暖かなランプの灯り。
照らされた髪先が、暖炉の炎のような柔らかな橙を帯びて、ゆらゆらと揺れている。
暖かそうなその色に、思わず手が伸びた。
容易に届いた赤い髪は、ざらついた潮の手触りで私の指先を刺激した。
なんだ、あったかくないね。
そうこぼすと、頭上から笑い声が振ってきた。
56 その獣、焔に染まりて
目を覚ますと、あたりはまだ暗かった。棒切れで焚き火をつついていたマリオと目が合う。
「お目覚めかい? 寝入って一時間も経ってねェが」
焚き火の反対側では、ルフィが高鼾を掻いている。秋島の晩秋、肌寒くなりはじめた時期だというのに、毛布一枚被っていない。
「掛けてやる必要はねェよ。無駄になっちまう」
「マリオさんは寝ないんですか?」
「俺より自分のことを気にしろよい。明日からは船の上だ。落ち着いて寝れるうちにしっかり休んどけ」
「ちょっと、緊張しちゃって」
起き上がって毛布を肩に巻く。気を利かせたマリオが、カップに湯を注いでくれた。
「ありがとうございます」
手のひらから伝わるぬくもりに、肩の力がほうっと抜けた。夢で見たあたたかさが身のうちに蘇ってくる。
早朝の出港に備えて、宿は夕方に引き払ってきた。当然、次の定期船が来るまで逗留をつづけるものと思っていた宿の主は、明日出ていくという客に目を白黒させていた。
「旅ははじめてか?」
「短いものなら少しだけ」
そうか、とマリオは焚き火に視線を戻した。炎がちろちろと瞳の中で踊る。
「訊きたいことがあるんですけど、いいですか」
「なんだ」
「どうして私を連れて行ってもいいと思ったんですか」
マリオが眉を上げた。
「どうして? 今更何言ってんだ。着いて行きたい、取引しろだなんだと言ったのはそっちじゃねェか」
「所詮は口約束です。貴方達ふたりと私、あの場で脅して情報を奪い取ることだってできたわけでしょう。泥棒とか……海賊みたいに」
その言葉に彼は特に反応しなかった。違うのかな、と思いつつ、私は話をつづけた。
「うまく誤魔化して島の場所を聞き出してから、置き去りにすることだってできます」
「それが不安で眠れないって? 確かに、これからまさしくその通りになるかもしれねェからな」
「まさか」
私は笑って首を振った。ありえない、そんな心の内を見抜いたのか、マリオは冗談なのか本気なのかどちらともつかない表情を見せた。
「取引ってのは普通、対等でなきゃ成り立たねェもんだ。何をもって対等とするか―― この海においてはたったひとつだ。その程度のことは、アンタも良く分かってんだろう。理解しながら、どうして俺たちが約束を守ると思った」
彼は問いに問いで返し、するりと躱した。一方、私はその必要を感じなかったので、思ったままに答えた。
「似ている人を知ってるんです」
「へェ」
「なんでかな、マリオさん達を見てると、その人のことが思い出されてならないんです。顔なんて全然似てないのに」
ルフィの寝顔を見ながら笑う。ウェーブした黒髪に、炎の色が映っている。この青年には、不思議とよく似合う色だった。
マリオはため息をついた。
「道理でなァ。やけに詳しいと思ったよい。船のこともどうせそいつに教わったんだろう」
「お、あたりです。すごいですね。どうしてわかるんです?」
「あんなもん、“手に傷のない”小娘が知ってることじゃねェからな。まったくどこでひっかけられたんだか。やめとけやめとけ。俺らに似てるなんざ、どうせろくな奴じゃねェ。さっさと縁切りすることをオススメするよい」
眉を寄せ、ぶつぶつと零すマリオ。なんだかお父さんみたい、と自分の想像につい吹き出してしまった。
お父さん。この世界に来る前の私なら、そんな言葉はひっくり返っても出てこなかっただろうに。
「そっちの方はご心配なく。ただの幼馴染です」
「へェ、そうかい」
彼は半目のまま、興味なさそうに答えた。
カップの中身はとうの昔に冷めてしまっていた。ルフィの寝息は相変わらず豪快である。
「そろそろ寝ますね。見張り、替われたらいいんですけど」
「ああ、要らねえよい。ただでさえ慣れねェ船旅なんだ。体調を崩される方が困る」
「わかりました。ありがとうございます」
毛布にくるまり、身を横たえた。焚き火のぬくもりが頬の表面を撫ぜる。私は目を瞑ったまま、まぶたを通して炎のゆらぎを眺めた。パチパチと薪のはぜる音がする度、赤とオレンジの毛細血管が瞬く。
あの時、彼は何と言ったのだったか。
「マリオさんって、似合いませんね。赤い色」
まどろみの中で口を開く。
「悪い意味じゃなくって、なんていうのかな、もっと……」
「分かってるよい」
「良かった」
彼はしばらく経って、呟くように言った。
「前に港で言ったこと、アンタにとっちゃ余計な話だったな」
何を言わんとしているのか、ぼやけはじめた頭がようやっと思い至った。
「人であるかぎり、地に足つけて歩くことしかできねェんだ。気付けば皆どこかへ置いてきた、なんて起こるはずもあるめェよ」
「帰り道が、わからなくても?」
夢の淵に歩を進めながらも、これだけははっきりと聞き返した。
「道は一本きりじゃねェ。この際、物見遊山を決め込むのも良いんじゃねェか。水も食い物も寝床も―― もっと大事なモンも、ここには全部ある。空とは違ってな」
彼特有の、温度の低い単調な声だった。潮枯れした男声。だが、その陰に隠されているものを、私は良く知っている。
良く似た人を知っているからだ。
薄目を開けて、マリオを見た。炎の照り返しを受けて、彼の瞳は炎の色に燃えていた。似合わないのは色ばかり。
「ほら、やっぱりそっくり」
そう言うと、マリオは仕方なさそうにこう嘯いた。
「さァてな、俺はただ教えに従っただけだよい。海で最も偉大な船乗り曰く『人間はみんな海の子』―― 相手がガキなら仕方ねェ」
早朝の冷たい風が、空いた喉元を切る。朝靄の中、右へ左へ揺さぶられながらも力強い足取りで進んでいく船上にあり、私は上着の襟を掻き合わせた。
「しっかり捕まっとけ。振り落とされても助けねェぞ」
「沿岸流が強ェ。もうちょっとかかりそうだな、マリオ」
ルフィが立ち上がり、行く手の海に目を凝らした。
「乗りたい海流が島の向こう側にあるからな。流れに逆らって半周ほど回る」
流れに逆らって、と言いつつも、彼らは航行に腐心しているわけではなかった。ドドドド、というこの世界にしてはやけに現代的な音とともに、激しく泡立つ白波が船の後部に立っている。
「あの、なんですかこれ」
「噴風貝だ。風を吹き出す貝でな、こういう時に重宝する」
「へ、へえ。か、貝から暴風」
この世界お馴染み、良くわからない便利生物に顔が引きつった。この世界では落ち着いてしじみ汁も飲めないのだろうか。
「貝、貝、あれ、なんか忘れてるような」
だが思い出しかけた何かは、続くマリオの声ですっかり吹き飛んでいってしまった。
「せっかくの機会だ。よく味わって乗れよ。風貝の一種だが、こいつは大出力の絶滅種だ。時価数千万はくだらねェ」
「へえ、数千万ですか。うん?数千万?え?」
聞き間違えたのかと思って耳をほじってみたが、聞きたかった否定の言葉はついぞ聞こえなかった。
「ま、うちには腐るほどあるけどな」
あくびをしながらルフィが言う。
借りているお金、やっぱり返さなくてもいいかな、と私はロダンのポーズで頭を抱えた。
「ありゃなんだ?」
岸辺に沿って島を回り込み、約二時間。
あたりはうっすらとした白い靄に包まれ、海の側には遠目がきかない。島の裏手に立ち並ぶ、何の特徴もない崖もそろそろ見飽きてきた頃、ルフィが声を上げた。
視線の先を追うと、高台の上に人影がひとつ。
「男―― 目が黒ェ。土地の者じゃねェな」
この距離で、到底見えるはずもない色彩を言い当てるルフィ。しかし私とて言い当てようと思えばいくらでもできた。見えずとも分かる。その人物の黒い瞳が私に向いていることまで。
崖の上に立った煙草屋を目にした途端、胸のうちにモヤモヤとした思いが湧き出した。
『どうしてですか?』
昨日の夕刻、煙草屋の言った“靴”が何であるかに思い至り、再び袋小路に駆け戻った私は、目の前の男を見上げてそうたずねた。
『どうして、ここまで親切にしてくれるんですか?』
困った時に手を差し伸べ、道を指し示してくれる。アンタナ・リボナで、ポーンショップ島で、皮肉を垂れつつも、彼は常に私の味方だった。
だから私の声は並々ならぬ感謝の念に満ちていたはずだし、むしろそれを伝えたいがために発した一言だった。
だが、煙草屋の反応は思いもよらないものだった。
『親切?』
そう問い返してきた刹那の、その顔といったら。
口の端を釣り上げて、男は嘲り笑っていた。世の全てを蔑むような鬱々とした焔を瞳に宿し、音もなく哄笑する狂人。
ぞっとした。
瞬きの後にはもう、煙草屋は元の顔に戻っていた。だが一秒にも満たないその一瞬は、その形のまま凝着し、私の網膜に深く刻み込まれた。
『いえいえ、私は商人でございますから。お得意様のご要望に沿うのは当然のこと。それに―― 』
呆然とする私を前に、彼は聖者のような微笑みで囁いた。
『いずれ耳を揃えてお支払いいただきます』
「ああそうか、あいつが“五人目”か。噂の“病の獣”じゃねェかって期待してたのに」
つまらなさそうなルフィの声で我に返った。マリオが眉を顰める。
「“五人目”?」
「前にイチルとまわった先で、定期船の客が一人多かったって話を聞いたんだ。きっとあいつのことだろ」
同意を求めるルフィを見上げ、慌てて頷いた。
「多分そうだと思います。私も昨日会ったばかりですが、この船を買ったのもあの商人からです」
「商人だと?」
黙って聞いていたマリオが顔を上げた。珍しく困惑しているような表情だった。
「あの男は―― 」
「どうしました?」
だが、マリオは言おうとした何かをそのまま飲み込んだ。
「いや、なんでもない」
船が大きく揺れる。彼は立ち上がり、舵を切った。
三人を乗せた小船の舳先は、ゆっくりと、だが確実に方向を変えはじめた。陸に背を向け、反転する。
流れを捉え、船はほどなくスピードを上げ始めた。真っ白な海霧が行く手に迫る。もと来た方を振り向くと、遠く遠ざかった崖上で、煙草屋が恭しく頭を垂れていた。
船はそのまま白濃の靄に突っ込んだ。雲中のようなそこはひやりと冷たく、私はさらに襟元をきつく閉じた。煙草屋の姿は島の影とともに、すでにフェードアウトしていた。
四方が完全に白く染まり、音さえも消え失せた。
どれくらの時間が経っただろうか。
夜が明けるように一気に霧が晴れた。あ、と声が漏れる。舳先の向こうに現れたのは見渡すかぎりの大海だった。
「さァて、戻ってきたぜ」
ルフィが上機嫌で口笛を吹いた。
かくして私たちは、いよいよ未知の島に向けて漕ぎ出したのだった。