65 Children in Lunatic / 神の愛し子(Ⅳ)
『おい、聞いてるか?』
「あ、“赤髪”だと……?」
酸素を求める金魚のように口をパクパクさせていたダンヴェガンだったが、気付け薬代わりに空気の塊をひとつふたつ飲みこむことで、ひとまずは自分を取りもどしたようだった。
「ハ、ハハハ!どこの誰だか知らないが、冗談もここまで来るといっそ悪辣だ。“赤髪”?あの“赤髪”が、こんなところにいるはずがないだろう!」
乱れた前髪を掻きあげ、ひきつりながらも笑ってみせた彼は、「そうか!」と舞台役者のような大げさな身振りで手を打った。
「ハハン、わかったぞ。君たちはこいつらが撹乱のために送りこんだ別働隊というわけか。ふうん、なかなか知恵がまわるじゃないか。で、いくら欲しいんだい?このみすぼらしいキャプテン・イチルのいいなりになるよりも、僕の下で働いた方がずっと―― 」
『ブッ』
電話の向こうで盛大に吹きだす気配がした。ダンヴェガンの表情がピシリとひび割れる。
場が静まりかえった。
そして、ギャハハハ、と割れんばかりの大笑いが響きわたった。
『キャプ、ブッ……キャプテン・イチル!? ブッ、アハハハハ、だめだ我慢できねェ!』
話者の動きを真似せざるをえない、悲しき生物電伝虫は、涙を流し身悶えして笑い転げていた。手があったら地面や壁にバンバン拳を叩きつけていただろう、いっそ見ているのが可哀想なくらいの大爆笑っぷりである。
『死ぬ、死ぬって!やめてくれ、笑い死ぬ!アハハハ、そもそもイチル海賊団ってなんだそれ、ギャハ、げほ、ぐえッ、ツボに……おえッ、苦しッ』
電伝虫が咽せて、いったん通話が途切れた。何ともいえない空気が場に満ちる。
シャンクスの声に代わって複数人の騒がしい会話が聞こえてきた。
『おい。お頭息してねェぞ』
『ギャハハハハ!笑い死にたァ、笑えねェなお頭』
『笑ってねェで水もってきてやれ』
『お前こそ笑いこらえてねェで行けよ!』
電話の向こうでクルーたちがヒイヒイ言っている。忙しく走りまわる音やとコップの鳴る音が聞こえたあと、しばらくして『ふいい』と気の抜けた声が電話口に復活した。
『死ぬかと思った』
「一人で死にかけてんじゃねェよ!」
白ひげ三人組の怒号、もといツッコミが重なった。
『すまねェな。俺はツボに入ると高確率で呼吸困難になる』
「テメエはジジイかァ!」
彼らはまたもや示し合わせたようなタイミングで、三人そろってツッコミ用の手刀をビシっと掲げた。白ひげ海賊団のメンツはよく訓練されているようだ。
『そう怒るなって。それにしても、こんなところで奇遇だなァ。うちに入らねェか、マルコ』
「息するように勧誘してんじゃねェ! 入らねェっつってんだろうがァ!」
目を三角にして怪鳥のような怒声をあげたマルコだったが、周囲の視線に気づいたのか「えへん」とわざとらしく咳払いした。
「―― じゃなくて、だ。名前を呼ぶんじゃねェよ、赤髪。ここがカイドウの縄張りだってことくれェわかってんだろうよい」
『正しくは、カイドウの縄張り“だった”』
「なんだと?」
耳を疑う言葉に、マルコが怪訝な声をあげた。
『いやァ、つい先日このへんで落とし物をしちまったんだが、人の庭じゃなかなか探しにくくってな。ちょっとした宝だの何だのと交換で、このあたりの海域をまるごといただいたんだ。あちらさんも、ド田舎もド田舎だってんで快く譲ってくれたよ。持つべきものはやっぱり友達だな』
あっはっは、と能天気に笑う電伝虫を遮ったのはダンヴェガンの叫び声だった。
「ふざけるな!そ、そんなはずがあるか! この電伝虫は僕の屋敷に繋がっているんだぞ!」
『おう、繋がってるぞ。お前結構いい家に住んでんだな。ちょっと古いけど。ああ、心配はすんな。中にいたお前の子分はまだ一応生きてる。ほら、そこのお前。何か喋れ』
『ひいいい!ごめんなさい、ごめんなさい!僕はダンヴェガンさん……いや、ダンヴェガンの命令で仕方なく―― 』
ドタン、と派手な音がして、悲鳴は途切れた。自分から気絶したのかさせられたのか、しかしダンヴェガンにはそうは捉えられなかったらしい。部下の全滅を知った彼は見る間に顔色をなくし、呆然と立ちつくした。
『てェなわけで、今日からここは俺の庭だ。うちは余所様とは違って基本的に放任主義なんだが、今回はちょっと特別でな。そこで待ってろ、すぐにそっちへ行く』
ブツリと電話が切れたのと、ダンヴェガンがへたりこんだのは同時だった。
「嘘だ、嘘だ。“赤髪”だって?そんなの聞いてない」
嘘だ嘘だ、と壊れた機械のように、同じ内容を繰りかえしつぶやいている。
「ぜんぶ僕のものになるはずだったのに。ぜんぶ僕だけのものだったのに」
「ダンヴェガン」
アイリーンの声も、今や彼には届かなかった。ダンヴェガンは幼い子どものように膝を抱え、爪を噛んだ。
「父上ぇ、父上ぇ、ごめんなさい」
「おい」
マルコが近づいていく。ダンヴェガンはびくりと肩を震わせ、すがるような目で見上げた。
「し、叱らないで。ぼ、僕なにも悪いことしてないよ!き、ききき、君だって思うでしょう。み、見てよ、このお月様みたいな金色の髪を!それから、ほら、宝石みたいな青い目!」
自分の髪を両手でつかみ、皆から見えるように空にかざす。
「ぼくは綺麗なんだ!だ、誰よりも綺麗でなくちゃぁ……!醜い醜い “病の獣”はずっと昔に捨てられたんだ! そうでしょ? なのにどうして? 」
「わからねェのか」
「え?」
髪を振り乱し、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったダンヴェガンは、あどけない子供のようにきょとんと首をかしげた。
マルコは無関心に言い捨てた。
「鏡をのぞいてみろ。そうしたらすぐにでも会えるだろうよ、哀れで醜い“病の獣”に」
ざわめいていた森から、ただひとつを除いて音が消えた。
一歩、一歩と重い足音が近づいてくる。まだ姿を見せぬその者に対して、森のすべてが畏れをなして頭を垂れているようだった。
塔の陰に身を隠しながら、わずかに視線を落とした。そわそわとする私の緊張をこれから現れる男への恐怖ととらえたのだろうか、マルコが腕をつかんで言った。
「いいか。何があってもここから出てくるんじゃねェぞ」
「何か危ないことでも起こるんですか」
船が港についたと聞いてから気配を尖らせていたマルコだったが、肩透かしを食らったように脱力した。
「あのなァ、今から来るのが誰だかさすがに知らねェとは言わせねェぞ。少々のことならアンタの勝手にすりゃァいいが、今回だけはその身の程知らずにしっかり蓋をしておけ。あの野郎はそこいらのチンピラとは訳が違う。好奇心で近寄って、とばっちり食っても知らねェぞ」
「“赤髪”の覇気はシャレにならねェからな」
オルランドが難しそうな顔でつづける。さすがのエースも今回は茶化そうとしなかつた。
「イチルよ。今回はマルコの言うとおりにしとけ。手配書の写真と実物じゃ天と地の差がある。まァ、アンタくらいのお嬢さんになると手配書すらろくに見たことねェのかもしんねェが」
「たしかに手配書は見たことないかな」
そういえばシャンクスは賞金首だったな、と実物を思い出しつつ頷いたところ、三人それぞれから呆れたような視線をいただいた。
「とにかく後ろに隠れときゃ問題は起こらねェよ。屋敷に戻れ。奴はカタギにゃまるで興味がねェ」
その時、ピク、とマルコの瞼が動いた。一瞬にして場の雰囲気が変貌する。瞬く間に空気が張りつめ、ひりついた気配に満たされた。
砂で擦ったように、肌がピリピリと痛む。彼らが警戒する人物はまだ影も見せていないのに、こうして離れたところからでも感じとることができるほど、強い存在感を放っていた。
「これ見よがしに威圧しやがって」
マルコがつぶやく。彼の発する空気もまた、これまで感じたことがないほど鋭く研ぎ澄まされていた。ルイスハリスの村で私を詰問していた時のそれとは、まるで違う。手加減されていたのだと、今更ながらに気づいた。
エマに手を引かれて、塔の隣の屋敷に戻った。外が気になる私のために、彼女は小窓のカーテンにほんの小さな隙間をあけてくれた。
壁に掛けられた大時計の秒針にいつもの機敏な生真面目さはなく、水の中を動くようにとろりとろりと文字盤を辿っていた。時間にして三分ほど、だが、焦れて待つ私たちには何十分も何時間も過ぎたような感じがした。
ト、と足音が止まった。現れた影は四つ。
森の屋敷を背にマルコが進みでた。
「“赤髪”」
言葉ひとつ、だがその裏では空気の軋むようなプレッシャーが飛びかっていた。弓の弦を伸ばして伸ばして、引き千切れる寸前までかたく張ったときのような、苦しささえ感じる緊張状態である。
誰もがかたずを飲んで見守るなか、先に破顔したのはシャンクスだった。
「マルコ、元気そうだな」
自船のクルーに呼びかけるような気安さだった。唐突に切られた弦を受けて、マルコもまたにやりと笑った。
「見ての通りピンピンしてらァ」
「そりゃ何よりだ。エース、お前は?」
「おかげさんで」
エースのほうもひょいと頭を下げる。
「と、そこのもうひとりも同業みてェだが」
「オルランドだ」
「オルランド!前に一度会ったことがあるな。ずいぶん変わっちまっててわからなかった。すまねェ」
さっきまで殺気立っていたのが嘘のように、彼らは親しげに笑いあった。
「白ひげは元気か?」
「たりめェだ。テメエのほうは、今日はずいぶんと数が少ねェようだが」
マルコはシャンクスの後ろにちらりと視線をやった。いるのは、ベックマンをはじめとする三人の幹部だけだった。
「船で待たせてある。やり合いに来たわけじゃねェからな」
「ほう?」
「俺は、落し物を拾いに来たんだ」
何も変わらないその声に、頭の真ん中がぼんやりと痺れたようになっていた。ああ、もうずいぶん聞いてなかったんだ。
私はいつのまにかイスから立ちあがっていた。
「ちょっと!どこへ行く気?だめだって。ここで隠れてなきゃ」
小声で悲鳴をあげ、エマが大慌てで私の袖を引っ張った。その手をそっと押しもどし、私はドアの前へ行った。
「ダメ、行っちゃダメ!」
「ごめん」
ドアノブに手をかけて、扉を押しあけた。マルコとエースが驚いた顔でこちらを見てくる。戻れ、とエースが顎で屋敷をしゃくったが、すでに遅かった。
「あれは?」
シャンクスはいかにも不思議そうな様子で問うた。その視線をさえぎるようにマルコが間に割って入った。
「今回のゴタゴタで巻きこんじまった女だ。見てのとおりカタギだよい。なんでも攫われてきたとかなんとか」
「ほう」
関心をそらそうとするマルコの苦心も実らず、シャンクスは興をそそられたような返事をした。マルコの眉間の皺が増える。
「手当たり次第に覇気を垂れ流すな。びびっちまってるだろうが」
「びびってる?まさか」
面白がるようなシャンクスに、マルコが吐き捨てた。
「テメエのその、何を考えてるかわからんところは嫌いだよい」
「俺の考えてることなんて、たかが知れてるさ」
彼らのそんな会話を、私は屋敷の戸口に立ち、放心したように聞いていた。
私の異変に気づいたエースがこちらを見て、「大丈夫か」と口の形を作って見せた。
「全然、大丈夫じゃない」
視界の端に心配そうなエースの顔があった。辛うじて絞りだした声が、どこまで届いたのかは知りようがない。だが夢にまで見たあの琥珀色の瞳がこちらに向いたのは、たしかにこの瞬間だった。
シャンクスの瞳から伸びた視線は、最短距離を通って、私のところへ辿りつき、私だけを絡めとった。
マルコが取りなすように割ってはいった。
「赤髪、テメエの興に入るようなことは何もねェ。あいつは少々世間知らずの箱入りでな」
「そうだったら良かったんだけどな。残念ながら大人しく箱に入っていてはくれない」
シャンクスの言葉にマルコは怪訝な顔をした。
「そりゃァどういう」
「俺たちでさえまだ出たことのないもっと大きな箱からも、勢いあまって飛びだしてきちまったんだから」
独り言のように言う。そして私を見て、ふっと笑った。
「来いよ、イチル」
人が見ているのも忘れて走りだした。小学校の短距離走よりも短い距離を瞬きの間に越え、思いきり地面を蹴る。シャンクス、という声はもはや音にもならなかった。
彼は片腕だけでとても上手に私を受けとめた。後ろで誰かが息を飲んだが、そのときにはもう私は彼の腕の中にいて、そのシャツの胸に頬をすりあてていた。
「ごめん」
「心配した」
「ごめんね。勝手に迷子になって」
「悪かったな、遅くなって」
「……ちょっとだけ、待った」
「よしよし」
背中を撫でられて、いろいろなものがこみ上げてきた。しかし私は唇を噛んで、決壊しそうになる堤防をかたくなに守った。恥もなく泣きじゃくっていただろう以前の私とは、何かが少し違っていた。
逞しい腕に抱かれ、海の匂いに包まれていると、心の深いところがくすぐられる。それが何なのか、私にはまだよくわからない。ただ、彼の前で子供に戻るのはやめるのだ、という思いだけがいっとう強く胸のうちにあった。
「どうやってこの場所を?」
「イチルはそればっかりだな」
ルウ、と肩越しに呼ぶと、丸太のような腕が見覚えのある袋を差しだしてきた。
「あっ、これ私の」
「あの坊っちゃんの屋敷にあった」
かつて私の腹巻を勤めていた、ガシャガシャいうビニール袋。その中に、私は『日誌』を見つけた。
「捨てられてなかったんだ……!」
「貴族を名乗ってるだけあって、知らないながらもどこか価値を感じとってたんだろうな」
そこでシャンクスはもう一度袋に手を突っこみ、今度は何か小さいものを取りだした。それはダンヴェガンが持っていたものとよく似た、小さな貝殻だった。
「グレンシールに行く前、見せただろ。持たせたのはいいが、結局説明できずじまいだった。こいつがお前の場所を知らせてくれたんだ。電伝虫の貝殻、って言ってもわからないか。そもそも電伝虫っていうのはだな」
「喋るかたつむりで、遠くの人で電話ができるんだよね。で、一部の種の貝殻には盗聴、えへん、発信器みたいな機能があると」
シャンクスが驚いたように眉を持ちあげた。
「へェ、感心感心。ちょっとは物知りになったみたいだな」
「そりゃァ、今回の騒動でいろいろと―― じゃねェ!おいおいおいおい。どうなってんだよい」
呆気にとられていたマルコがようやく話に追いついてきた。
「どうなってるもこうなってるも、見てのとおりだが」
「こんなときにまでふざけてんじゃねェ」
「そんなことねェよ。なァ、イチル」
飄々とした態度で、同意を求めるように頷いて見せてくる。マルコは意外にも真剣な顔をしていた。
「ずいぶんと考えなしだな、赤髪。わかってんのか」
「もちろん」
「こいつが“そうじゃない”ことは見てりゃわかる。連れまわしてもつまらねェことにしかならねェぞ」
「博愛主義者に転向か?天下の"白ひげ"一番隊隊長にしちゃァ、気弱な台詞だ」
シャンクスは嬲るように笑った。
「テメエ」
空気がふたたび殺気立った。シャンクスは黙ったまま笑みを貼りつけている。
しばらくして、マルコは折れたように言った。
「ハァ、ただの女を無理矢理にたァ。悪さもほどほどにしろよい」
「まさか。これこそまさに、だろ?まァ、名もなき海賊団の見習いにゃ関係ない話か」
シャンクスはウィットの利いた笑いを浮かべた、今度はマルコもにやりと笑う。
「ああ、俺はどこぞの名のない海賊団の、下っ端も下っ端、入ったばかりの見習いだよい。そいつが“運悪く攫われた哀れな女”なのと同じで。“赤髪”のクルーが増えたとなりゃァうるさい輩も出てくるだろうが、悪名高き海賊がたかだか小娘ひとり攫ったところで、な。わざわざ誰かに言うような話でもねェや」
「悪ィな。借りができちまった」
「『困ったときはお互い様』だよい」
わかるようなわからないような話の顛末だった。だがこの短い間に、何か高度に政治的な取引がなされたのは理解できた。
事が穏便に片づいてほっとしたのか、ふたりは私を見下ろし表情を緩めた。
「さて、もうすぐ日が暮れる。続きは明日だ」
シャンクスが後ろに向きなおって片手を上げると、いつから潜んでいたのか、見知った顔のクルーが数人、木陰から現れた。眉間に皺を寄せながらも、小走りに近づいてくるウォーカーたち。
「よく頑張ったな、イチル」
シャンクスは目を細めたあと、とんとんと労うように私の背をたたいた。