chapter6 FEAR IS LIKE FIRE

66 ドナン・ドゥイックの遺産


 “新月の子”事件から二週間が経った。
 あれ以来、“赤髪海賊団”はずっとドナン・ドゥイック島に逗留している。理由はふたつだ。

 まずは病に侵されたドナン・ドゥイック卿がウィックの治療を受けることになったためだ。
 海賊がそういった手助けをおこなうのはおかしいような気もするが、ベックマンいわく、ここはもう赤髪の自領であり、地域を束ねる領主に問題があるならば、なわばり安定のために介入もする、ということだった。

 ドナン・ドゥイック卿はダンヴェガンによって長期的に毒を飲まされつづけたせいで、そうとう弱っていたらしい。幸い、使われた毒はそれほど強いものではなく、ウィックの治療がはじまってからは日に日に快方に向かっている。
 今では見舞いにきたオルランドに「この海賊め!娘とのことはまだ認めたわけではないからな!まだ!」となどとまくしたてる元気もあり、オルランド本人はもちろんメイドや執事からも苦笑を買っている。

 塔に囚われていた(正確には、保護されていた)アイリーンは、私がドナン・ドゥイック卿から借りうけた例の鍵で晴れて自由の身となった。
 彼女が塔から出てきたときの衝撃を、私は永遠に忘れない。

『うそ』

 石と鉄でできた分厚い扉が開き、中から現れたのは、それはそれは美しいお姫様だった。長い幽閉生活のせいで、身体は痩せほそり、肌の色も病的なほどに青白くなっていたが、その黒鳥の濡れ羽のような目と髪といったら、エースがおもわず口笛を吹くほどだった。

 エマと執事に支えられて塔から出てきたアイリーンは、オルランドを見て力ない、それでいてとても幸福そうな笑みを浮かべた。

『オルランド』

 彼は一度だけまぶたをぎゅっと閉じ、彼女の薄くなった肩を抱いた。

「前途多難だけど応援したくなっちゃう組みあわせだよね、あのふたり」
「アンタもなかなかだけどね、イチル

 横に座っていたエマが、紅茶のカップに口をつけながら、そんなことを言った。

「何度も言ってるけど、そういうのじゃないから」
「ふうん」

 切りそろえたつややかな黒髪をゆらし、エマは意味ありげに視線を他所へやった。
 つり気味の大きな目は夜空のようにきらきらと輝き、見るものにその利発さを印象づける。ダンヴェガンの目は節穴だった、と思っているのはきっと私だけではないはず。

「まああんたまで仲間入りされちゃあ、ちょっとつまらないし」

 そう言って、彼女は庭園の向こう正面を見やった。
 花咲き乱れる生け垣のそばで、ベンチにならぶ男女の影。このふたりこそ何を隠そう、エレイナとレイモンドのカップルだった。グレンシールの町でひと悶着あった、あのタキシード男レイモンドとその恋人エレイナである。

 “新月の子”としてグレンシールの街で誘拐されたエレイナは、エマと同じくヴェールのメイドとして塔の横の屋敷に隠れ住んでいたのだ。

 『夜の女神も嫉妬する髪』『黒真珠のような瞳』と美容CM顔負けの賛辞がとぎれとぎれに聞こえてくる。真剣に言っているのであろうレイモンド本人には悪いが、身体は正直なもので、私は鳥肌のたつ腕をごしごしなでた。

 一方、小悪魔どころかおっとり穏やかを地でいく女性エレイナは歯の浮くような熱烈な求愛にあたたかくあいづちをうっていた。ある意味、今この島にいる人間でいちばんの大物は彼女かもしれない。

「びっくりしちゃうわよ。ドナン・ドゥイックまでの船がないからって、自分でイカダを作ってエレイナを追いかけてきたんでしょ? あのおそろしい“病の獣ナックラヴィー”の噂が、全部あの男レイモンドの仕業だったなんて、誰に言ったって信じないわよ」

 エレイナが誘拐されたのは結婚前夜らしい。そりゃあ追いかけたくもなるだろう。
 これぞ愛の勝利、と昔から一度言ってみたかった言葉で、私はここぞとばかりに合いの手を入れた。

 レイモンドをこの島まで連れてきたのは、じつはなんとシャンクスだった。
 私の荷物から出る電伝虫の反応を追ってダンヴェガンの館に行く途中、ボロ雑巾のようになって海に浮かんでいるのを拾ったらしい。そうなるまでに、レイモンドは手当たり次第に近隣の島を渡り、半狂乱になりながらエレイナをさがしていたという。

 野宿はもちろんのこと、飢えをしのぐために手斧をたずさえ野生のイノシシやなんやらを捕まえていたというから、その執念たるやまさしく現代によみがえりし“病の獣ナックラヴィー”である。笑い話をとおりこして、もはやホラーに近いものを感じる。

「もうアイツにハンカチは返したの?」
「うん、レイモンドが意識を取りもどしたその日にね。『君は女神だね。エレイナの次に』って弱々しいウインクつきで言われちゃったよ」
「ここいらの男はそういうキザったらしいのが好きなんだよ。イチルみたいな外海の人には違和感あるんだろうね、きっと」

 エマはすこし恥ずかしそうに目を伏せた。

「アイリーンが好きになったのは、もしかしたらアイツのそういうところかもしんないね。言葉の多さと気持ちの大きさはかならずしも一致するわけじゃないからさ」

 オルランドは今でも口がうまくない。そもそも海賊というものは言葉で相手を弄するような種族ではなく、彼はその中でもひときわ無口で朴訥とした類であろうと思われた。
 ダンヴェガンのような二枚舌、三枚舌の男につけ狙われたアイリーンにとっては、唯一心安らぐ相手だったのかもしれない。

「エマはこれからどうするつもり?」
「いろいろ考えたんだけど、あのふたりと同じようにアタシもこの島に残るよ。大旦那様のお病気ももうすこし時間がかかりそうだし、人手はいくらあってもいいからね。それに、今アイリーンをひとりにするのは嫌だよ」

 エレイナのたっての願いで、エレイナとレイモンドはこの島に残り、ふたりでドナン・ドゥイック家を支えていくことに決めていた。

 攫われたあと、失敗して売られそうになっていたところを、オルランドの機転によって助けられたエレイナ。
 ヴェールをかぶり、塔のメイドとして身を隠して働きはじめた彼女は、格子ごしにアイリーンの彼女の衣食を世話するうちにすっかり情がうつってしまったのだという。おそらくエマも同じ理由だろう。

 エマがルイスハリスに帰るか、ここに留まるかで最後まで迷っていたことは知っていた。アンジェリーナが言っていたとおり、彼女は情にあつい女性なのだ。

「エマ、あのね」

 私の頭にあったのは、まさにそのアンジェリーナのことだった。彼女はきっと今も、親友エマの帰りを待ちわびている。
 だが、エマはつづきを読んだように首を振った。

「心配しないでよ、イチル。ずっと住みつくわけじゃない。それにアンジェリーナにはときどき電話するつもりだし」
「そうだね、電話して―― ん?電話?」
「そう、電話。どうかした?」
「ひとつ聞きたいことがあるんだけど、ルイスハリス島ってまさか、で、電話が」
「あるよ。一家に一台電伝虫。当然じゃない、あんなに辺鄙な島なんだもの。手紙じゃ時間がかかって仕方ないよ」
「だ、だよね。あは、あはは」

 力のない笑いが開いた口からこぼれていった。
 私の苦労は一体なんだったんだ。電話の通らないクソ田舎だと舐めてかかって最初から「郵便は使えますか?」なんて訊いたりしたから、天罰がくだったんだろうか。

「なんだかよくわからないけど元気出しなよ、“四皇”のお気に入り」
「お気に入りっていうか、ただのお荷物だよ。いや、もはや荷物ですらないね。荷札だ、荷札」
「海賊王の女になったら、ぜひ私にもおこぼれをちょうだいな」

 言いたいことを言うだけ言って、エマは颯爽と仕事に戻っていった。

「オンナ、チガウ」
「お前、本当は男だったのか?」

 突然後ろから話しかけられて飛びあがった。

「いやいや、女です。エースさん」
「安心したぜイチル。元気にしてるか」

 座っていいかと訊いてきたので、向かいの席を指さした。
 よろこびいさんでどっかり腰を下ろしたかと思うと、次の瞬間にはテーブルに残っていたローストチキンが消えていた。口いっぱいに頬ばって、まだ飲みこんでもいないのに次から次へと口に運ぶ。彼は礼儀正しいが、行儀が良いとは口が裂けても言えない。
 口のまわりを油やらケチャップやらでデコレーションしながら、エースはむぐむぐと聞きとりにくい声で言った。

「マルコが帰っちまってから、ヒマでしょうがねえよ」
「そうですね」

 マルコはこの件が解決すると、これ以上船を空けるのは良くないと言って、その翌朝に発っていった。なにしろ船も使わずにたったひとりで海を渡れる人物である。今頃は無事の元にたどり着いているだろう。

 テーブルの残りものをすっかり片づけてしまったエースは、満足したように言った。

「俺も明日出発する。オルランドと一緒にな」
「そっか」

 ちらりと屋敷の二階を見上げる。窓際には話しこむオルランドとアイリーンの姿が見えた。

「ひと筋縄にはいかないってことくらい、あいつらもわかってんだろ」

 色恋沙汰には興味の薄そうな彼だったが、意外にも核心をついたひと言だった。興味のあるなしと、経験のあるなしはまた別ということだろうか。

イチルが気にするこたァねえ。それより自分の心配してろ」
「だから、何の心配でしょうか」
「まあ何だっていいけどな。で、もうすこししたらアレ、見にいくそうだぜ」

 エースは背伸びして、霧の向こうにぼんやりと見える巨大な塔を指さした。

◇◇◇

 夕刻にはまだ届かない午後のひととき、塔の前に集まったのはエースとオルランドとアイリーン。それから私。シャンクスとベックマンは後ろのほうで木にもたれて立っていた。

「やっと見られるんだな。ドナン・ドゥイックの宝」

 ドナン・ドゥイックの遺産。財宝。塔の中に眠っているというそれを、アイリーンがいよいよ私たちに見せると言ってきたのだ。

『いいんですか?オルランドさんはともかく、エースさんもシャンクスも海賊ですけど』
『ええ。そうであっても、貴女たちにはぜひ見ていただきたいのです』

 アイリーンは私の目を見てはっきりとそう言ったのだった。

イチル、アンタは何だと思う?」
「宝石とか金塊とかかなあ。ありきたりなものしか思いうかばないよ」
「こういうのを想像するときがいちばん楽しいよな。これぞまさしく、って感じで」

 エースが好奇心を隠さず言った。事件の渦中にいたときは宝なんだといえる雰囲気ではなかっただけで、彼もやはり海賊、ドナン・ドゥイックの財宝に関心がないはずはない。
 シャンクスがいまだにこの島に逗留しているふたつ目の理由もおそらくはこれだろう。

「さてみなさん、行きましょう」

 懐から鍵を出し、アイリーンは塔の壁にある鍵穴に挿した。ただの壁だったところに途切れ目が浮かびあがる。どんな仕組みになっているのか、アイリーンが片手を当てると、壁面が折りたたまれるようにして入り口が現れた。

「どうなってんだ……」

 エースの疑問に答えられるものはいない。
 アイリーンの揺れる黒髪に導かれるようにして、私たちは塔の中へ進みいった。

「ころばないように気をつけてください」

 アイリーンがゆく手にランプをかざす。塔の中は真っ暗かとおもいきや、内壁がぼんやりと発光しており、目が慣れれば私でもなんとかひとりで歩くことができた。それでもつまづきそうになる私を、隣にいるエースが、そしてときには後ろにいるシャンクスが支えてくれる。

 石造りの塔に入って私たちが真っ先に目にしたのは、上へ上へとどこまでもつづく大きな螺旋階段だった。アイリーンが囚われていた小部屋はその根元におまけのようにこぢんまりとついていた。

「ドナン・ドゥイックの宝はこの上にあります」

 アイリーンにつづき、皆で階段をのぼりはじめた。塔の内壁に沿ってまわりながらすこしずつ上がっていく。

 古く苔むしていた外壁とは違い、塔の内壁は造られたばかりのように傷一つない。幾百年、いや幾千年の時を経て、いまだ朽ちることのない塔。
 いったい誰が何のためにこんなものを造ったのだろうか。

 しばらくして、アイリーンの足が止まった。

「ここです」

 よく見れば、壁に扉らしきものがある。どうやらこの奥に人の入れる空間があるようだった。
 だが、外から見たときの高さから想像するに、ここはまだ全長の一割にも満たない地点のように思われた。

 エースが皆の心中を代弁する。

「ここ?宝ってのはだいたい、いちばん上にあるもんじゃないか」
「ここより上に行くことは禁じられています。ドナン・ドゥイックに伝わる古くからの戒めによって」
「もったいねェ。前人未到の場所を目の前に、指をくわえてるってわけか」
「登った者がまったくいないわけではありません。禁を犯しさらに上を目指した者がただひとり。それこそが“病の獣”ナックラヴィー伝説にあるドナン・ドゥイック兄弟の兄、つまりダンヴェガンの先祖です」

 戒めを犯した者がどのような報いを受けるのか、“病の獣”ナックラヴィーの伝説はその教訓を語る。
 ただの伝説だと笑いとばすには、彼女の言葉は重すぎた。

「といっても、その人物でさえ、塔の頂上を目にしたわけではないようですが。彼が我が子を投げすてたのは、ここからすこし上がっただけの場所だそうです。人の心をなくした化け物も、神へのおそれを完全に捨て去ることはできなかったのでしょう」

 訊いてはいけないことだったのかもしれない。だが訊かなければならないような気がした。

「この塔を建てたのは誰なんですか」

 アイリーンは螺旋階段の吹きぬけから、はるか上を見上げた。
 人の目には頂上どころか階段のつづきすらうつらない。濃い闇がわだかまったそこは、行ってはいけないどこか別の世界への入口のようにも見えた。

「塔を造り、戒めを与えたもうたその存在を、私たちはただ“古き海の御主ぬし”とだけ呼んでいます」

◇◇◇

 石造りの扉が重々しく開く。目の前に広がった光景におもわず声が漏れた。
 そこは図書館とも見まがうような巨大な書庫だった。ベックマンが目に留まった背表紙を読みあげる。

「『アルダナ病の研究と治療』『北方鱗系植物群の薬用抽出』、おそろしく貴重な書物ばかりだな。北方医薬学の稀覯書庫として、これだけの蔵書量は世界でも類を見ない」
「ええ」

 書庫にアイリーンの鈴の音が響いた。

「この書庫にあるすべての書物がドナン・ドゥイックの宝です」

 そう言って、彼女はドナン・ドゥイックにまつわる真実を話しはじめた。

「はるか昔、ドナン・ドゥイックが兄の家と弟の家のふたつに別れたのと時を同じくして、この島の周辺に流行病が発生しました。ほとんどの者には症状が出ず、病というには無害なものだったのですが、とある特別な身体的特徴を持つ者―― つまり、黒目黒髪の人間に対してだけは著しい病変を引きおこしたのです。目がつぶれ、皮膚がただれ、あまりの痛みと苦しみに海に身を投げてしまう、そんなおそろしい症状をともなって。すでにお気づきだとは思いますが、このあたりの島々の住民は皆、遺伝的に金髪青眼です。ですが、どういうわけかごくまれに黒目黒髪の子どもが産まれることがあるんです」
「その子どもが“新月の子”ですか?」

 そのとおりです、と彼女は瞳を伏せた。

「黒目黒髪の子だけが醜い姿に変わる、その異状は強い差別を引きおこしました。 黒い目と髪は神から疎まれている。彼らはドナン・ドゥイックの赤子同様、神の怒りを受けた呪われた者たちであると。まだ医学が未発達だった当時、 その原因が病だとは誰も信じなかったのです。 化物のような姿に変わってしまう可能性のある、黒目黒髪の子、つまり“新月の子”への迫害がどれほど激しいものだったか、それは数百年を経て今もなお住民の間に根強く残る偏見を鑑みれば、皆さんにも容易に想像がつくでしょう。村人たちはおぞましい姿に変わった“新月の子”を、こぞって各々の島から追いだしました」

 目を伏せて、言葉を選ぶように語っていたアイリーンが顔を上げた。

「 しかし中には、それが呪いではなく病であると見抜いた人間もいたのです。追われた者たちを匿い、なんとか治療を施せないかと試みたその人物こそが、かのドナン・ドゥイックの弟だったと言います。病に冒された者たちのため、この島に残って研究をつづけた彼は、人をまるで人でないような姿に変えてしまうその病を、“病の獣ナックラヴィー”と名づけました。それ以来、この島に残ったドナン・ドゥイックは、病の流行する年には“新月の子”を呼びあつめ、この塔の中で共に暮らし、治療を施してきたのです」

 アイリーンが囚われていた厳重なつくりの小部屋は、“新月の子”を病と迫害から守るための場所だった。決して牢獄などではなかったのだ。

「今、その病気は?」
「百年ほど前に根絶されました。しかしそれと同時にドナン・ドゥイックは完全に力を失いました。ドナン・ドゥイックの莫大な財も、長年の“病の獣”の研究ですっかり底をついてしまいましたから。今のドナン・ドゥイックに遺されたものはこれだけなのです」

 アイリーンは書庫の中央で両手をひろげ、すこしさみしげに、しかしとても満足気にほほえんだ。

「財宝はなくなってしまったけれど、私は人のために生きようとした歴代のドナン・ドゥイックを誇りに思っています。だから決してこの家を絶やしたくなかったの。ありがとう、皆さん。本当にありがとう」

◇◇◇

 翌日、エースたちとともに、私たちも出発することになった。
 ドナン・ドゥイック卿の容態もあとは日にちと根気だそうで、ドナン・ドゥイックの財宝の真実が明かされた今となっては赤髪海賊団がここに居残る理由は何もなかった。

 海賊たちの船出を見おくるため、アイリーンをはじめ、エレイナやエマ、屋敷の執事などドナン・ドゥイックの使用人たちも港に勢ぞろいしていた。

「本当にありがとうございました。ドナン・ドゥイックはこのご恩を永遠に忘れません」

 海賊たちに向け、アイリーンが深々と頭を下げた。また向きなおって、私の手を取った。

「貴方がいてくれなかったら、きっと何もはじまらなかった。本当にありがとう」

 そして、最後にオルランドの前に立った。彼はすでに貴族の装束を脱ぎ、本来あるべき姿に戻っていた。
 船出を目前にした荒々しい海の男。その精悍な顔を見あげて言った。

「オルランド、やっぱり貴方にはそっちのほうが似合っているわ。長い間、きゅうくつな陸に閉じこめてしまってごめんなさい」
「アイリーン」

 多くは語らないオルランドを前に、彼女はほほえんだ。

「貴方の居場所はこの広い海。でもここだってその海の一部だから。待っています。長い旅の途中、貴方が足を休めに来るその一時を。いつだって、ずっと」

 ふたりのあいだにそれ以上、言葉はいらなかった。オルランドは一度だけアイリーンの手を握ったあと、そっと離した。
 アイリーンの別れが終わると、今度はエースが私の前に来た。

イチル。さよならだな」
「うん、今までありがとう。エースさん」
「ありがとう、か。ちょっとは堅苦しくなくなったか?」

 そう言って彼は上機嫌に笑った。

「短い間だったがなかなか楽しかった。機会があればまた、と言いたいところだが、もう会うことはないかもしれねえな。何しろ“イチル海賊団”には“赤髪”がついてる」

 彼はシャンクスを見て意味深な苦笑を浮かべた。そうしてまた真面目な顔に戻って言う。

「マルコからの言づてだ。今回アンタが果たした役割はかぎりなく大きなものだった。礼を言う。“赤髪”とは別に、アンタには大きな借りができた。親父の意思は俺たちの意思、俺たちの意思は親父の意思だ。“白ひげ”は相手が誰であろうとかならず義理を通す。そういうことだから」

 エースが手を差しだしてくる。日に焼けた右手と握手して、私は彼らと別れのあいさつを終えた。
 白ひげのふたりを乗せた小型船は、白波を立てて出航し、あっというまに霧の向こうに消えた。

「俺たちも行くか」

 上着の裾をひるがえし、シャンクスは仲間たちの待つレッド・フォース号に乗りこんだ。今度こそ置いていかれないように後を追いかけ、一緒に飛びのる。
 すでに準備を万端にととのえ、主の帰りを待ちわびていた船はすぐにゆっくりと岸を離れた。

 手を振るアイリーンたちは次第に遠く小さくなり、視界は白い海霧の中に閉ざされた。
 甲板を覆う濃霧の中に立ち、私は耳を澄ませていた。クルーたちのさざめきにまぎれていたものの、私はたしかに“それ”を聞いた。

「ねえ、シャンクス。おばけっていると思う?」

 すぐ隣に立っていたシャンクスは、すこし考えてから答えた。

「どうだろうなあ。でも俺が知らないだけで、本当はいるのかもな」

 理性や科学だけで判断できるものなどたかが知れている。この世界には―― いや、どの世界にも、私たちの知りえない何かがいまだ無数に存在する。

「シャンクスは怖がらないんだね」
「わからないからこそ、楽しい。そうだろ?」

 くったくなく笑うシャンクス。その顔を見つつ、私も笑った。

「うん、そうだね」

 風に乗り、今はもう誰もいないはずの森から聞こえてくる声。

 おーい。おーい。

 信じる、信じない、信じられる、信じられない―― すべての事象に対して、正体を求めようとすることにいったい何の意味があるだろう。それがそこにこれまでも存在してきたという事実と、おそらくはこれからも存在しつづけるだろうという予感、私たちにわかることといえば、それくらいのものだ。

 どんなに物知りな学者も、権力のある為政者も今この瞬間に世界に起こっているすべての事柄を把握することはできない。
 あらゆるものがつながり、関係しあうこの世界において、本当のことなんて、本当は誰にもわからないんじゃないだろうか。

「さて、飯にするか」

 おーい。おーい。

 はるか島から聞こえてくる遠くさびしげな呼び声に背を向けて、シャンクスの手を取った。

 目の前の事実をあるがままに受けとめ、楽しむこと。
 人生と世界の味わい方を知る海賊は、傷だらけの手で私の手を握りかえした。


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