「紙をとれ」
言われるまま手元の白紙を一枚渡すと、ベックマンはそれを表紙の上にのせた。写し絵の要領で鉛筆をねかせてこすりつける。すると黒く塗りつぶされた紙上にぼうっと何かが浮かんできた。
文字の羅列。いや、人の名前だ。
ひとり分のアルファベットが出そろって、ベックマンが手を止めても、私はそれから目を離すことができなかった。
―― その名前を、私はたしかに知っていたから。
67 Anagram(Ⅰ)
ドナン・ドゥイックの一件から数日、レッド・フォースはすでに大洋に出て、船足も軽く航海を再開していた。
期間にして二週間近く船を離れていたことになるのだが、私を取りまく環境―― とくにクルーたちとの関係は二週間前とすこしも変わらなかった。
“白ひげ”の彼らはさておき、赤髪海賊団からすれば今回の騒動は私の誘拐に端を発するもの、ようするに、彼らが航行予定の変更を余儀なくされたのは不注意な私がまんまとさらわれてしまったせい、ということになる。
シャンクスだけでなくクルー全体にも迷惑をかけてしまったことについて、正直私は胃に穴があくほど心苦しく思っていた。
が、そこはさすが天下の赤髪海賊団。私の心配は帰船後すぐに打ちくだかれた。そう、完膚なきまでにコナゴナに打ちくだかれた。
『心配』という言葉に対して『解決』や『解消』という単語を呼応させないのは、もちろんそんなソフトな語感が似つかわしくないオチだったからである。
なんと私の失踪に気づいていたクルーは幹部をのぞけばなんと全体の三分の一にも満たなかったという!
その三分の一ですらも『そういえばイチルの姿が見えねえなあ。腹でもくだして寝てるのかね』という程度の認識だったそうである。ドナン・ドゥイックに進路転換したときも「お頭たちがまた何かおもしれェことを企んでるぜ!とりあえず後につづけェ!」というノリで、真の目的が周知されたのはすべてが終わったあとだったというから苦笑いである。
たかだか女ひとり、この泰然たる赤髪海賊団にとってはお荷物にもならないらしい。飛ぼうが跳ねようが暴れようがレッド・フォース号は揺れもしない。ほっとしたような、ちょっと悲しいような。
「ベックマンさん、イチルです」
ドアをノックして部屋の主に呼びかける。外海に出てそろそろ手が空いてきた副船長と、これから一対一の面談である。
入れ、との返事をもらい、私はドアノブに手をかけた。
「―― というのが今回のあらましです。ドナン・ドゥイック島でもお話しした内容なので、もうぜんぶご存知だとは思いますけど、一応」
「いや、あらためて聞けてよかった。悪かったな、わざわざ呼びだして」
「いいえ、じつは私もお話ししたいことがあって」
ベックマンのほうをうかがうと、彼は返事のかわりに煙草に火をつけた。時計を気にする様子はない。私は姿勢を正し、口を開いた。
「ドナン・ドゥイック島で目にした、とあるものについてです」
「あの塔のことか?」
「塔も塔で気にはなるんですが、今回は違います。ドナン・ドゥイック邸から逃げるとき、屋敷の中で小さな書庫を見つけたんです。塔の中のあの巨大な稀覯書庫とは違って一般的な本ばかりを置いてあるいわゆる普通の図書室だったんですけど、そこには、とある本がありました」
「とある本、ねェ」
ベックマンは何も言わず本棚に手をのばし、とある一冊を抜きとった。
「これだろう」
机に置かれたのは色褪せた表紙の『古き海の冒険』だった。
「そうです!これがあの図書室に」
「互いによく知るこの本の、いったい何があんたの気をひいた?」
彼はすべてわかっているような顔で、とんとんと『古き海の冒険』の表紙をたたいた。元は黒かったのであろうハードカバーは赤茶けて、今となってはタイトルも何も読みとれない。
「以前、ベックマンさんはおっしゃいましたよね。『古き海の冒険』の著者こそがハラントゥーガに最初に到達した人物なんだって 」
「『人生をかけてさまざまな場所を冒険した彼は、その内容を脚色し、組みなおし、心を駆りたてる一編の物語として編みあげた』か?」
「ええ」
彼はかつて自身が言った台詞そっくりそのまま繰りかえした。
『古き海の冒険』の著者と、ハラントゥーガへの第一到達者は同一人物である。話を聞いた当時、私はその事実の重大性を正確に理解していなかった。
だが、今は違う。
デスクの上の空間で、視線が交差する。
ベックマンはしばらくして「紙を取れ」と言った。言われるまま手元の白紙を一枚渡すと、ベックマンはそれを『古き海の冒険』の表紙の上に乗せた。
デッサン中の画家がするように、鉛筆を寝かせて、紙の表面を黒くこすっていく。すると表紙の凹凸がそのまま紙上に写しとられ、消えて読めなくなっていた著者名が真ん中に浮かびあがった。
今となっては、肉親のごとく慣れ親しんだ名前だった。
「ルイス・デ・コーヴラン」
「そのとおり。この男こそがハラントゥーガの第一発見者であり、同時にこの本を著した人物でもある」
ドナン・ドゥイック邸の図書室で見た『古き海の冒険』は状態が良く、表紙の文字がそのまま残っていた。
私はコーヴランと『古き海の冒険』との関係を、あの島にてようやく知ったのだった。
「正直、目を疑いました。『日誌』以外でコーヴランの名前を目にする日がくるなんて思いもしませんでしたから」
「『日誌』と同じく、コーヴランの名前も秘されるべきものにちがいないと?」
「はい。実名で小説を書いていたとは夢にも」
ベックマンはふっと笑った。
「一般的にいえば、むしろ逆なんだがな。文豪としてのコーヴランを知る者は無数にいるが、冒険家としての奴を知る者はほとんどいない。世の人間は、古典として世界中に出まわっている『古き海の冒険』が事実にもとづくものだとは夢にも思っちゃいねェのさ」
「冒険家にしてはやたら文章がうまいと思ってたんですけど、そっちが本職だったんですね」
「そういうことだ」
軽く応じたあと、彼はひたと私を見すえた。
「だからこそ『日誌』は特別だ。まともな人間ならその存在すら知ることがない」
なんと答えていいかわからずに黙っていると、彼は足を組みかえて厳しい口調でつづけた。
「どういう経緯で手に入れたか知らねェが、あんたみたいな普通の女がどうひっくり返っても関わりあいにならねェはずのモンだ。それは。持っているだけで身を滅ぼす」
「そうかもしれません」
彼の黒い瞳を見つめているうち、今こそそのときだという思いが湧いてきた。今聞かなければ、きっと後悔する。
「ベックマンさん、おたずねしたいことがあります。貴方は海軍が“禁書”と呼ぶ『日誌』の存在を知っていた。だったら」
唾をのみこんで、私はかたくなに封じてきた言葉をとうとう口にした。
「“ナルヴァ”をご存知ですか」
時の止まった室内で、煙草の煙だけが白く細く揺らめいている。
長い沈黙のあと、ベックマンはぼんやりと宙の煙を眺めながら独り言のように言った。
「今なら」
ベックマンは息とともにまた一筋煙を吐きだした。
「聞かなかったことにしてやってもいい」
煙草を味わうのに意識を向けて、いや、意識を向けるフリをして、彼は視線をゆったりと遠くへやった。
だが私は彼が期待するほど賢明な人間ではなかった。
首を横に振ってから、半ば睨みつけるようにして彼の視線をとらえた。
「あなたしかいないんです」
「どうして?」
「シャンクスは絶対におしえてくれない」
「なるほど、本人はよくわかっているわけだ」
皮肉っぽく口角を上げ、ベックマンは煙草を灰皿へ押しつけた。くしゃりと最後のくすぶりが立ちのぼったが、それもじきにかき消えた。
「じゃあ、こちらからもいくつかたずねておこう」
底の見えない黒い瞳にのぞきこまれ、私は咄嗟に身がまえた。
「あんた、故郷に男はいるか」
いきおい余ってイスから滑りおちた。
「おっ、男!?それっていわゆる恋人的な意味の」
「ほかに何がある?」
「い、いませんよ!大きな声で言うようなことじゃないですけど」
急になんてこと訊くんですか、と口元をゆるめてみたが、ベックマンの顔を見てすぐに笑いを引っこめた。
彼はすこしも笑っていなかった。
「親兄弟はいるか」
「兄弟はいません。両親も幼いころに」
「じゃあ、あんたが死んで困る奴はいないわけだ」
ベックマンの声はきわめて平静だった。おふざけで言っているのではない。胸の奥に締めつけられるような息苦しさを感じたが、黙ってつづきを待った。
「いつかあんたの進退を決める際、お頭は俺にこう言った。『あいつの好きにさせる』とな。あたたかな寝床、飢えないだけの食事、表の世界には流れない情報。そして何より目的地までの安全。この船にいれば、あんたは本来手に入れられないはずのものを、労せずして手に入れられる。お頭がそう決めたなら、俺はそれでいい。手を貸せと言われたならば、協力もする。だが、あんた自身はそれがどういうことかわかっているのか?」
純粋な問いかけにも、問いかけの形をした警告にも思えた。しかし彼の本意がそのどちらでもないことを、私は知っていた。
「食い物、金、名誉、愛。すべてのものには対価が必要だ」
―― 対価を支払わずに手に入れる。さあて、何が言いたいかわかりますか?
いつか聞いた煙草屋の声がよみがった。いつのまにか手に冷たい汗をかいている。
話を聞けば、私は今にもまして“ナルヴァ”を追いもとめるようになる。
それは確信だった。元の世界に帰りたいという思い、謎に対する好奇心。それらを抑えることができるのならば、今頃きっとこんなところにはいなかっただろうから。
「人生のおもしろいのは、払える見込みがほとんどない奴にでもツケが許されることだ。何も持たない者であっても挑戦でき、すこしの間であればまるで成功しているかのように見えることさえある。だが、払いきれずに借りいれた分はあとからかならず取りたてられるようになっている。身の丈に合わない買い物をした者は多くの場合、破滅する。返済に追われ、食うにも困り、最後には身を売る。それでも足りなけりゃ、何もかも搾りとられたうえで人生から退場するしかない」
危険な船旅に命を賭ける覚悟があるのか。もはやそんな、なまやさしい話を喩えているのではなかった。
拠点に向かう途中にたまたまハラントゥーガがある、だからついでに乗せていってやってもいい。
今ですら、そんなギリギリの理屈を用いている。私を“一味”ではなくあくまで“客人”、あるいは対外的には“攫われてきたあわれな小娘”にしておくために。ドナン・ドゥイックでマルコとシャンクスが取引したのも、つまりはそういう内容だったのだろう。
「“ナルヴァ”はそれほどのものなんですか」
「それを本当に追うと決めたなら、あんたは少なくとも無責任な立場では居られなくなるだろうな」
私ひとりで禁忌である“ナルヴァ”の謎を追うことは、絶対に不可能だ。“ナルヴァ”を追いたいなら、今の曖昧な立場を捨てて、“赤髪”の手を借りることになる。
そのとき、彼らの敵が今度こそ本当に私の敵になるのだ。
政府、対立する海賊、それから市井の者たちさえも。船から一歩外に出れば、あらゆる者が私を憎み、蔑み、命を狙う。怨嗟の声を盃にとり、甘美な酒のように飲みくだせる強者だけが選べる道だった。
「イチル。この船の運賃は高くつくぞ」
ベックマンの低い声は響くことなくぷつりと途切れた。
「前に、お世話になった人からも似たようなことを言われました」
気がつくと口が勝手に動いていた。
ドルテン先生は帰るのをあきらめて島に残れと言い、バギーは“偉大なる航路”を出ろと言い、青キジは荷を下ろして楽になれと言った。
言葉は違えど、同じことだ。私は身の丈に合わない願いを叶えるため、身の丈に合わない世界に踏みこんだ。振りかかる火の粉を払いのけるどころか、自力では先に進むことすらできない。帆も櫂もないちっぽけな筏船が大海に浮かんでいるようなものだ。
彼らは口をそろえて言う。お前の生きる世界ではないと。
その意味するところは、生きがたく死にやすい弱者への温情と憐れみだ。たとえば、巣から落ちた鳥の雛を元の巣へ放りあげてやるような。
「私は」
だがそれ以上は思っていることをうまく言葉にできなくて、黙りこんだ。そんな私を見て、ベックマンがふと緊張をゆるめた。
「なんてな」
「え?」
私はおもわず顔を上げた。
「なに、ちょっと脅してみただけだ。“ナルヴァ”について知りたいんだったら、そういうことも頭に入れておけと言っておこうと思ってな」
「えっと、それは」
「今すぐに何かを決めさせるつもりはない。ハラントゥーガは行き道の途中というのは嘘じゃない。引きかえせなくなるギリギリのラインまで行ってみて、それから先のことを考えりゃいいさ」
ベックマンは今までの深刻さが嘘のようにそんなことを言った。
私は目をぱちぱちさせた。
「さんざんビビらせておいてなんだが、人間はその気になればいつだって、あともどりできるもんだ。余程とんでもない踏みはずし方をしないかぎりな。ギリギリのところに行くとしても、落ちないようにつかんでおく保護者がいれば問題ねェ。小娘ひとり、断崖絶壁をのぞくツアーに招待できねェほど、俺らは汲々としちゃいねェよ」
“ナルヴァ”の名を出す以上、厳しい答えが返ってくるのは覚悟していた。だからそのうえでなんとか情報を教えてもらえまいか、甘い対応を引きだせはしまいかと。
だが、これはいくらなんでも甘やかされすぎではないだろうか。
「海賊から厚遇されて気持ち悪ィか?」
「い、いや、そういうわけじゃないんですけど」
「この船に乗ってからあんたが今まで抱きつづけてきたであろう疑問には、ぜひ答えておこう。『俺たちがあんたにそこまでする理由は?』―― 答えはたったひとつ。お頭があんたを気に入っているからだ」
「シャンクスが……」
「そうやって臆することなく名を呼ぶ小生意気さも、ことあるごとに問題を起こす厄介さも、猫のじゃれつきみてェに愛でてるのさ。あいつは。お頭が憎からず思ってるんだ。俺たちが同じように思うようになったとしても何ら不思議じゃあねェだろう?」