70 Sleep at the seabed
「イチル、何かおもしろい話」
シャンクスはそう言うと、寝そべった姿勢のまま身体をずり下げた。キングサイズのソファでさえその長身をすべて受けとめることは難しいらしく、足を曲げてようやく、という感じである。
枕元に人ひとりがやっと座れるくらいの小さな空間を作った彼はぽんぽんとその場所をたたき、私を急かした。
「イチル」
「はいはい、わかりました」
読みかけの本をテーブルに置き、要求にしたがう。ソファの上には横たわった大男、座れそうな場所は彼の示すとおりひとつしかない。私は彼の枕元に行き、頭と肘置きとの間の、その小さな隙間に腰を下ろした。
「従順だな」
満足気に喉を鳴らしたあと、彼はまるで当然の権利だとでもいうように、頭をずり上げ、私の太ももに頭をのせた。赤い髪が足の上に広がり、潮風に傷んだ毛先がちくちくと肌を刺激する。
窓の外は雪。冬島の海域に入っているため、人肌が恋しくなるのもわかるのだが。
「重い」
「詰まってるからな」
「何が?」
「夢と希望」
私は指を曲げ、関節の部分でコンコンと額をノックしてやった。された本人は意にも介さず笑っている。
「これぞまさしく脳筋だね」
「夢と希望に満ちあふれた筋肉と言ってくれ」
「あ、あつくるしい」
「わかった、もうそれでいい。その脳筋が刺激を欲してる。イチル、はやく。退屈だ」
「いきなりそんなこと言われてもなあ」
シャンクスは新奇なもの、めずらしいものを好む。世界の海を知りつくしたこの海賊を満足させるのはなかなか難しい。
広い船長室を見まわしていると、壁に貼られた小さな絵がふと目にとまった。
それはどこか見知らぬ森を描いた風景画だった。
鬱蒼と覆いかぶさる木々と、昼間だというのに薄暗い道。葉をすり抜けて差しこんだわずかな光が、土をホロホロと照らしている。
じっと見つめているうちに、いつの間にやら森の中に入りこんでしまった気さえする、不思議な雰囲気をもった絵だった。
「昔話に出てきそうな感じの森だね。眠り姫とか」
“Sleeping Beauty?”
と、興をそそられたような声が聞きかえしてきた。
「私の世界の、有名な童話。こっちに似たような話はないのかな」
「聞かせてくれ」
私はえへんと咳ばらいをひとつして、物語をはじめた。
「むかしむかし、ある国にそれはそれはかわいいお姫様が生まれました。王様とお后様は大喜びでお姫様の誕生パーティーをひらきます。ふたりはたくさんの妖精たちを招待することにしましたが、森にすむひとりの妖精にだけ招待状を送るのを忘れてしまいました。招待されなかった彼女はとても怒り、お姫様に呪いをかけてしまいます。“大人になった姫は錘に指を刺して死ぬ”と」
子ども相手に紙芝居をするように、おそろしげな声で悪い魔女を演じてみせる。が、彼はソファの上で肩をすくめただけだった。
「指を刺されただけで死ぬのか。ひ弱だな」
「そのネタはもういいから!深窓の姫君にタフさを求めないように」
まったく、と気を取りなおして先をつづける。
「王様は大事なお姫様を守るため、国中の糸車を燃やしてしまいました。皆に守られて何不自由なく美しく育ったお姫様は、十五歳になった日、ふと今まで入ったことのない塔の扉が開いているのに気づきます。カタンカラカラ、カタンカラカラ。かすかな音に誘われて、塔のてっぺんにのぼっていくと、ひとりの老婆が糸を紡いでおりました。『お婆さん、それは何?』『おや、糸車を知らないとは』『はじめて見るもの』 カタンカラカラ。老婆は不思議な音を立て、糸車を回します。『触ってみるかい?』 お姫様は迷いましたが、好奇心に負け、差しだされた錘に指をのばしてしまいました。その途端、チクッ。鋭い錘がその指先を刺したのです。床に倒れたお姫様。唇は色を失い、息も止まってしまいました。あわれに思った妖精たちは、城の時間を止め、死を眠りに変えました。お姫様の眠る城はいつしか茨に覆われて、大きな森になりました。茨の森は暗く深く、人びとは誰も近づきません。ところが、百年経ったある日のことです。眠り姫のうわさを聞きつけた王子様がやってきて、それで―― 」
「それで?」
「王子様は眠り姫がとても美しかったので、ついキスをしてしまいました。その結果、眠りから覚めたお姫様は王子様と結婚し、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
「へェ」
シャンクスは感心したように言った。
「話がうまい。前に冒険譚を聞いたときにも思ったが」
「そりゃ一応学校の先生だったからね。って、そっちですか。肝心の話の内容は?」
「聞いてたさ、もちろん。心配ならイチから全部復唱してやろうか?」
彼は自分の頭を指先でつついた。一度聞いたら忘れない、とっておきのオツムである。
「いいよ、性能はよく知ってる。私が言いたかったのはね、年老いず、眠りつづける美女ってなんだかロマンティックだよね、ってこと。王子が心奪われちゃうのも当然だ。そう思わない?」
しかしシャンクスは軽く笑っただけで肯定はしなかった。
「おや。お気に召しませんでしたか、カイザー」
「話自体は悪くない。ただ、どこにでもいそうな女だと思ってな」
この男ははたして本当に人の話を聞いていたのだろうか、と私は半目になって彼の顔を見おろした。
「一国のお姫様で、王子に見そめられるほどの美貌の持ち主で、なおかつ百年も眠りつづける特殊属性を持った女がどこにでも?いやいやいや、ご冗談をおっしゃいますな。これだから、目の肥えた中年は」
「本当にそう思うか?」
琥珀の瞳が私をとらえた。ゆったりと細められた切れ長のそれには、齢を経た猫が人をからかうような、どこか愉快げな色があった。
「美貌も立場も、死ぬも生きるも自分で勝ちとったものじゃない。流れに任せるまま生きるなら、姫君だろうが誰だろうが有象無象と変わらない」
軽い口調にもかかわらず、身震いするほど鋭利な言葉だった。
王は娘を守るために、国中の糸車を焼いてしまったはずなのだ。でも彼女は錘を見つけてしまった。定められたとおりに。
それとしらず死に向かってのばした指先は、はたして誰が決めたものだったのか。錘に惹かれたその好奇心すら、運命にしたがうための小道具にすぎないとしたら。
―― 人はただ決められたレールの上を走っているだけじゃないのか。自分の意志で運命からのがれることなんて、誰にも。
そんな考えが湧いたとき、シャンクスの手が私の首にのびた。うなじをつかむようにして、軽く引きよせてくる。
「それとな、俺はまだ中年じゃねェ」
「三十半ばって十分おっさんじゃ―― 」
言いかけた私の首をシャンクスは今度はがっつりホールドした。胸板に顔が押しつけられる。膝枕をしたままの無理な姿勢のせいで、背骨が悲鳴を上げた。
「ぐっほ、ちょっと待って、しぬしぬしぬ! 腰の可動域超えてる!」
「ほら、訂正は?」
「すみませんでした、お兄さん、お兄さん!」
執拗なハラスメントからやっとのことで 抜けだしたあと、やれやれとひと息ついた。無理な体勢をつづけたせいで 、まだ首と腰が痛い。
「あーあ、もうちょっとで首がもげるところだった」
「もいでも一ベリーの得にもならねェ首だけどな」
「万が一、得になるとしても極力もがないであげてください」
部屋の真ん中に立ち、今となっては一ベリーの懸賞金もかかっていない軽い首を、前へ後ろへとストレッチした。誰にも追われない生活というのは本当にありがたいものだ。
「さて、わがままシャンクスのお願い事も叶えたことだし、私はそろそろ読書に戻って」
「イチル」
有無を言わさぬ、そしてえもいわれぬ響きのこもった声だった。
一瞬、何か快感めいた何かがぞくりと腰から背へと駆けあがりそうになった。私は内心焦りながら、顔だけは平静を保って振りかえった。
「なに、シャンクス」
彼はいつのまにやらソファの上に座っていて、こちらに向かって手をこまねいていた。いつもと変わらないいたずらっぽい笑みにすこし安心する。
「お嬢さん、俺の隣が一席空いてる」
彼は芝居がかった言い方で、ソファの空きスペースを指した。
「それじゃあ相席させていただこうかな。親切なおじさま」
「懲りない奴だ」
彼は腕をのばし、私をソファに引っぱりこんだ。顔のすぐそばから笑い声が聞こえる。
「じゃじゃ馬には罰として当分枕になってもらう」
彼はなかば押さえつけるようにして、私の膝の上にふたたび頭を倒した。
「うう、重い」
「当然だ、重くしてる」
「なんだそれ」
彼は返事の代わりに私の腰に腕をまわした。ほんの一瞬、心臓がはねる。
でもそれだけ。それ以上は何もない。私も、彼も。
何を考えているのか、彼はじっと私を見上げていた。目があう。
まなじりからのぞく、息をのむような琥珀色。精悍な頰からしたたる、身を震わすような、男の色。
今まで気にならなかったひとつひとつが、頼みもしないのに勝手に視界に飛びこんでくる。さんざん見てきたものなのに、今更どうしてそんなことが気になるんだろう。
手が腰から腹側にまわった。弄ぶような指先が心をひどくかき乱す。
そして、シャンクスは感嘆するように言った。
「太ったな、お前」
「はい、アウトォ!」
私は彼の手を引きはがし、頭にげんこつを落とした。
「痛ってェ、暴力ふるうなよ。事実だろ」
「事実かどうかは私にしかわかりません!」
「いや太ってる。間違いなく」
「宣戦布告ととってもよろしいか」
そこからはもういつものごとく取っくみあいの揉みあいである。膝枕という、ある種のマウントポジションを取られていた私だったが、一足先に飛びおきて酒瓶のならぶ棚に走った。
シャンクスのお気に入りの一本をつかみ、銃を模した指を突きつける。
「動くな!」
ぴたり、と立ちあがりかけていたシャンクスが動きを止めた。
「イチル、お前」
「げひひ、口の利き方には気をつけな。こいつの中身をぶちまけられたくなかったらな」
『お、おたすけ〜』
酒瓶になりきってアフレコをあてると、シャンクスは口元を押さえて女声で悲鳴を上げた。
「あ、あれはイチル海賊団船長、“つるぺた”のイチル!人質を取るなんてなんて卑怯なの!」
「いちいち火に油を注ぐなぁ!」
「やだ、こわーい。海兵を呼ばなくちゃ」
残念ながら私に負けず劣らず大根役者である。体格もあいまって違和感がとどまるところをしらない。
シャンクスは手をメガホンにして叫んだ。
「赤犬さまァ! 青キジさまァ!」
「青キジィ……ぐ、持病の胃痛が。貴様ぁ、小癪なマネを」
青キジトラウマティックシンドローム、効果は抜群である。海賊からの海兵コールで大ダメージをくらう一般人の図は少々シュールだが。
シャンクスがびしりと酒瓶を指さした。
「人質を解放しなさい。さもないとおしおきするわよ」
「げへへへ、やれるもんならやってみな」
「おほほほ、この鋼の筋肉に勝てると思って?」
「げへへへ」
「おほほほ」
「おい、さっきからずいぶんとうるせェな。なんかあったのか?」
ガチャリという音とともにヤソップが顔を出した。私とシャンクスはそれぞれ「げへ」「おほ」と言ったのを最後に停止した。なおこのとき、私は酒瓶に指を突きつけたゲス顔、シャンクスは内股で片足をはねあげたぶりっ子ポーズである。
ヤソップは十秒ほど考えてから、滅多に聞けない抑揚の消えうせた声で言った。もちろん突きだした親指は船下の海に向けて。
「Rest in peace at the seabed(永遠に寝てろ。海の底でな)」