「俺が知っているのは人づてに聞いた話だけだ。それでもいいか?」

 頷くと、ベックマンは心を読んだように苦笑した。

「よってたかって俺のことを“赤髪”の頭脳だなんだと持ちあげるが、知らねェことのほうがよほど多い。ひとりの人間がすべてを把握できるほど、世界はせまくも小さくもねェんだ。まだ解きあかされていない謎や不思議が数えきれないほどひそんでいる」

 だからこそおもしれェ、と唇を歪める彼は、取りつかれたように海と危険を欲し、焦がれる者の顔をしていた。

「ベックマンさんも、やっぱりそうなんですね」
「でなきゃあ、あの男のそばにはいられねェよ」

 彼はクックッと愉快そうに笑った。



chapter6 FEAR IS LIKE FIRE

68 Anagram(Ⅱ)


「古代文明ナルヴァド。唯一神ナルヴァを信仰する民族が築いた古の王国だ。海に閉ざされた孤島ということ以外、その所在や詳細はいまだ明らかになっていない。非常に高度な文明で、現代の科学でも再現できない数々の技術を有していたらしい。外界と隔絶されたその国は、平和に満ちた地上の楽園だったという」

 地上の楽園。その言葉はどこか空虚な響きを帯びて、書斎の天井に消えていった。

「だがあるとき、ナルヴァドは滅びた。なぜ滅びたかは伝わっていない……俺が知っているのはこれだけだ」

 言葉をきって、ベックマンは私を見た。
 長い間求めつづけてきた真実を前にして、私は目を伏せた。

「ありがとうございます」
「にしては、不服そうな顔だな。禁忌というほどたいした内容には思えない、ってところか」

 本音を言いあてられて、どきりとした。

「気持ちはわかるが、今の話ですらそうとうに踏みこんだ内容だぜ。ナルヴァドをめぐる一連の事柄は、何者かによって強固に秘されている。俺だってこういう立場じゃなけりゃ、小耳にはさむこともなかったろうよ 」

 わかっている。もし私がひとりで“ナルヴァ”の秘密を追っていたなら、一生かけても今の内容すら知ることができなかったにちがいない。
 だが、そうであることを理解したうえでも、私は今しがた聞いた“ナルヴァ”の正体に満足できなかった。

 何か、足りない。
 ベックマンはまだ何か隠している。

 禁書の『日誌』と、知られてはいけない“ナルヴァ”という単語。

『コーヴランが君の針路を照らしだすだろう』

 アンタナ・リボナを旅立つときの、ドルテン先生の言葉がよみがった。
 白い宝石箱を追って、“ナルヴァ”を知り、“ナルヴァ”に迫る手立てとしてドルテン先生から『コーヴランの日誌』を得た。さらに『日誌』からハラントゥーガ、ハラントゥーガから『古き海の冒険』へと順ぐりに手がかりをたぐり寄せてきた。

 今のベックマンの話から、コーヴランとハラントゥーガの関係はわかったが、コーヴランと“ナルヴァ”の関連性は見えてこない。このふたつはどこでつながっている?

「ずいぶん悩んでいるな。ヒントが欲しいか」

 考えていることが伝わったはずもないのに、ベックマンは誘うように指先をこまねいた。見えない糸に引かれて、首を縦に振る。

「一説によるとコーヴランは数々の古書を読みあさるうち、ナルヴァドの存在を知り、たいそう興味を持ったらしい。旅に出る前、知人に『ナルヴァドをさがしにいく』と言いのこした、という話すらある。つまりコーヴランが海に出た目的は単なる冒険でも、物語の題材さがしでもなかったわけだ」

 難しい話じゃない、と彼はつづける。

「ナルヴァドをさがして海に出たはずのコーヴランが、最終的にたどりついたのはハラントゥーガだった。だがコーヴランはなぜかその存在を公にはせず、巧妙に著作物の中にまぎれこませた」

 言わんとしていることがようやくわかってきた。
 偶然たどりついただけのどうでもいい島の所在に、凝った細工を仕込む必要はない。コーヴランがハラントゥーガの存在を隠したのは、それに値するものだったからだ。

 たとえば、ハラントゥーガが単なる中継地ではなく、コーヴランの目的地だったと考えれば。

「ハラントゥーガは、ナルヴァドが存在した島なんですね」
「少なくとも、それに準ずるものだというのが俺の見立てだ」

 それだけ聞ければ十分だった。ハラントゥーガには私の求める何かがある。行けばかならず、真相に近づける。

◇◇◇

 甲板に出ると、首元にすずしい風が吹きよせてきた。
 秋島の海域を出てしばらくたつが、気候にまだ大きな変化はない。おぼろに広がるランプの下、カーディガンの裾がやわらかく揺れた。

 日はずいぶん前に落ちている。空を見あげれど今宵は新月、天蓋に月は昇らない。

 船内からはやんやと賑やかな話し声が聞こえてきていた。海賊たちの夕食はいつも騒がしい。風にのって流れてくる笑い声に耳をかたむけながら、私はぼんやりと海のおもてを眺めた。

 キイ、と背後で扉の開く音がして、甲板に細長く光が伸びた。手すりに手を置いたまま振りむいた。

「こんばんは、良い夜ですね」

 ちょっと気取ってそう言うと、シャンクスは返事のかわりにランプをかかげ、己の顔を照らした。例のごとくのいたずらっぽい笑みが闇に浮かぶ。

「やっと見つけた」
「見つかっちゃった。そんなにわかりやすい?」
「コツがあるんだ」
「シャンクスは私よりも、私がどこにいるかよく知ってるみたいだ」

 彼は隣に立ち、私と同じようにランプを手すりに置いた。光がふたつふわりと広がり、ほんのすこし周囲の夜を薄めた。

「ようやく外海に出られたな。これでもうしばらくはゆっくりできる」

 ふたりだけで話すのはグレンシールへの上陸前以来だった。ドナン・ドゥイック島では何かといそがしく、なかなか時間がとれなかった。私は顔を上げ、彼の瞳を見つめた。

「迷惑かけてごめん」

 簡単に頭を下げるな。この世界でひとりの人間として自立していくためにはとても大切なこと。だがそうであってももちろん、自分が悪かったときには素直にあやまらなければならない。

「いいさ、誰も気にしちゃいない。これくらいの寄り道は今まで何十回もしてきたし、むしろこういうことがあるから、おもしろいんだ」

 彼はまどろっこしい建前を好まない。許しでもなぐさめでもない言葉に、私は頬をゆるめた。

「ありがとう。さすが器が大きいね」
「ただ楽しんでいるだけで褒められるたァな。これだからやめられねェ」
「海賊って人たちは、何でも楽しめるんだなあ」
「そう、俺がロジャー船長から教わったなかでも、いちばん大切なことだ。チップの数は一枚きり。だがそのたった一枚を、俺たちはたかだか一歩の前進のために喜びいさんでベットする。とんでもなく酔狂な賭場だろう?金や名誉程度じゃァ、まるでつりあわない」

 ニシシと子供っぽく歯を見せたあと、シャンクスはふと笑みを収めた。

「だが立場を変えれば、またすこしちがう。手紙の先で出会ったたったひとりを目の前にすれば」

 彼の手が私の手首をつかみ、引きよせた。頭をなでられるかと思ったが、シャンクスは結局そうしなかった。私の手のひらを包みこむようにして軽く握る。

「出来の悪い笑い話だ」

 彼は自嘲するように言った。

「おそろしいと思ったんだ、ほかの誰でもないこの俺が」

 口元を皮肉っぽく歪め、瞳にはほんのすこし困惑の色を浮かべて、シャンクスは独白した。この広い海の上、おそれるものなど何ひとつなく、手に入らないものなど何ひとつないはずの男が。

「笑ってくれ、イチル

 私は彼の手を両手で握りかえし、そのままそっと引っぱった。厚く大きな手が力なく私の眼前に引きよせられてくる。
 琥珀色の、ただいまはすっかり鋭さをなくし、こころもとなそうに揺れる瞳を見つめたあと、その手にこつんと額を当てて、まぶたを閉じた。そしてささやいた。

「心配かけてごめんね、シャンクス」

 しばらくして、ふうと困ったようなため息が落ちてきた。

「仕方がないな、イチルは。無謀なことはするなとあれだけ言っておいたのに」
「ごめん」
「俺の手は、人が思っているほど大きくない。俺自身がいちばんよくわかっている。言っただろ、チップは一枚きりだ。他人の命ですら、まるでつりあわない」
「本当にごめんね。でも反抗してるわけじゃないんだよ」
「知ってる」

 私の額に触れていた手がすっと頬に下りた。

「痛いか」
「もう、大丈夫」

 すでにかさぶたになった、小さな切り傷の痕を傷だらけの指がなでていた。痛みはなかった。

イチルは言うことをきかないな、本当に」

 力ない、諦めたような、しかしどこか陶然としたほほえみを浮かべ、彼は言った。

「だがたとえ何をしでかそうが、俺はお前を縛れない」


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