まだ温かさの残るシャツ。取りいれたばかりの洗濯物からは、太陽の気配がじかに伝わってくる。新しい一枚をたたむたびに、そのにおいと熱に似た生き生きとした喜びが胸のうちに湧きあがるのだ。
窓から見える海は青く、ドアごしに聞こえるクルー達の話し声は相変わらず賑々しい。
船旅は今日も平穏のなかにあった。
75 ざわめきは深淵から
「おとぎ話をして、缶けりをして」
ピンとしわを伸ばして服をたたむように、ここ最近の出来事を丁寧に取りだしてならべていく。
「手配書の整理をして、買いものに行って」
その情景のひとつひとつが映画のひとコマのような印象をともなって心の中に焼きついている。死ぬ間際に走馬灯を見ることがあるというが、そんなものに頼らなくても記憶はすぐに呼びだせる。
大事な思い出ほど、何度も見返せるようにいちばん上の引きだしにしまっておく。私はそういう人間だった。
大事な思い出、という言葉にすこし頰が熱くなった。何をもって大事とするのか、その基準がわからないと今更トボけるつもりはない。
私の顔についたふたつの小さな黒いカメラは同じ被写体ばかりを好んでうつし、結果、アルバムのページには同じ人物が何度も何度も登場することになった。
私は熱心なカメラマンだった。赤いものが視界の隅を横切るだけで思わず振りかえってしまうくらいには。
こんな時間がこのままずっとつづけばいいのに―― そう、ハラントゥーガになんてたどりつかずに。
その瞬間、どくんと心臓がはねた。真っ白のブラウスにケチャップをはね散らしてしまった人のように、私はとっさに胸元を押さえた。
「今、なんて」
帰る。そのたったひとつの願いに、決意も努力ももてるものすべてを注いできた。多くの人を巻きこみながら、命がけで追いかけて。
迷いなんてない。自ら無にするような思いなどありえない。右も左もわからないこの不安定な世界で、唯一絶対に揺らがない。
それは、そういうものではなかったのか。
手に力が入り、たたみかけたシャツに、ぎゅ、としわがついた。
気がついていた。
『日誌』を読む回数が減ってきていることに。
あの街なみを思い出す日が減ってきていることに。
減ったかわりに増えるのは、とあるひとつのことばかり。
いつからか、「帰りたい」が「帰らなければならない」に変わった。ことあるごとに「帰らなければならない」理由をさがすようになった。
平和で安全な元の世界に帰りたい、という本来の動機を転倒させ、自らの命さえ軽視するほど、がむしゃらに『日誌』に固執したのはなぜ?
帰らなければならない、と呪いのように唱えつづけてきた理由は?
わかりやすいようにラベルを貼って、一生懸命「ここには何々が入っています。ちゃんと入っています」と言いきかせることの意味は?
多くの疑問文をならべ、最後にこう締めくくった。
自分に対して投げかける疑問は本当に疑問か?
窓から差しこむ午後の光が急に弱くなったような気がして、止まっていた手をふたたび動かしはじめた。洗濯物からはもう太陽の温かさは感じられない。
残ったものを手早くたたみながら、これまでかたちにすることを避けていた仮定をぼんやりと考えてみた。
たとえばもしも。
明日、かえり道が見つかったら。
日も半ばを過ぎ、食欲をそそる夕食のにおいが船内に漂いだしたころ、部屋の外がにわかに騒がしくなった。
夕食の時間まで、と部屋で読書をしていた私は読みかけの本をテーブルに置き、忙しく飛びかうクルー達の声に聞き耳をたてた。
ドア越しに聞こえてくるのは、娯楽に興じているときの軽妙な掛けあいとは違う、緊張感のあるやりとりである。嵐が近づいているのかと思い窓から外を見るも、スパンコール・オレンジの海面には船波がただただ温厚にさざめいているばかりだった。
嵐の気配はない。おかしなことは何もない。
それがかえって異様だった。
言葉にできない違和感をかかえながら、私はイスから立ちあがり入口のドアに向かって歩いていった。
レッド・フォースに唯一、客室として備えられたこの部屋には、決して華美ではないものの整った内装が施されている。
荒々しい海賊船には似つかわしくない飾り戸の、その端正な木目がひとつひとつ見えるところまで近づいたとき、けたたましい音とともにドアが開いた。
「おい、イチル」
不意を打たれると、ときに声すら出ない。心臓を押さえたまま口をパクパクしている私を一瞥して、ウォーカーはふたたび急かすような声をあげた。
「はやく。急ぐぞ」
彼は荒っぽく私の腕をつかんだかと思うと、ずんずんと部屋の外に歩きだし、私もなかば引きずられるようなかたちで、あとにつづいた。室内では遠くぼんやりとしていた船内の喧騒が、部屋から出た途端、一皮剥かれたようにどっと鋭く鼓膜に迫ってきた。
「ウォーカー、急に、なんで」
小走りになりながらとぎれとぎれに問うも、大股で前を行く彼は、今はそれどころではないといった様相で先を急ぐばかりだ。
ざわめきから遠ざかるように、いくつも角を曲がりハシゴを降り、船の奥へ奥へと進んでいく。
途中、誰にも出会わなかった。
大所帯の組織だから、いくら船が広いとはいえ、公共の場は普段から芋の子を洗うようだ。見張りの者、掃除当番の者、休む者、鍛錬する者。廊下を走れば海賊に当たる。人がいないところをさがすほうが難しい。
だが今日はどうだ。クルーの居室のならぶ階層を通りすぎたが、やはり誰の姿もなかった。非番も皆そろって表に出ているらしい。
普段あるはずの人の気配が感じられないのはひどく気味が悪かった。
表の騒ぎのほとんどとどかない、船倉にほど近い低層まで降りてきて、ウォーカーはようやく足を止めた。積まれた樽や木箱を蹴りとばし、埋まっていた倉庫のドアを開けた彼は、その中に私を放りこんだ。
「いいか、ここから出るんじゃねェぞ」
それだけ言うと、あっという間に引きかえしていこうとするので、慌てて袖をつかんで引きとめた。
「まってまって!」
「何だ」
振りむいたその顔がひどく真剣だったので、私は言おうとしていた言葉をおもわずのみこんでしまった。
首を振り、再度言いなおす。
「わかった。出ない。いいって言われるまで絶対に出ない。けど、理由は知りたい」
困惑と動揺を隠そうとおさえ気味に出した声は、自分でも驚くほど冷静な響きをともなって空間を裂いた。
ウォーカーはたじろいだように私を見たが、すぐに鋭いまなじりを取りもどし、こう答えた。
「敵襲だ。戦闘がはじまる」
ウォーカーはここから出るなともう一度釘を刺したあと、身をひるがえした。
耳から入ったその言葉が脳に到達したころには、もう誰の気配も感じられなくなっていた。私にできることといえば、船腹にぶつかる波音をすぐそばで聞きながら、湿っぽい床の上に立ちつくすことくらいだった。
次に扉が開いたのは、おそらくは時間にして三十分ほどあとのことだった。だが私にはその時間が、まるで一睡もできない夜のように、ひどく長く感じられた。
迎えにきたのはダンピアだった。
「イチル、無事か」
彼の姿にいつもと違うところはなかった。
「うん。とくには何も」
「だったらいい」
上に戻ろう、と言うように彼は手で来た道を指した。口数が少ないのはいつもどおりだが、その端的な言葉の端々に普段とは違う空気を感じた。
いつも冷静なダンピアにはめずらしい、落ちつかないような、浮足立ったようなそんな気配である。
何か急ぎの用でもあるのだろうか、と私は彼の顔を見上げた。
「ダンピア、大丈夫?私ひとりで戻れるよ」
勝手知ったる自船の中である。いつもだったら「そうか」と短く返ってくるはずが、なぜかダンピアはぎくりとしたように視線をそらした。
私の目を見ないまま、首を横に振る。
「いや、俺と一緒に」
妙にかたくな口調だったが、意地を張りあうような場面でもないので、私はおとなしくダンピアについて戻ることにした。
彼は普段は曲がらない角を曲がり、通らない廊下を通り、ときには遠まわりの通路も使って、行きとは異なるルートをたどっていった。
そのたびに私は彼の顔を見上げたが、日に焼けたその横顔からは何らの答えも得ることはできなかった。
行きと同じく誰にも会わずにふたたび上層に上がってくると、倉庫に行く前に聞こえていたあの喧騒はすでになかった。
彼は一層上にあるデッキの様子を確認するように耳を澄ませたあと、ふう、と息を吐いた。
「もう、終わったの?」
私はおそるおそる、ずっと訊きたかったことを口にした。
「ああ」
頷きを返したあと、ダンピアはしずかな声でつづけた。
「だが、イチル。まっすぐ部屋へ」
「まっすぐ部屋へ?」
「そのほうがいい」
彼はデッキへと続く階段を見あげていた。四角く切り取られた夕方の光が、頭上から静謐に舞いおりてくる。時折クルーの声が聞こえてくるのをのぞけば、甲板はすっかりしずかになっていた。喧騒もざわめきもすでにかき消えたあとだ。
が、そのかわりに私は別のものを感じとっていた。それは生まれてはじめて接する異様な空気だった。
鳥肌が立つような緊張感、そして、それが去ったあとの余韻。嵐や大波と遭遇したときのそれと違うのは、そのなかにある種、違和感のある感情が含まれていることだった。
興奮と歓喜。危機を逃れたあとの安堵感とは似て非なるそれが、いまだ冷めやらぬといわんばかりにビリビリと獰猛に地肌を逆なでる。
私は右足を階段に乗せた。ぎ、と古い木板がきしむ。続いて左足。ちらりと後ろを振りむいたが、ダンピアは読めない表情のままこちらを見上げるばかりで、私の行動を止めようとも咎めようともしなかった。
意を決し、甲板に出るための階段をゆっくりと上がっていった。
ぎ、ぎ、という音とともに心臓が一拍、また一拍と鼓動をはやめた。頭上からなまぬるい風が吹きこんできて、嫌な汗が背中に流れたが、足を止めることはできなかった。
最後の一段が、ぎ、と鳴った。いよいよ甲板の光景を目にした私は、ひゅっと息を吸いこんだ。
広い甲板の上には、何もなかった。
いつもと同じ色の木の板が、いつもと同じように陽光をはじいているだけだ。古びた手すりは手垢でテカテカと光り、前見たそのままの姿を夕日の下に晒していた。
『戦闘』だと、たしかにこの耳で聞いたのに。
にわかに複数の足音がして、誰かが甲板に上がってきた気配がした。びくりとおもわず肩が揺れたが、私は結局おそるおそるそちらに視線をやってしまった。
見知った姿がいくつか。そのなかで、冗談を言いあって笑っているのはハルゼーとエヴァンズだった。
彼らはすぐにこちらの視線に気づき、「イチル!」とはずんだ声とともにこちらに近づいてきた。見るまい、と決めていたのに、いざふたりが目の前に来るとその服装の端々にまでそれとなく視線をやってしまった。
だが、はたして、そこにあったのは見慣れた煤と油の汚れだけだった。
甲板にも人の着るものにも、見るかもしれないと、見るに違いないと覚悟していたものは、その痕跡すら認められなかった。
安心したような、だがどこか拍子抜けしたような心持ちで、私はマストに寄りかかり、もう一度、今度は腹の底から吐き出すような息を吐いた。
エヴァンズが不思議そうに首をかしげた。
「どうした、船酔いか?」
「ちょっとね」
「船倉にいたんだってな。カビのにおいだけでも気分が悪くなるよな」
そう言って同情するようにハルゼーが肩をすくめた。
「ま、エヴァンズの足の臭いにくらべりゃまだかわいいけど。昔さァ、コイツの靴、間違えて履いちまったことがあってよ。いやあ、ほんの数分履いてただけだったのに、その後一週間は吐き気が止まらなかった」
「うるせえよ。この芳しいブツ、今度は口につっこんでやろうか。名づけてブリリアント・シューティング・ブラックパフューム!」
どうだ、と言いたげに胸をはるエヴァンズ。どこをどうとってもいつもの掛けあいだった。
「あはは、聞いてるだけで気持ち悪くなってきた」
うっぷ、と口を押さえて見せると、ハルゼーとエヴァンズは互いに肩を小突きあった。
「ほーら、テメエのせいだエヴァンズ。テメエは足と台詞がクサすぎる」
「いーや、テメエのせいだハルゼー。酔ってる奴の前でにおいの話をする奴があるかよ。デリカシーがねェな。イチル、これ以上酔う前に部屋に帰って寝ちまいな」
デリカシーが絶望的なのとネーミングセンスが致命的なのとでは、どちらのほうがより重篤なのだろうか。
また今度考えよう、と思考を放棄した私は、ふたりに別れを告げて、下層へとつづく階段を降りた。
階段下にいたはずのダンピアは、待ちきれなくなったのか、いつのまにか姿を消していた。
私の部屋はすぐそこだ。自分で帰れると判断して戻ったのだろうが、彼の性格上、私が戻るのを長い間待っていてくれたに違いない。
悪いことをしたな、と申し訳ない気持ちのまま私は自室の扉を開けた。
そして、すぐに窓際に立つ見慣れたシルエットに気づいた。
「シャンクス」
彼はゆっくりと振りむいた。心なしか顔色が悪い気がする。
忘れていた胸騒ぎがふたたび胸中に到来したのと、彼が言葉を発したのはほぼ同時だった。
「悪い、イチル。やられちまった」
私は声も出せずに駆けよった。 袖をつかみ、服の上から体中をさぐる。心臓がさっきとはくらべものにならないほど早鐘を打っていた。
うそ。
傷の確認をしようと、ボタンごと引きちぎらんばかりのいきおいでシャツをもみくちゃにする。ぐ、とシャンクスが小さくうめいた。
「どこ、どこを怪我したの?」
「積極的でうれしいな」
怪我の位置を確認しようと必死の形相でしがみついていた私は、ぽかんと顔を上げた。その顔を見てクククと笑ったシャンクスは、頬を緩ませてそのまま私に抱きついてきた。
「うそ」
と、男の声が耳元でささやいた。
力が抜けて地べたに座りこみそうになった私を、彼は片腕で軽く支えあげた。
「怪我をしたなら、シャツがこんなにまっさらだと思うか?」
「でもさっき痛そうな声を出して」
「あれだけおもいきりあちこち引っぱられたらな。いくら俺でも悲鳴のひとつくらいあげる」
黙りこくって返事もしない私の顔を見てすこし考えたあと、シャンクスは詫びるようにこつんと額をあわせた。
「心配したか?」
何を言うのだ、と腹立ちと安堵と過剰なスキンシップの板ばさみにされた私は、ごつん、と強めに額を突きかえして、うなるように答えた。
「したに決まってる」
「そうか」
「しないと思う?」
「いいや、まったく」
当然といわんばかりに即答した男に、私の眉間はますますせまくなった。が、あたたかな額に触れているうちに、怒りは自然になだめられ、かわりに別の思いが湧いた。
「はあ。つまり、これがこれまでシャンクスが私に感じてきた気持ちなんだね」
「イチルにしては察しがいいな」
フフン、と機嫌のいい答えが返ってくる。私はあきらめてシャンクスの肩にしがみついた。
「それにしたって、その冗談はなしだよ」
「そうだな。これっきりにする」
「ネズミの心臓の話、知ってる?ライオンが吠えただけで震えて止まっちゃうってやつ」
彼は笑って、赤子をあやすように私の背をたたいた。いつもどおりのその笑顔に、心の底から安堵した私は海のにおいを胸いっぱいに吸いこんだ。彼特有のその香りに、私の小さな心臓はきゅうっと甘く苦しく締めつけられた。
帰らなくてはいけない。
この時間を大切に思えば思うほど、帰ることをあきらめてはならない。
いつか帰る人間だからこそ、この船にいることが許されているのだ。帰ること、向こうの世界の人間であることをあきらめた瞬間に、私はどこにでもいる大勢のうちのひとりに戻ってしまう。
真実の願いは決して口にしてはならない。それは、浅ましい欲と臆病心が呼びよせたパラドクスだった。
心の声を拒むように、ぶあつい肩に頬をすり寄せた。そのときだった。ふと赤いものが目に入り、私は息をのんだ。
シャツの裾のほうにほんの一滴。彼の燃えるような髪とはまったく違う色あいのそれは、白い布上を蝕むようにどす黒く染みついていた。
「シャンクス、それ」
そのとき、ふわりと一瞬、彼の身体から血臭が立ちのぼった気がした。胸の奥まで錆びさせるような濃く、残酷なにおい。
そう、怪我はない。彼には。
「どうした、イチル?」
シャンクスの声が落ちてくる。今となっては聞きなれた、その心地の良い低音に耳をかたむけたあと、私はシャツの染みから目をそらした。
「ううん、何でもない。そういえばお腹すいたなあ」
お前はそればっかりだな、とシャンクスが笑う。赤い髪から漂ってくるのはいまや海のにおいだけだった。
残された時間、私は唱える。唱えつづける。
―― 今はただ、こうしていられるだけで。