ハイ、突然ですが質問です。

「私たちはこれまでに何を買ったでしょうか?」
「ピンセットとフォーセップひとそろい、ビーカー三つ、ゴム手袋一ダース、二十センチと五十センチのチューブ、それから保存用のガラスケース、顕微鏡のレンズです」

 急な問いかけにもかかわらず、青年はろくに悩みもせず歌うように答えた。もちろん手元にカンニング用のメモはない。

「抜きうちにも動じない記憶力!さすがだね、ウィック」
「そそ、そんなんじゃないですよう。い、いつも似たようなものばかり買っていますから」

 よどみなく答えたさっきとは打ってかわり、ウィックはひょろりと伸びた手足をパタパタと動かして、身体全体で照れを表現した。子犬のような薄金のくせ毛が、赤くなった頬の上でひらひらと揺れている。仕事以外のことになると、彼はいつもこんな感じだ。

「お買い得だったのは?」
「それはもう最初の店で買ったレンズですよ!今持っているスコープは船に乗る前から使っている単眼式なんですけれど、旧式なせいもあってなかなかぴったりくる高倍率の対物レンズが見つからなくて……!まさかあんな小さなお店にカールツァイスの七十六年製レンズがおいてあるだなんて、いったい誰に予想できたでしょう。お店のご主人はかなりの通ですよ!ああ、欲をいえば隣に置いてあったシュライデンのルーペが非売品でなければ――

 息継ぎもせずに熱っぽく語っていた彼は、そこではっと我にかえったように私の顔を見た。みるみるうちに真っ赤に茹であがっていく。

「す、すみません。つい夢中になっちゃって」

 年の離れた彼の姉はきっとこの子が可愛くて仕方なかったに違いない、と私は右手を彼の頭の前に差しだした。ぷしゅう、と湯気をあげていたウィックは、私の意図を読みとると「あ、その、え」とぎこちなくも求められたとおりにした。
 初夏の青稲のように遠慮がちに、長身が背をかがめる。

「ウィックは頑張りやさんだね」

 金色の頭をなでると、彼はとまどいながらも幼さの残る頬をゆるめた。



chapter7 SLEEPING BEAST

76 蓋(Ⅰ)


 ちらほらと雪の降り始めた午後、私はウィックと連れだって買い物に出ていた。目立って大きくもなく、それほど小さくもない冬島である。

 ドナン・ドゥイックの一件以来、単独での外出は難しくなった。
 もちろん上から下までそろいもそろっておおらかな“赤髪”一行であるからして、外出禁止令なるものが出されているわけではない。
 単に、私自身が非常に言い出しづらいのである。あれだけ壮大に迷子になっておいて、「大丈夫、おまかせあれ!」などと豪語できるほど面の皮は厚くない。
 もちろん過去にシャンクスに単独外出をねだったことはあるが、それは相手がシャンクスだったからだ。私がわがままを言えるのは、なんだかんだで彼以外にいない。

 前回の上陸からすこし時間があいたせいで食料も弾薬も目減りしていたらしく、手の空いているクルーは皆積みこみに駆りだされることになった。
 今回はお留守番もやむなしか、と覚悟を決めていた私に、蜘蛛の糸を垂らしたのは意外な人物だった。
 そう、ウィックである。

イチルさん、ぼうっとしてどうしました?」
「ううん、何でもない。また雪が降ってきそうだね」

 そうですね、とウィックは寒風でりんごのようになった頬をマフラーに埋めた。
 つい先日、十五歳の誕生日を迎えた彼は、年齢に似合わぬ腕と経験を持ちあわせたレッド・フォース号の船医である。数人いる船医の中でも飛びぬけて若いが、船長を含めクルーたちからの信頼は厚い。

イチルさんのおかげで買い物がはかどりました。ああっ、もちろん買い物を手伝ってもらうためにお誘いしたわけではなくて……そ、その、ひさしぶりの上陸ですし、気分転換も必要ではないかと……!」
「わかってるわかってる、誘ってもらえてありがたかったよ。それにウィックひとりだったら、今も最初のお店でルーペに張りついてたかもだ」
「うう、たしかに。前にも一度来たことがある島なんですけど、前回は休業中で中を見られなくて、それでつい」

 彼は罰が悪そうに尻尾を丸めた。良い砂地を見て、本能にあらがえずここほれワンワンしてしまった犬のようである。

「ウィックが一緒に行くって言った途端、あっさりOKだもんなあ。信頼度が高いというか、私の信頼度が低すぎるというか」
「あはは」

 こんなウィックだが、こうみえてかなり旅慣れている。ウィックと一緒ということなら、と普段は厳しいシャンクスも首を縦に振ったのだった。

「さてこれで器具類はだいたいそろったね。あとは薬草かな」
「はい。痛みどめの材料をきらしていまして」

 ファーのついた袖からじんわりと赤く冷えた人さし指を出し、ウィックは頷いた。

 ガーゼや消毒液など大量に使う消耗品は食料などと一緒にまとめて船側で購入しているが、手持ちの器具や得意分野の薬品などは各船医が自己調達することになっているらしい。ウィックの作る痛みどめは効果が高いと評判だった。

「地図によると薬草店は山の麓に―― わっ!」

 そのとき、どすん、と腰のあたりにぶつかってきたものがあった。
 茶色のふわふわした何かが雪だらけの地面に転がる。ぶつかられた私のほうも、耐えきれず尻もちをついた。

「いたた……わっ、大丈夫!?」

 ぶつかってきたのは、分厚いコートに身をつつんだ少女だった。ぶつけたせいか寒さのせいか、赤くなった鼻先をこすって彼女は「ふええん」と小さな泣き声をだした。

「ど、どこか痛いところある?」

 少女は鼻をすすりながら、膝のあたりを指さした。ほんのすこし、皮がすり剥けて血が出ている。

「ご、ごめんね!どどど、どうしよう」

 こちらも泣きそうになりながらウィックを見上げたところ、彼はすでに軟膏を取りだしたところだった。

「大丈夫、痛くないですからねっ」

 と言いながら、慣れた手つきで薬を塗っていく。少女は痛みを忘れたようにぽかんとウィックを見つめていた。

「はい、できました。家に帰ったあともお母さんかお父さんにこれを塗ってもらってくださいね」

 使ったばかりの軟膏の缶をさっと少女の手に握らせる。即効性があるのか、すっかり泣きやんでいた少女は、ちらりとウィックを見あげて恥ずかしそうに言った。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 立ち去っていく後ろ姿に、ウィックは今日いちばんのいい笑顔を見せた。その顔を見て、私の頬もついゆるむ。

「さすがウィックだね。ありがとう、助かったよ。さっきのは、材料がきれたっていう例の薬?」
「ええ、殺菌と痛みどめの効果があります。応急的に使えるので、いつも持ちあるいているんですが、おっしゃるとおり今のがちょうど最後でした」
「じゃあさっこく次に行こう。あれはきっと、きらしちゃいかん類のやつだ」
「あはは、そんなにたいしたものじゃないですよう」

 まだ午後も早い時間なだけあって、通りに人は多い。子どもとぶつかったあたりから、じっと足を止めてこちらを見ていた男性がいたのだが、彼もまた、ことの顛末を見とどけて歩き去っていった。
 ボロボロのローブに身を包んだ、どこか異様な風体の男だった。

「さっきの店で待ってる間に聞いたんだけど、この島の薬草店は山の方に一軒あるきりだってね。すこし歩くけどがんばろうか。本格的に降りはじめるまでに帰らないと」

 がしゃがしゃいう紙袋を抱えなおして、私たちは白く染まった道を登っていった。

◇◇◇

「フェイクウィローとルツヴェリアが欲しいんですけれどもっ。あ、できれば生葉で」
「生葉、と。はい、金額はそこに書いてあるとおりね。ああそうそう、つい一週間前にマンザニーロを入荷したんだけど、興味はあるかい」
「マンザニーロ!?」

 ウィックが目をかっ開いてカウンターに身を乗りだした。

「それってレイン・オリーブのですよね!?」
「ほ、ほかのものがあるかい」
「フォーウ!」

 心の琴線にばちばちに触れるものがあったらしい。ウィックは今まで聞いたことのないような浮かれた歓声を上げた。
 ガッツポーズとともに天井に向かって伸びあがった青年に、店主は落ちてはいけないガラス瓶などを慌てて端に寄せた。医療オタク、ほん、情熱の若医師はときに情熱ゆえにバーサーカーと化す。

「どっ、どこのものですか?」
「カスティロ産だよ」
「“太陽の国”ですか!収穫月はっ、いや、SR値はっ!?」

 ふたりの間で難解な専門用語がとび交いはじめたのを機に、私は表に出た。興奮したウィックの声がぐっと遠くなった。雪は音を吸収する。

 さっきは空中で溶けきえそうなほどだった粉雪も、すこしずつ質量を増し、今は桜の花びらのようにちらちらと視界に舞っていた。
 そういえば、本格的な冬を体感するのはひと月ぶりだ。

「ひと月ぶり、だって」

 おもわず笑いそうになる。冬と夏がひと月ごとにやって来ることなどない。少なくとも向こうの世界では。

 生まれた場所はそう雪の多い場所ではなかったが、いまさら大はしゃぎするほどめずらしいものでもなかった。
 白く染まりはじめめた世界のなか、ぽつんと立った山小屋の前で、私はひとり白い息を吐いた。

 しばらくして、小屋の戸が開く重い音がして、ウィックが表にあらわれた。レンズを買ったときに勝るとも劣らない満面の笑みである。

「ごきげんだね。いいものあった?」
「はい、それはもう!」

 紙袋を宝物のように抱えた彼は、お待たせしました、と言って深々と頭を下げた。
 抱えた紙袋を濡らさないように気をつけながら、もときた道を下る。

「えっとマンザニーロ、だっけ。それってそんなに貴重なものなの?」
「マンザニーロというよりもレイン・オリーブ科の植物自体が、ですね。たいへん珍しい特性を持つ植物なのですが、かぎられた環境でしか生育しなくて、なかなかお目にかかれないんです」
「珍しい作用って?」
「レイン・オリーブ科の植物には除塩作用があるんです。タンクの中に海水とマンザニーロの葉を入れておくと、なんと一日ほどで飲用が可能になります」
「つまり、天然の浄水器ってこと?」

 頷くウィックに、こちらも「なるほど」と納得した。この海ばかりの世界では、たしかにどこに行っても重宝するだろう。

「といっても、現代の研究ではマンザニーロやルッツ、その他現存するすべてのレイン・オリーブ科の植物は他科との交配種だとされています。千年以上前に存在した古代種―― 純粋なレイン・オリーブ科の木はたった一株で小さな塩湖をまたたく間に真水に変えることができたとか。交配種ですらかぎられた環境でしか育たないのですから、古代種が環境に適応できず絶滅してしまったのも当然かもしれませんね」

 ウィックは天をあおぎ、惜しい人をなくしたとばかりに嘆いた。人じゃないが。

「レイン・オリーブねえ。ん?そういえば、前にどこかで聞いたような」

 何だったかな、と考えようとしたとき、首元にぴりつく電流が走った。本能が発する危険信号に、理解するよりも先に手が動いた。

「ウィック!」

 かばうように前へ出る。パン、と軽い音とともに、足元の雪がはじけ飛んだ。つづいて熱い衝撃。
 自分でも驚くほどの速さで紙袋を投げだし、ウィックのコートを引っつかんでいた私は、なかば身体を放りなげるようにしてすぐ近くの茂みに飛びこんだ。
 息つく間もなく、二度目、三度目の銃声が聞こえる。

 そんななか、ウィックは唖然とこちらを見ていた。

イチルさん」
「大丈夫だよ。それより逃げないと」

 医者ならば正しい判断ができるだろう、という期待を込めて、私は彼を見た。ウィックは息をつめたが、それも一瞬のことだった。
 歯を食いしばった彼は「はい」と押し殺した声で言い、私の手を取って走りはじめた。

 冷や汗が流れ、すぐに身体に力が入らなくなった。視界が明滅する。私は走りながらハンカチを太ももにきつく巻きつけた。
 私たちは偶然見つけた木のウロに滑りこんで身を隠した。

「雪のすくない場所を通りました。すぐにはバレないはずです。それより早く……!」

 巻きつけていた布を手早く剥がされ、出すまいとしていた声が、ウッ、とわずかに漏れた。
 あらためて晒された惨状に、己のことながら、おもわず目をそむけてしまった。

 布の下から現れたのは銃弾に食い破られた血だらけの脚だった。
 血痕を残さないための押さえ布は、すでに雑巾のようにじとじとに濡れている。ジーンズからのぞく傷口を、ウロの中の冷気が容赦なく苛んだ。

 銃弾の有無を確認するため傷口をのぞきこみ、ウィックは一瞬苦い顔をした。しかし彼は、すぐに表情を消し「すこし、痛みます」とだけ告げた。私もまたほんのひととき、ぎゅっと目をつぶって覚悟を決めた。袖の布を口に含み、強く噛みしめる。

 カチャ、チキ、といった医療器具のかすかな金属音が響く。ウィックが何をしているのかを確認する勇気はなかった。最速で最善の処置をおこなってくれる人物だ、という確信だけが拠りどころだった。

 止まらない冷や汗に震えながら「大丈夫、大丈夫」と呪文のようにつぶやきつづけた。

◇◇◇

 時間でいえば五分くらいのものだっただろう。
 だが、ウィックが包帯の端をとめ終えたときには、水でも浴びたように全身ぐっしょりと汗ばんでいた。
 傷とは違う軽い痛みが走ったので、見れば手のひらに半月型の爪の跡が四つきれいにならんでいた。うっすらと血がにじんでいる。

 力を入れすぎていたせいか、それとも寒さのせいか、手の震えはいまだ止まらなかった。しかし血を流しつづけていたさっきにくらべると、すべき処置を終えているという安心感から気分はいくぶんかマシだった。

「ありがとう、ウィック。助かった」
「ま、まだ動いちゃダメですよ!簡単に縫っただけですから」

 彼は慌てて、私の肩を地面に押しもどした。傷の処置をおこなっていたときの触れれば切れそうな表情とは打ってかわって、不安そうに眉の端を下げている。
 彼は消え入りそうな声で言った。

「すみません。僕が気づいて自分で避けられていたら」
「事前に気づいて避けるなんてことができるのは、クルーの人たちくらいだよ。私だってなんとなく危ない!って感じただけで、わかっててやったわけじゃないし」
「で、でもっ、あのときすぐに僕のことを」
「手に当たったらどうしよう、って思ったんだよ。ウィックの」

 彼はショックを受けたように顔を上げた。落ちそうなほどに見ひらかれた青い目が、私を見つめる。

「ポーンショップで大怪我をしたとき、ウィックが助けてくれなかったら、私は今ここにはいなかった。いや、きっと私だけじゃないね、船の皆のなかにもそういう人はたくさんいるはず」

 慄くウィックの手を取った。

「だから『ごめん』は要らないよ。ウィックの手はこれからもたくさんの人を助けないといけない手だからね。ウィックの手は船の皆で守る宝物なんだよ」

 カラカラに乾いた喉に無理やり唾液を流しこんで、かすれた声で笑った。

「怪我なんてさせたら、シャンクスにあわせる顔がないよ。だいたいね、私の足なんかいまさらちょっとくらい穴が開こうが縫われようが問題にならないから、大丈夫。死ななければ問題ナッッッスィーングよぉーん!ってボンちゃんも言ってた」

 私は胸を張って、むふーん! と鼻息を吐いてみせた。
 泣き笑いのような顔をしているウィックを見つめながら、私はつづけた。

「死ななければ。死にさえしなければ。そう、死ぬのだけは絶対になし。お互いにね。だから、逃げて。助けを呼んできて。私はここから動けないから」

 出血はまだ止まっていない。今はまだ元気でも、血を大量に失った身体はそう長くは保たないだろう。
 私以上に私の状態をわかっているウィックは、ぎゅっと目を閉じて、ゆっくりと息を吐き出した。

 次にまぶたが開いたとき、その瞳には覚悟と力が満ちていた。

「わかりました。すぐに戻ってきます。外には絶対に出ないでください」
「ありがとう。今度こそ大人しくお留守番してるね」

 流れる冷や汗をぎゅっと拭きとり、カチカチと鳴る歯の根になんとか笑いをのせると、彼もまた目の前の私を安心させるようにこわばった頬でほほえんだ。

 すぐに帰ってきます、と小さな声とともに木のウロから出ていく。
 が、その後ろ姿が、忽然と消えた。

「『これで少なくとも共倒れだけは避けられる』」

 荒々しく雪を踏む音がして、ウロの入り口が暗くなる。

―― だなんて、つまんねェことを考えてんじゃねェよなァ?」

 男たちのギラつく目を前に、私はもはやすべてが遅かったことを悟ったのだった。


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