chapter6 FEAR IS LIKE FIRE

63 Children in Lunatic / 神の愛し子(Ⅱ) 


 執事の案内を受け、ドナン・ドゥイック卿の寝室へと走った。
 ダンヴェガンの来訪によりざわつきはじめた島の空気も、屋敷の奥に行けば行くほどふたたび動きを失っていく。

 外界から隔離されたドナン・ドゥイック卿の居室には、以前来たときと同じく時間が止まったような静けさが満ちていた。

 逸る気持ちを押さえつけ、ゆっくりとベッドに近づいた。
 前回、私はドナン・ドゥイック卿の目を欺くことができなかった。今回はといえば着の身着のまま、化粧はせず、髪もいつもどおり。私が貴族の娘ドナン・ドゥイック=アイリーンでないことは誰が見たとてすぐに知れるだろう。

 でも、これでいい。アイリーンの姿かたちを真似て、アイリーンの声を真似て、それでも駄目だったのだ。いくら上辺を取りつくろおうが、結果はきっと同じだろう。

 だから、と私はベッドの横にひざまずき、前と同様に老人の手を握った。古い紙のようにガサガサと色のない手は、力を入れれば今にも折れてしまいそうだった。

「私の話を聞いてください」

 ドナン・ドゥイック卿のまぶたがほんの一瞬だけ震えた。が、それっきりだった。手を握ったまま、私はゆっくりと話しつづけた。

「今この島に危機が迫っています。良からぬことを企む輩が、ドナン・ドゥイック家の宝のすべてを奪い去ろうとしている。遺産、そしていずれはあなたの愛する娘も。大旦那様」

 “お父様”ではなく“大旦那様”と言った私に、執事が息をのんだ。

「どうか遺産の場所を教えてください。それさえあればダンヴェガンをここから追いだすことができます」

 私は返事を待った。だが、ドナン・ドゥイック卿のまぶたは開かず、反応らしい反応は何も見えなかった。

「本当にごめんなさい。望んでやったことではありません。でも私もオルランドさんもあなたに対してあんな卑怯なやり方をするべきではありませんでした。でも、オルランドさんがドナン・ドゥイックを、アイリーンさんを想う、その気持ちだけは本物なんです。だから、どうか」

 手を握り、必死に頼んだ。目の端がぴりぴりとする。どうしてこんなに一生懸命なのか自分でもわからない。
 ただひとつわかっているのは、ドナン・ドゥイック家とアイリーン、アイリーンとオルランド、オルランドとマルコ、エース、皆それぞれつながっていて、片方が苦しめば、もう片方は幸せになれないということ。
 そして呆れたように笑うマルコと、人懐っこいエースの顔を私は忘れることができないということだった。

 死人のように沈黙をつづけるドナン・ドゥイック卿。私の喉から漏れるのは、声ではなく、もはやか細い嗚咽だった。

「大旦那様、お願いします。あなただけが頼りなんです。どうか」
イチル様、もう十分です。もうこれ以上は」

 執事の制止を振りきって、私は老いた手に額を寄せた。

「お願いします。どうか、どうか皆を助けてください」
「“新月の子”は、暖炉の中に」

 枯れ木のような手が動いた。はっとして顔を上げると、盲いた目がこちらを見ていた。ドナン・ドゥイック卿は震える手を持ち上げて、人さし指をのばした。
 指差す先にあったのは古い暖炉だった。

「追われては、いけない。背を見せては、いけない」

 しわがれた声が唄う。ベッドのそばから立ち上がった私は、壁の一点を見つめた。そこにあったのはあの“病の獣ナックラヴィー”の絵である。

 絵の方向に身体を向けたまま、ベッドから離れた。“病の獣ナックラヴィー”に背中を向けないように、暖炉に向かって一歩一歩下がる。

 追われてはいけない。
 いけない。

 暖炉の周りに立てられた背の低い鉄柵を越えても足を止めずに下がりつづけて、とうとう暖炉のレンガに後頭部が触れるところまで来た。
 前を向いたまま片手で背後のレンガを探る。感じ取ったわずかな出っぱりに指をひっかけると、何かが冷たいものが手のひらに落ちてきた。

「鍵?」

 その途端、暖炉から石のこすれるような重苦しい音が聞こえた。呆気にとられて見つめる私たちの前に現れたのは、ぽっかりと口を開けた地下への階段だった。

「お気をつけて」

 階段に足をかけた私に執事が深々と頭を下げた。話しあった結果、彼はドナン・ドゥイック卿のそばに残ることになった。

「私のことはご心配なさらず。長年ドナン・ドゥイックに仕えてきました。ダンヴェガンがドナン・ドゥイックの支配を目論むのであれば、まずは私を手中に収めたいはず。おそらく危険な目には遭いません」
「でも、もしダンヴェガンに私たちのことを訊かれたら、どうか隠さずに答えてください」

 彼はほほえんだ。

「ありがとうございます、イチル様。この抜け道がどこに繋がっているのかは私にもわかりません。ですが、それがこの島の地上のどこかに繋がっているのであれば、彼女がかならず道案内をします」

 メイドが黙って頷いた。パニエを外し、すでに身軽な格好になっていた彼女だが、やはりヴェールだけは外さない。ちらりと見えた口元は決意も固く引き結ばれていた。

 執事に別れを告げ、私たちはランプの光だけを頼りに闇の中に降りていった。
 どうやらまっすぐな階段ではないらしく、頭上に見えていた部屋の明かりもじきに遮られたように視界から外れた。

 体感で四、五階分ほどの高さを降りた頃、私たちはようやく平坦な場所に足をついた。高さ、幅ともに三メートルほどの通路がおそらくはずっと奥までつづいている。

 土とカビの入り混じったような陰気な臭いが鼻をつき、怯みそうになった私だったが、ここまできたらもうままよ、とランプをかざして大股で歩きはじめた。
 自分たちのほかは何の気配も感じられない。暗闇をひたすら歩いていると、時間と距離の感覚が溶けてなくなっていくようだった。

 どれくらい進んだ頃だろうか、すぐ後ろから囁くような声が聞こえた。

「あんたはおかしな子だね」

 突然かけられた声に比喩でなく飛びあがった。腰を抜かしそうになりながら振りむいたものの、後ろにいるのはヴェールのメイドただひとり。

「メ、メイドさん?」
「すこし待ってて」

 と、そう言って彼女はヴェールをすこしずらした。 下からのぞいたのは私と同じ歳くらいの、普通の女性の顔だった。頑なに沈黙を守っていた人物の唐突な行動に、私は口をパクパクさせた。

「え、えっと、その」
「化物でも出てくると思った?」
「そういうわけじゃないんですけど、ちょっとびっくりしました」
「ここまでくればもう大丈夫かと思って。これまで不便をかけて悪かったね。あたしたちはこの島ではあまり自由がきかないから」

 闇が深く、細かな造作はわからない。しかし彼女の顔に隠さなければならないような、おかしなところはないように思えた。
 ランプの光に照らされて、彼女の濃色の瞳がつやりと光る。

「あんたはさ、おかしな子だよ本当に。あんな荒っぽい男たちと連れだっているのに、恐ろしがるでもなく、かといって、勇猛果敢なわけでもない。震えてびくびくしながらも、後ろにだけはひかない。そんな感じ」

 奥ゆかしいイメージはヴェールからくるものだったのだろうか、メイドは意外にもはすっぱな口をきいた。
 褒められているのか貶されているのか良くわからず、苦笑した。こちらの世界に来てからよくいただく評価である。

「大切なものがあったのに、それを捨ててこんなところにまで。誰かのために生きようとする人間はもちろん他にもたくさんいるけどね。正しく、歪められることなく、大切に育てられた人たちのなかにはとくに。でもそういう良識ある人たちは、そもそも危険な場所には近づかないもんなんだ。アンタがここにいるのがとても不思議」
「後先を考えていないだけです。ものすごく衝動的な人間なんだって、最近やっと気づきました」
「そうなの。でもまあ、悪いことではないのかもね」

 メイドの目がちょっとだけ笑った。

「不思議な旅人さん、あんたの名前は?」
イチルといいます」
「そう、私の知りあいにはいない名前だわ。あんたの故郷には多い名前?」
「ううーん、どうだろう」

 答えに困って笑っておく。

「メイドさん、あなたは?」
「私はエマ」
「エマ?」
「そう、エマ。ここらじゃよくある名前」

 こちらが素なのか、メイドは親しみやすい大きな声で笑った。その鼻先を風が一筋通りすぎていく。ヴェールがひらりと揺れて、エマがまつげを瞬かせた。

「もうすぐ出口みたいだね。先を急ぐよ」

 歩調をはやめて進んでいくと、じきにハシゴが見えてきた。ふたりして袖をまくって登っていく。天上についた取っ手を押しあげると、強い光が目を刺した。

 身体を引っぱりあげてしばらく経ち、見えてきた周囲の様子に私たちは顔を見合わせた。

「ここって、塔?」

 目の前にそびえたっていたのはあの巨大な塔だった。根元には昨日泊まった屋敷が見える。
 もしかして、とポケットを探った。出てきたのはさっきドナン・ドゥイック卿の寝室で見つけた鍵である。

「これってまさかこの塔の鍵なんじゃ――
「ふたりとも、お逃げなさい!」

 悲鳴と聞きまがう叫び声が聞こえた。アイリーンの声だ。そう思ったか思わないか、背中に強い衝撃を感じた。身体をしたたかに打ちつけて、私は思わずうめいた。

「そんなに大きな声を出して。はしたないよ、アイリーン。君はドナン・ドゥイックの娘だろう」

 滑らかな声が降ってきた。どこかで聞いた声に身体を無理矢理にねじって顔を上げた。男が数人、私を押さえつけている。そのなかでもひときわ逆光を強く受けた男が、顔の前にしゃがみこんだ。

「やあ、久しぶり」

 きっちりとオールバックに撫でつけた美男を見て、私はぽかんと口をあけた。

「うそ、何でこんなところに……」
「ご機嫌はいかがかな。勇敢なお嬢さん」

 からかうような、だが嫌味のない言い方で返したのは、港町で攫われる直前、私を案内してくれた男だった。
 見惚れるようなプラチナブロンド、役者のように整った顔。何度見ても、たしかにあの男だった。

「あの、ここってドナン・ドゥイック島、ですよね?」
「貴女はいつも迷っているようだ。そう、ここはドナン・ドゥイック島で間違いないよ」

 そう言って彼はふふふ、と品よく笑った。

「どうしてこんなところに、ね。どうしてだと思う?」
「どうして?そんなこと私には」
「返事しちゃいけない!そいつがダンヴェガンだよ!」

 叫んだのはエマだった。身体をよじる彼女を男たちがますます強く取り押さえる。だが、私は目の前の男を呆然と見上げるだけで精一杯だった。
 この男がダンヴェガン?

「雄弁は銀、沈黙は金。こちらのお嬢さんだけ離しておあげ」

 エマをちらりと見たあと、ダンヴェガンは手下の男たちに命じて、私への拘束を解かせた。手足が自由になったので、その場でずるずると這い起きる。
 想像とはあまりにも違う姿に、顔についた泥もそのままに地面にへたり込んだ。

「どういう、こと?」
「おやおや、そんなところに座っていてはいけないな。“新月の子”にはまるでふさわしくない」

 ダンヴェガンが身体を曲げ、騎士のように手を差し出してきた。ふとほほえんだその顔があまりにも優美で、思わずその手を取ろうとした―― が、次の瞬間に私は地面にもんどり打って倒れこんでいた。目の前には革靴。上から笑い声が降ってきた。

「そうそう。君たちのような女はそうやって地面に這いつくばっているのがいい」

 紳士然とした言葉遣いと、言った内容がかけ離れすぎていて、何を言われているのかすぐには理解できなかった。ダンヴェガンは笑いながら今度はエマの方に行き、つま先でその頭を小突いた。

「”新月の子”、呪われた女どもよ」

 汚いものでも触るかのようにエマのヴェールに手をかけ、引き剥がした。
 中から現れたのは黒目黒髪の女だった。

「ああ、なんて醜い」


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