこないのかもしれない。夜になると、深い谷底を覗くような、救いようのない思いが胸のうちに渦巻いた。

 状況に変化が訪れたのは、調査をはじめて五日目の夕方だった。

「入れ」

 と言われ部屋に入ると、すでに二人とも揃っていた。テーブルの前に座ったマリオは相変わらず疲れた顔をしている。腕組みをし、壁際に背をもたせかけたルフィは深い思案に沈んでいるような、難しい表情だった。
 すすめられるままマリオの向かいに腰掛けた私は、空気の異質さにひっかかりを覚えながらも、おずおずと切り出した。

「御用って何ですか」
「手がかり、とうとう探りあてたよい」
「本当ですか!?」

 身を乗り出した拍子にテーブルが揺れる。ルフィが咎めるような視線を向けてきたので、私はいまだしつこくグラついている水差しを慌てて手で押さえた。

「隣の酒場に潜り込んだもんでな、思ったより骨だった」

 さすがに疲れているのか、マリオは枯穂色の髪を撫で付けて、ごちるように言った。すると今まで黙りこくっていたルフィが顔を上げた。

「おい、それは聞いてねェぞ」
「言ってねェからな」
「隣まで行ったのか? 何も問題は――
縄張りシマの中じゃ辺境もいいところだ。ここに比べりゃ人は随分と多かったが」

 隣?ここ?この島に酒場なんてあっただろうか。
 内輪話をつづける二人を前に、ひとり首を捻った。

 近頃の彼らは私の前でもプライベートな話を隠そうとしない。二人が何を話していようが知らぬ存ぜぬに徹してきた結果だろうか、それとも単に『世間知らずに聞かれたところで……』というアレだろうか。
 まあ実際聞いたところでわからないんだけれど、といつも通りぽかんとした顔で二人の話が終わるのを待つ。

「偵察は十八番だよい。万が一にも、オヤジに迷惑はかけねェ」
「アンタがそこまで言うなら」

 ルフィが再び黙り込んだタイミングを見計らって、私は口を開いた。

「えっと、それで探りあてた話というのは?」

 もう一度グラスの水を呷った後、マリオは私の顔を見た。

「前に女が一人行方不明になってるって言ったな」
「ええ。アンジェリーナさんの友達の、エマさんという方です」
「そいつだけじゃなかった。ここ数ヶ月、この近海の島々では住人が相次いで姿をくらましている」
「相次いで?」

 単なる家出と片付けることさえできた小さな異変が、ここに来て事件の臭いを放ち始めた。エマの失踪についてのアンジェリーナの懸念は、全くの的外れではなかったのだ。

「でも、そんなに人がいなくなっているのに、どうして大きな噂になってないんでしょう」
「どうやら島ぐるみで口を閉ざしているみてェだ。どこの島でもな。聞き出すのに苦労した」
「口を閉ざす?どういった理由で?」
「さァな。嫁入り前の若い女が家出したっていうんじゃ聞こえが悪い、とでも思ってるんじゃねェのか。エマって女もそんな風に言われてたんだろ」

 言いながらも、彼自身も納得がいっていないような言い方だった。

「ふうむ。じゃあ、失踪した住人たちの共通点は?」
「“呪われた子”」

 短く鋭く返ってきた答えに、びくりとした。

「それだけしか聞き出せなかった。どいつもこいつも怯えちまってな。誰かに口止めされてるって風じゃねェ。利害や理屈とは違う、もっと……」

 言葉を選び損ねたのか、彼は言いかけた何かを言い終えなかった。室内に沈黙が満ちる。ルフィは依然として黙り込んだままだ。彼は何か別のことを考えているように見えた。

 しばらくして、「そういえば」とマリオが口を開いた。

「もうひとつ、話がある」
「もうひとつ?」
「ルフィが前に言ってた“与太話”の続きだ」
「まさか」

 今までの空気を掻き消すように、彼はにやりと意地悪そうな目をした。

「そのまさかだよい。“病の獣ナックラヴィー”とその起源について」

◇◇◇

 読み上げた紙切れから目を離し、私はぶるりと背を震わせた。
 マリオがどこからか書き留めてきたというその昔話は、子供向けのおとぎ話と呼ぶには、あまりにも不気味で後味の悪いものだった。

「『今も彷徨っている』、ですか」
「この話を聞いて、考えていることが一つある」

 マリオは至って真面目な表情だった。

「俺たちは、この“病の獣ナックラヴィー”の島とやらに行かなきゃならねェ」
「ほうほう、“病の獣ナックラヴィー”の島に。島に!?」
「ああ」

 驚愕の声も気にせず、マリオは一定のトーンで話しつづけた。

「この話と、オルランドの失踪との直接的な関係はわからねェ。だが、何らかの手がかりになっていることは間違いねェよい」
「それは、勘、ですか」

 彼ら二人が知的な判断に長じながらも、決して勘や直感を軽んじない人間であることを、私はすでに知っている。だが今ばかりは、そんな曖昧な理屈では到底納得できそうになかった。
 彼の目を見つめて、返事を待った。

「それもある。だが今回はそれ以上にアンタが――

 マリオが答えかけた時、ドンドン、と扉を叩く音がした。薄っぺらいドアの向こうから覇気のない声がする。宿の店主だ。詰まっていた部屋の空気が、ばらばらに解けて広がってしまうのを感じた。

「お客さん方、昼食が冷めちまいますよ。早く降りてきてくだせえ」

 後片付けが遅くなるからできれば早く食べに来てほしい、という小言を言外に含ませて、宿の主はギシギシと階段を下っていった。
 足音が遠ざかるのを聞き届けて、マリオは手早く話をまとめた。

「とにかくそういうわけだ。火のないところにゃ煙は立たねェ」
「でも与太話だって言ってたじゃないですか。その島が実在するかどうかさえ怪しいのに」
「だからこそ、調べる価値があると思わねェか。分かりきった島ばかりを探してきて、結局見つからなかったんだ」
「その島の場所はわかってるんですか?」
「いいや」

 彼は事も無げにそう言った。ということは、探しながら進む、ということだろうか。なんと無謀な。普通の人が怖気づいてしまうようなことも、彼らにとっては何らの問題ではないらしい。私は心の中でため息をついた。

 私の周りの人は皆、勇気に恵まれすぎている。シャンクスにしろ、この二人にしろ。

「わかりました。じゃあ、次の定期便が来るまでは、“病の獣ナックラヴィー”の島の場所について聴き込みですね。どれくらいの情報が集まるかはわかりませんが、まずはもう一度アンジェリーナさんに聞いてみることにします」

 あの雑貨屋の女店主も何か知っているかもしれない。アーサーの古道具屋にも顔を出さないと。明日の朝からの予定をあれやこれやと考えはじめた時だった。
 マリオが歯切れの悪い様子で切り出した。

「ここを発つのは、明日だ」
「明日!?」

 『急すぎる』―― 『島の場所もわからないのに』『定期便を待たずにどうやって』―― 思わず口から飛び出しそうになった言葉を、なんとか一旦飲み込んだ。

 『日誌』の行方を追うには、オルランドの行方を追わなければならない。というのは二つの理由による。
 まずひとつめは、『日誌』が入れ替わったのは他ならぬオルランドのノートである、ということ。
 そして、より致命的なふたつめは―― そうやって「オルランドを探す」という二人の目的に乗らないかぎり、私はまるで無力であるという、厳然たる現実だ。

 二人の行くところに、ただ身を任せてついていくほかないのだ。あれやこれやと口を出してどうなる。

「わかりました。じゃあ、すぐに用意します」
「その必要はねェよい」

 マリオがかたい口調で言った。彼が人の言葉を遮ることはとても珍しいことで、私は思わず顔を上げた。

「マリオさん?」

 喉の奥にぴりぴりと嫌な感じがせり上がってきた。これが、いわゆる“勘”なのだろうか。

「連れて行くつもりはない。アンタとはここで別れる」

 イスを引いた拍子に、ガタン、とテーブルが揺れた。グラスが倒れて、ゆっくりとテーブルの上を転がっていったが、その行方など少しも気にならなかった。

 今まで壁の一部であるかのように押し黙っていたルフィが、片目だけ開けてこちらを見てきた。救いを求めて見返しても、応えはない。
 彼は“病の獣ナックラヴィー”の島に行くということにも、明日出発するということにも―― 私を置いていくということにも、何らの感情を伴わせてはいないようだった。

 妙な感じがしていた理由はこれだったのか、と意識の隅っこで考えた。ドクドク打つ心臓に比べれば、脳はまだ冷えている。
 いつのまにか乾いていた口の中を、無理やり湿らせるようにして、私は唾を飲み込んだ。

「理由を教えてください」

 気丈なのは字面ばかりだった。漏れた声は悲鳴じみて、か細い。強がりたかった私の喉は、すでにきゅうきゅうと締まっていて、少しも思い通りにならなかった。

「この島が誰のものかは知っているな」
「……カイドウ」
「そうだ。そして、その奴の縄張りシマの中でも最も辺境に近い場所と言える」
「だったら――
「だからこそ、今後はカイドウの縄張りの中へどんどん踏み込んでいく形になる。間違いなくここよりも危険な場所ばかりだ。考えたくはないが、カイドウの配下と鉢合わせする可能性すら。ここは無人島じゃねェ。食い物も寝る場所もある。危険な獣もいない」

 食べる物も寝る場所もある。危険な獣もいない。だから?
 私は食い下がった。

「で、でも、どうやって出ていくつもりですか!? 次の定期便が来るまで、あと二ヶ月近くあるんですよ」
「この島には必要があったから留まっていただけだ。その気になれば船なんざなくともいつだって出ていける。俺とルフィの二人だけならな」
「じゃあ、お金!借りたお金をまだ返せてません。せめてそれを返すまで――
「あんなものはした金だよい。返せというつもりは元からねェ」

 それに留まらず、マリオはどさりとテーブルの上に袋を置いた。中身は訊くまでもなかった。

「足りねェってんなら、これもくれてやる」

 手切れ金と言わんばかりのそれを前にして、私は為す術なく呆けた。
 どうやって引き留めればいい。どう言えばいい。どうすればいい。彼らがいなければ、『日誌』を追えない。シャンクスを追えない。

 ―― 私はこれからどうすれば。

「アンタは本当に臆病だな」

 沈黙を保っていたルフィが、ひやりと言い放った。雷に打たれたように、心音が乱れた。呼吸が浅くなる。

「そんなに怖いなら引っ込んどいた方がいいぜ。なにせアンタの嫌いな“病の獣ナックラヴィー”に会いに行くんだ」

 彼は薄く笑っていた。わずかに上がった口角が皮肉げですらあった。
 怖いのは化物だけじゃないんだろ?
 黒い瞳に心中を見透かされて、返す言葉はひとつもなかった。そうだ、そうなのだ。

 私が本当に恐れているのは、化物なんかじゃない。

 頃合いとばかりに、マリオがルフィの後を継いだ。

「短期間とはいえ、協同した誼だ。オルランドを探す時、余裕があればあんたの失せ物も探しておいてやる」

 もはやとりつく島もなかった。
 ぼんやりと立ち尽くす私に、マリオは諭すようにゆっくりと、だがはっきりとした声で言った。

「自分で歩けねェ奴は、死ぬまでそこにいるしかない」

◇◇◇

 早朝に発つ、と言った後、再び話し合いをはじめた二人を置いて、私はひとり部屋を出た。追い出されたわけではない。むしろ『居ても良い』とさえ言われてしまった。今となっては私が居ようが居まいが関係ないのだ。彼らは本気だった。

 茫然自失のまま、村に彷徨い出た。蜘蛛の糸が切れて、再び地の底を這いずることになった亡者のように、ふらふらと進む。どこからか流れてくる家畜小屋の匂いを嗅ぎながら、広場の真ん中を歩いていった。時刻はいまだ三時を過ぎていない。皆まだ仕事中なのだろう、いつもは賑やかな広場には、人っ子ひとりいなかった。

 どんどん歩いて行って、民家の立ち並ぶ裏手に入った。当てずっぽうに歩いていると、すぐに行き止まりに行き当たった。仕方なく少し戻って、手前の脇道に入る。しばらく行くとまた行き止まり。戻って曲がる。当て所もなくそんなことを繰り返した。

 足手まといだと言われて、悲しかった。でも同じくらい、誰かに依存する自分になってしまっていたことが情けなかった。頼らないと生きてさえいけないくせに、危ないところへ出かけていく?おこがましいのを通り越して、いっそ滑稽だ。

 歩いていた道がすうっと細くなった。また行き止まりか、と思った時、最奥から人の声が聞こえた。

「おやおや、今日は何をお探しで?」

 ひゅっ、と呼吸の音が聞こえるくらい、大きく息を飲んだ。
 暗がりから現れたのは、いつぞやの煙草屋だった。


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