55 The Merchant of NALVA(Ⅲ)
夕暮れの港に、静かな波音が響く。
打ち寄せる波に曳かれてコトン、コトンと揺れる小舟も、朱色の斜陽に照らされてぽつんと浮かんでいる桟橋も、胸が苦しくなるくらい寂しげだった。
朽ちた渡し板の上に、濃色の影が伸びる。港全体にぼんやりと視線を漂わせていた私は、向き直って影の主を見上げた。
「来てくれないのかと思いました」
「最後だからな、これくらいは付き合う」
「そうですか」
生真面目な顔で答えたルフィに、思わず苦笑した。
「笑うところじゃねェだろ。アンタにとっちゃ」
二人の表情は硬かった。かえって救われた気持ちになり、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
彼らは彼らなりのやり方で義理を通そうとしている。私が必死になっている内容に対して―― それがたとえ彼らにとって取るに足りないものであったとしても―― 同等の真摯さで応じてくれようとしている。そうでなければ、求めに答えてわざわざこんなところにまで足を運びはしないだろう。何も言わず姿を消すなり、縛り付けて言うことをきかせるなり、面倒を避けようと思えば、いくらでもできたはずなのだから。
単にコソコソするのが性に合わなかっただけ、誰に対しても筋を通す人たち、と言ってしまえばそれまでかもしれない。しかし短い間とは言え、私という存在を多少なりとも親しいものとして受け入れてくれていたのだと、今はそう信じたかった。
「こいつの言う通り、これが最後だ。どんな話を聞こうが、アンタを連れて行く気はない」
マリオが静かな声で言う。その目を見上げて、たずねた。
「じゃあ最後にもう一度だけ教えてください。私が一緒に行けない理由は何ですか」
「リスクが高すぎるからだ。オルランドのもとには、アンタを攫った海賊がいる。ここがカイドウの領域内である以上、どんな小物であれ、カイドウの傘下にあると見るべきだ。万が一アンタが捕まったときはどうなる? アンタが進んで俺たちを売るとまでは思っちゃいねェ。だが、どんな目に遭っても口を割らねェ奴だとも思ってねェ」
色素の薄い瞳が、私を射抜いた。
「意味のない慰めは嫌ェだし、親切ぶるつもりも毛頭ねェからな。はっきり言うよい。俺は、俺と俺の身内にとっての最善を選べりゃそれでいい。悪ィが、アンタの存在は今のところマイナスの要素でしかねェんだ」
だからもう諦めろ。あえて口にしなかった言葉が、空気を通じてはっきりと伝わってきた。
これまで一緒にいたのは、私に協力させるというメリットが、私の面倒を見るというデメリットを上回っていたから。彼らが言っているのはそういうことだった。
この島で活動するにあたって、情報収集をするための人手を何らかの形で調達しようと考えていたとすれば、マリオが言うところの“はした金”で 情報収集を手伝うと申し出た私は、二人にとって渡りに船のような存在だったのかもしれない。
彼らが本当はどこから来て、どんな立場で、どんな人なのか、私はろくに知らない。私に接している時の彼らの表情は、偽りのそれではないが、彼らが彼らであるための核心的な部分はいまだ懐深くに隠されているように思う。
だがそれでも一緒に過ごすうち、すりガラスの向こう側に霞むようなおぼろげな輪郭ではあるが、彼らの価値観の切れ端ともいえるものはいくつか拾い上げている。
目の前にある、険しい二つの顔を見上げた。
私が掴んだ価値観の断片―― それは彼らがいわゆる「やさしさ」とか「愛」とかいったものに対して、一種独特の解釈を与えている類の人間らしい、ということだった。その他大勢の間で無意味に転がされ、甘ったるい匂いをさせているそれらの概念も、彼らの前では夜明け前の潮風のように、ひりひりと塩辛く、肌にしみる。
二人は常に私を一人の人間として認め、対等であろうとしていた。それを拒み、自らを卑屈に貶めたのは私の方だった。あの時ルフィが言い放った皮肉げな一言は、矜持を持たない人間の醜さを糾弾するものに相違なかった。
彼も私も対等な人であると思えば、“くれてやる”ことなどできはしないのだ。金に困った友人に欲するまま金品を譲り与えるとして、彼らは今後も今まで同じ関係でいられるだろうか。
いつかレッド・フォース号において仕事が欲しいと言った時の私は、確かにそれを思っていたはずなのに。
この世界に来て、いろいろな人に助けられるうち、助けられることが当たり前になってしまった。ひ弱な体、力のなさ、経験のなさ、知識のなさ、ありとあらゆる弱さを盾にした私は、自分でも気付かないうちに無条件に人の好意に甘え、すがるようになっていたのだ。
私は弱い。だから強い誰かに助けてもらわないと。
―― なんて、情けない。
“物乞い”のように強請って、同情してもらって、ほしいままに与えられる。同情してもらう。 救ってもらう。愛してもらう。
“物乞い”に強請られて、同情して、ほしいままに与える。同情してやる。 救ってやる。愛してやる。
施せば施すほど、施されれば施されるほど、彼我の垂直距離は広がっていく。一方通行であるかぎり、両者の溝は永遠に埋まらない。
友達になんてなれやしない。
赤い髪がまぶたの裏に浮かぶ。息を吸って、言葉とともに吐き出した。
「マイナスじゃなければ、連れて行ってくれるんですね」
二人がわずかに鼻白んだ気配がした。
「マリオさんが言うリスクのうち、最大のものは『相手がカイドウと繋がっているかもしれない』という懸念ですよね。確かにそうです。大海賊の縄張りの中で、その人と無関係な海賊が勝手にウロウロするなんてこと、普通はできないでしょうから。でもね、もし、私を攫った奴らが海賊じゃなかったら?」
ぴくり、とマリオの眼球が動いた。
「お二人が目指そうとしている“病の獣”の島、つまりオルランドさんがいるかもしれない島に、海賊はいません。私を攫ったあの船は海賊船なんかじゃなかったんです」
二人の視線を受けながら、麻袋からロープを取り出した。さっき煙草屋のところで落としかけたロープの束、これこそが謎解きの鍵だった。
「このロープ、どこか変だと思いませんか」
二人の目の前に差し出すと、ルフィは怪訝そうな顔をした。
「変? どこにでもある普通の―― 」
「違う」
遮ったのはマリオだった。ロープを見つめながら、眉間に皺を寄せている。
「ルフィ、結び目を見てみろ」
「結び目?」
ロープを掴み、顔の近くまで結び目を持ってきて、ルフィは更に怪訝な表情になった。
「どれもこれも、素人の結び方だな。強く引っ張りゃどんどんずれちまうし、そのわりに肝心な時は緩めにくい。こんなもん、船じゃまるで役に立たねえェぞ。ん?船?」
表情の変わったルフィに、そうです、と頷いた。
「これは私を攫った船からこっそり持ち出してきたものです。見ての通り、どの結び目はすべてこの方法で結ばれています。でも、変じゃないですか。海賊なんですよ。どうしてロープの結び方も知らないんですか」
二人は黙っていた。だがそれを強引に肯定ととって、話を進めた。
「捕まっていた時は逃げることに必死で、深く考える余裕がありませんでした。でも妙な点は他にもたくさんあったんです。 例えば『縄梯子に登り慣れていない』 とか『手に傷がない』とか」
帆船で使うロープ、特に帆を張る時に使うロープは、現代日本のホームセンターで見るような細く滑らかなものではない。帆が勢いよく展開される瞬間、手を離すタイミングを誤った船乗りはささくれだった粗いロープに手のひらをズタズタに引き裂かれてしまう。
どんな立派な船乗りでも見習い時代に一度や二度は経験する怪我なのだと、いつだったかシャンクスに聞いた。
「手の平の綺麗ェな船乗りはいねェ」
「見張りの仕方も言葉遣いも肌の色も、 今から思えば、海賊以前に船乗りとして違和感のある集団だったんです」
ルフィが真剣な面持ちで見返してくる。
「だがよ、実際に見たのはアンタだけだろ。頭の中にしかねェもんが証拠になると思ってんのか?」
煙草屋と会った後、宿屋に戻る前に一旦港へ走ったのは船の記憶をはっきりとさせるためだった。逃げる時に見た船の様子を、あの時と変わらない港の光景と重ね合わせることで、忘れていた細々としたことまで思い出せるのではないかと思ったのだ。
試みは大成功だった。
「私の記憶が正しいかどうかを、私自身が証明することはできません。彼らが海賊じゃないと確信した最大の理由は、記憶なんかじゃなくてもっと明確なものなんです。私を攫った人たちはこの港に寄り、物資を補給しました。このルイスハリス島には村がひとつ、たったそれっきりです。ルフィさん、マリオさん。お二人は私が攫われてくる前からこの島にいたんですよね。住民たちが怯える様子を見ましたか?『海賊が来たぞ!』という声を聞きましたか?』
どちらからか、唾を呑み込む小さな音がした。
「奪い取るでもなく、脅迫するでもなく、住民たちから穏便に物資を受け取ることができた彼らは、海賊なんかじゃありません。もしかすると、この島の住人にとっては見知った顔ですらあったのかもしれません。海賊船に見せかけた船に乗り、海賊の振りをしていただけの普通の人間だったとすれば―― 」
「オルランドの件にカイドウが首を突っ込んでくる可能性は低い、そう言いたいわけか」
「ええ。もしあの人攫い集団の仲間に海賊がいたなら、船に慣れない素人たちで海に出なければならない理由がありませんから。もちろん確証はないんですけど」
言い終わった後、私は唇を軽く噛んだ。ここからが勝負だ。今度こそ間違うわけにはいかない。
背筋をピンと伸ばし、顔を上げた。
「“相手は海賊じゃない。だから、連れて行ってください”―― そんなことを言いにきたわけじゃありません」
二人の視線がこちらに引き寄せられる気配がした。この機会を逃すものか、と私は目の前の男たちを見据えて、たたみかけた。
「私は、取引に来ました」
この口からそんな言葉が出るとはまさか思っていなかったのだろう。 二人は一瞬面食らったような顔になった。
「内容はこうです。私はあなたたちに“病の獣”の島の情報を渡す。あなたたちはその対価として私を“病の獣”の島まで安全に運ぶ」
マリオは難しい顔のまま、首を左右に振った。
「提案は悪くねェが、アンタの持ってる情報はこっちも全部把握している。今更目新しいことは―― 」
「“病の獣”の島の場所、知りたくはありませんか?」
さっきとは比べ物にならない勢いで、二人分の視線がこちらに向いた。頬がひきつり、舌がもつれそうになるのをこらえて、私は自信ありげに笑ってみせた。
「なかなかの特ダネですよ。どうですか、取引しませんか?」
煙草屋の言動をなぞるように振る舞ってみる。だが正直恐ろしかった。 こんなもの、口約束に過ぎないのだ。情報を伝えたからと言って向こうがその通りにしてくれるとは限らない。
でもどちらかが捨て身にならなくてはならないとしたら、それは一度失敗してしまった私の方に決まっている。
しばらくして、マリオが問うた。
「確かなのか?」
彼の目は、まっすぐに私を見抜いていた。強い男たちには、腹の探り合いなどというまどろっこしい手順は必要ない。ただ信用に値するかどうか、対等に接するだけの価値があるかどうかを静かに確かめるだけだ。
今この瞬間が、私に許された最後のチャンスだった。
手を握りしめ、ゆっくりと頷いた。
「確かです。私を育ててくれた祖母に誓って」
「……いいだろう。取引に応じる」
そう言ってマリオはとん、と指先でテーブルを叩いた。
”SIZZ”についての説明を終えると、向かいでルフィがため息をついた。
「水に濡らしてみたり、炙り出してみたり、何から何まで試してみたのにな。まさかそういう答えとはなァ。そもそも旧島番なんていうのも初耳だぜ」
「今時知ってる奴の方が少ねェよい。 随分昔に廃止されたもんだからな。オルランドの奴も、偶然どこかで旧島番の古地図を見つけて暗号代わりに使えると思ったんだろうよ」
骨董品と言っても差し支えのない古びた地図を、マリオは指でなぞった。視線を感じて顔を上げると、ルフィがにやりと笑っていた。
「にしても良く思いついたな。あんたにしちゃァなかなかやるじゃねェか。なァ、マリオ」
「取引って言ってきた時にゃあ、何を言い出すのかと思ってヒヤヒヤしたがな」
「いやあ、謎解きについては幸運だったというか何というか」
頭を掻き掻き、言葉を濁した。
煙草屋の手助けがなければ、私だって気付かないままだっただろう。
「持って生まれた幸運に感謝、だな。アンタの口癖通り」
「海の上じゃァ、運の良し悪しが命の分かれ目だよい。力や知識だけじゃ、越えていけない時がある……そう、それなんだがな」
そこまで言って、マリオは決まり悪そうに咳払いをした。
「”取引”について言っておかないといけねェことがある」
”取引”という言葉にドキッとして自然、背筋が伸びる。
「ああ、心配は要らねェ。一度結んだ以上、約束を違えるつもりはねェよ。俺が言いたいのはその方法についてだ」
「と、言いますと」
「この島に船がねェのは知ってるな?他所の島に行きたければ三ヶ月に一回の定期船を待つほかねェ。だが、俺たちはその気になれば、この島を出ていける」
彼はモゴモゴと言いよどみ、珍しく要領を得なかった。ルフィが後をつづける。
「船を使わなくても、マリオならなんとかなるんだ」
「そう、今までも何回か船のねェ島には行ってる」
「最悪な旅だったけどな」
ルフィは何故かげんなりしたようにマリオを見た。マリオもマリオで大層嫌そうな様子で言い返した。
「乗ってる方が文句言うんじゃねェよい。勘弁して欲しいのはこっちの方だってのに。誰が好き好んで野郎の足になんざなるか」
マリオがこちらに視線を戻した。
「正直定員オーバーと言えなくもない。ルフィだけでもそれなりに重いからな。だが、現実問題として他に方法がねェ。いいか、イチル。乗り心地は相当悪くなるが、ルフィと一緒に俺のせな―― 」
「なんだ、そんなことですか!良かった。それならいい方法がありますよ」
手を打って笑うと、二人はぽかんとした顔をした。
「実は靴を新調しまして」
「はあ?靴?」
「ちょっとこっちに来てください」
二人を伴って、港の中を歩いていく。
少し行って、覆いをかけた大きな“何か”の前で立ち止まる。ロープを解き覆いを外すと、ルフィがヒュウと口笛を吹いた。マリオの方は固まっていたが、しばらくして呆れたように笑い出した。
「こりゃ、確かにいい靴だァ」
覆いの下に隠してあったのは、小型のヨットだった。かなり小さい船だが、三人が乗って短期間の旅をするには必要十分なサイズである。宿屋に戻る前に、一度港に行ったのはこの準備のためでもあったのだ。
「とある商人から買い受けまして。ああ、もちろんツケなんですけどね」
「おめでとう。あんたも晴れて借金王だな」
ルフィが茶化す。
「シャッキングってやつですね」
「センスがない。三点」
ルフィとのやり取りを聞き、マリオが苦笑した。
「ここまでやられちゃ、もうどうしようもねェよい」
ルフィに対して全身で怒りのポーズを表現していた私は、慌てて拳を下ろして、マリオの方に向き直った。
「三点でも?」
「三点でも。アンタの勝ちだ」
私は差し出された手をしっかりと握った。
「これからも、よろしくお願いします」