61 訥弁の語り部(Ⅱ)
部屋の中には男三人と女一人。
私たちを二階の客間に案内した後、メイドはどこかに消えてしまった。
私はずっと気になっていたことをオルランドにたずねた。
「昼間の様子を見ていると、オルランドさんは喧嘩をしても結構強いですよね。ダンヴェガンはオルランドさんが倒せないような相手なんですか?」
喧嘩……とマルコがため息をついたのは気にしないことにした。オルランドが吐き捨てるように言う。
「ダンヴェガンが?まさか。あの貴族趣味の男は根っからの坊ちゃんだ。頭は回るが、それでも万にひとつも負けはねェ」
「お前があの男に手を出せないでいるのは、その“後ろ”だろう」
マルコがとんと机を指で弾いた。
「ダンヴェガンは海賊ですらねェ小物だが、この一帯では顔が利く。辺鄙な海域とはいえ、カイドウ傘下の誰かしらと繋がっている可能性は高いだろう。つまり下手に手を出せばカイドウ側と事を構えることになる。お前はそれを危惧したんだ。違うか?」
「その通りで。調べれば、俺の身元なんざすぐにばれちまう。今の俺はただでさえ厄介事の種なんだ、これ以上オヤジの手を煩わせるような真似は……」
オルランドは項垂れた。
「それについてはもう気にすんなよい。で、その状況を破る二人、いや三人が闖入してきたわけだが、何か策はあるのかい」
私の方も一応はちらりと見て、マルコが言った。オルランドは浮かない顔で頷いた。
「アイリーンの父親―― ドナン・ドゥイック卿はダンヴェガンの寄越す医者や高価な薬によって辛うじて命を繋いでいる。こちらで薬や医者を用意しようにも、ドナン・ドゥイック家はもはや途絶える寸前、財産はほとんど残ってねェ。例の“遺産”を除いてはな。だからもし、ダンヴェガンよりも先に遺産の在処を聞き出し手中に収めることができたなら―― その金で薬を買い、島を守る人手を雇うことができる。俺がここにいなくとも、ドナン・ドゥイックは守られる」
オルランドは深く嘆息した。
「俺ひとりでは何もできなかった。ダンヴェガンを始末することも、遺産の在り処を聞き出すことも、何も。遺産の正当継承者であるアイリーンは今や塔の中に幽閉されている。あの状態のドナン・ドゥイック卿がどこまでこの事態を把握しているかは不明だが、どう転んでも俺を認めることはねェだろう」
「塔を壊して中にいる領主の娘を連れ出せば早ェと思うんだが、それができねェわけはなんだ?」
マルコの問いに、オルランドは塔と接した屋敷の壁をコンコンと叩いた。
「この塔は恐ろしく丈夫な素材でできている。誰がつくったのか、普通の建造物でねェことは確かだ。覇気や能力を使えば、破壊は可能かもしれねェが、中にアイリーンがいる以上そこまでの無茶はできない」
「つまり頼みの綱は、コイツだけってことだな」
エースが私の肩を叩くと、三対の視線が集まった。私がドレスを着ていたわけはオルランドからすでに皆に説明されていた。
「といっても、コイツは一度失敗してんだろうよい。役に立つのか?」
「可能性はゼロじゃ、ねェ。だが、手助けを頼める立場じゃねェよ、俺ァ。ずいぶんと酷い目に遭わせた」
顔を上げるとオルランドと目があった。昼間はあんなに鋭かった黄土色の目が途方に暮れていた。
捕まって、追いかけられて、恐ろしい思いをしたのは確かだ。
でも私はいつだって助けられてきたのだ。たくさんの人に。
「大丈夫です。私で良ければ」
オルランドがはっと目を見開いた。
「私は大切なものを探してここに来ました。どうか全部終わった後には、私の宝物も探してくださいね」
「すまねェ。約束する」
分厚い、傷だらけの手と握手する。それを見て、エースが隣でフフンと鼻を擦った。
夜がとっぷりと更けた頃、客間のソファでひとり考え事をしていた私に、エースが近づいてきた。
「オルランドを手こずらせたんだって?」
「えへへ、色々と小賢しい手は使ったけど」
端に寄って場所を空けると、隣に腰掛けてくる。
ここは秋島、季節はすでに晩秋だという。火の入らない寝室はひんやりと肌寒く、さすがのエースも厚手のシャツを羽織っていた。
隣室からはマリオとオルランドの話し声が聞こえてくる。込み入った話のようだったのと、昼間のドタバタで少し疲れてしまったのとで、しばらく席を外すことにしたのだ。
私が袖の中に手を引っ込めているのに気づいて、エースは「少し待ってろ」と廊下に消えた。
すぐに毛布と湯気の立つマグカップを持って戻ってくる。
「ほらよ」
「ありがとうございます。ええっと」
「俺は別に寒かねェ」
「炎だから?」
そうたずねると、エースは面食らったような顔になった。
「まァな」
彼は目を逸らした。私は少し考えて、話題を変えることにした。
「オルランドさん、見つかって良かった」
「ああ、本当にな」
「皆結局、大事な人のために一生懸命だったんですね。オルランドさんも、マルコさんも、エースさんも。はじめはちょっと怖かったから」
はじめて呼ぶ名前に、少し言葉が詰まった。責めるつもりはなかった。だが彼は複雑そうな顔になり、床に視線を落とした。
しばらくして顔を上げたエースは、私に向かってぽつりと零した。
「黙ってて悪かった」
何が、と聞き返すほど、私は意地悪な人間ではない。
「二人が普通の船乗りじゃないってこと、本当はなんとなくわかってたんです。分かってた上で甘えさせてもらっていました」
そう、わからないはずがないのだ。屈強な身体、傷だらけの手、頑なに隠された腹部や背中―― 染み付いた砲煙の匂い。荒々しい海の匂い。何もかもが私の知るあの人にそっくりだった。
「“ルフィ”は、弟の名前ですか?」
「ああ。咄嗟に思いつかなくてな。いい名前だろ」
「ええ、とても。“エース”と同じくらい」
「そうかな」
彼にしては珍しく後ろ向きな返事だった。横を向くと、ふとエースの瞳が目に入った。
底の知れない黒々とした瞳だった。
中心に一筋、炎が灯っている。暗く美しく、虹彩の奥でちろちろと揺れるそれは、蛾を誘う光のように私の心を手招きした。声なき声が私を呼ぶ。
頭がしびれたようになって、何も考えられなくなった。黒と赤が入り交じる闇の底に、強烈に惹きつけられる。目が離せない。どこまでも、深く吸い込まれていく。
その時、手のひらが私のまぶたを押さえた。
「もう見るな」
エースの声で、はっと我に返った。
「今の……」
「昔からこうなんだ。“良くない目”だって言われる」
人を誘い込み誑かす、獣の目だと。
手のひらをそっと離す。私と目を合わせないようにしながら、彼は言った。
「目だけじゃない。俺はな、ずっと自分の名前が好きじゃなかった」
エースの目は私を見ず、ぼうっと前に向かっていた。
「死んだおふくろがくれた名だ。でも俺にとってはそれだけじゃない。誰かにこの名を呼ばれるたびに、自分が何者なのかを否応なく思い出すんだ。どんなに隠そうが知っているやつは知っている。疎まれて、追われて、俺はずっと俺じゃない誰かになりたかった」
エースの心はどこか遠いところへ彷徨い出ていた。淡々と語る声には悲しみも苦しみも滲まない。それがかえって負った傷の深さを示しているようだった。
「でもそれも全部、あいつらに会うまでの話だ」
困ったように小さく笑う。
「頼んでもないのにあれこれ世話を焼いてきてよ。エース、エースと何度も呼ぶんだ。あんまりうるさく言うもんだから、だんだんどうでも良くなっちまった。俺はあいつらの前では、ただの“エース”になれる」
静かな客間で、二人して黙り込んだ。隣部屋の話し声、その合間合間に、木々の揺れるかすかな音が聞こえる。
そう、ここは寄る辺ない海の真ん中。
しばらくして、私は口を開いた。
「ねえ、エースさん。私、ひとつだけ嘘をついてたんです」
彼がふらりと視線を寄越した。
「私ね、本当は“東の海”の生まれじゃないんです。それよりもずっとずっと遠い場所。イチルという人間として生まれて、イチルという人間として育ってきたこと。私がイチルという人間であること。今の私には、それを証明してくれるものは何もないんです」
たった半年、それより前のこの世界に“イチル”は存在しない。私という人間を形作ってきたものは全て、あちらの世界に置いてきてしまった。呼ばれる名前は私の上を滑っていくだけ。
人間のアイデンティティとは内在するものばかりではない。記録と記憶―― 外部との関係の中に、“私”は規定されている。
この世界に来て、あらゆることが幸いだった。身体も心も傷つくことなく、それどころか十分に満たされて過ごしてきた。だがそれでも意識の深いところでは「元いた世界に帰りたい」という思いが絶え間なく流れ続けている。
なぜだろう。なぜ、私は帰りたいのだろう。考え続けてようやく思い至ったのがそれだった。
“私”がこの世界との関係性において抱えざるを得ない根源的な不安感。根によって地に縛り付けられた植物は不自由であっても、不幸であるとは限らない。
私が私であるための証拠と証明は、この世界には、存在しない。
「でもね、たった、ひとりだけ。たったひとりだけ、いるんです」
エースの瞳を追いかけ、中の炎を覗いた。その輝くような赤が、前よりもずっとずっと恋しかった。
「離れてみて、はじめて分かるもんだよな」
「はい。とても」
「でも、たとえそうだとしても、俺はやっぱりあんたが羨ましい」
「どうして?」
彼は私の前に手をかざした。ランプの灯りのような、小さな火が手のひらに現れる。エースが息を吹きかけると、生まれたばかりの赤い炎はほわりほわりと形を変えた。
「誰でもない、ってことは、誰にでもなれるってことだろ? 今“イチル”を知らない奴は、これから“イチル”を知るんだ。アンタが願ったその時に、アンタは好きな自分になれるんだぜ。それはやっぱりちょっと羨ましい」
「そうなのかな」
「そうだ」
根っこを欲しい私と、根っこを引き抜きたい彼。地面に立っていたい私と、遠くへ飛んでいきたい彼。
同じことを考えたらしく、エースが「ええっと」と首を捻った。
「なんて言うんだこういうの。確か、裏の……」
「隣の芝生は青い、ですかね」
「それだ! まァ、別に青い芝が欲しいわけじゃねェけどな」
腕を組んで、うんうんと納得したように頷くエース。
「青と言えば……そうだ、マルコさん。あんな顔で、まさか鳥だったとは。しかもすごく別嬪なやつ」
幸せの青い鳥だね、と言ったところでエースが吹き出した。
「不死鳥な。不死鳥」
流暢な“phoenix”の発音に、腹がむず痒くなった。
「おっさんなのに、フ、フェニックス」
「や、やめろよ……!それ言っちゃいけねェやつだって」
「おっさん型フェニックス、いや、フェニックス型おっさん、その名もマルコ」
「おい、本人に言うぞ」
「後生だから、それだけは」
笑いを止めるのに必死だった。隣のエースも顔を背けてぷるぷる震えている。声を殺してひとしきり笑った後、私たちはようやく「箸が転がっても面白い」フェイズから脱却した。
「大して面白いわけでもないのに、笑っちゃいけねェって言われると、余計笑っちまうよな。こういうのって」
「しかりしかり」
言いながらまた目が合って笑ってしまった。
しばらくしてエースが「それにしてもよォ」と頭の後ろで手を組んだ。
「もうちょっと何とかならねェのか。“不死鳥”マルコと聞きァ、よちよち歩きのクソガキでもびびって泣き止むぜ」
「お恥ずかしい話ですが、良く知らないんです、私。すみません」
「世間知らずここに極まれり。じゃあよ、俺のことは知ってるか?」
「もちろん」
そう言うと、エースは興味津々といった様子で顔を近づけてきた。
「ほォ、じゃあ答えてみろよ。俺は“何”のエースだ?」
私は胸を張って答えた。
「“白ひげの息子”で“ルフィの兄貴”のエースさんです」
エースは一瞬きょとんとして、それから顔を押さえてクックッと笑い始めた。
「俺さ、アンタのそういうところ結構好きだわ」