どこからか水の滴る音がする。
ぴちょん、ぴちょん、と秒針よりもすこし遅い間隔で聞こえるそれに耳をかたむけるうち、暗闇にひたっていた意識が浮上した。
77 蓋(Ⅱ)
まず飛びこんできたのは、湿っぽく不快な臭気。沼の底のような陰気なそれにおもわず顔をしかめたとき、下半身に激痛がはしった。
「いでででででっ」
我ながらマヌケな悲鳴である。TPOをわきまえて、もうちょっと緊張感のある声が出せないものか。
緊張感、という言葉が浮かんだところで、ようやく脳から「周囲の状況を認識せよ」との指令がくだった。
目ヤニか何かでカピカピに固まったまぶたを引き剥がすようにして開ける。
暗い。
ひどく暗い場所だった。肺まで冒されそうなカビの臭いと湿気、それからどこからともなく漂ってくる嗅いだこともない嫌な臭いに、私はもう一度念入りに顔をしかめた。
「イチルさん」
すぐ近くでささやき声がした。かたわらに視線をやれば見慣れた金髪の青年がいる。
白い頬に安堵と不安の両色をのせ、こちらをじっとのぞきこんでくるウィックの、その頭の先から足の先までをぐるりと眺めまわして、私は息を吐いた。
良かった。怪我はなさそうだ。
「ううん、前にくらべればずっとマシだよ。この臭いにはちょっと閉口してるけど」
肩をすくめて見せると、今度はウィックがほっと身体の力を抜くのがわかった。失礼します、と言って私の額に自然な所作で手を当てる。
「熱も下がっていますね。痛みますか」
「痛いことは痛いけど、我慢できないほどじゃないよ」
「悪寒や吐き気は?」
「それも大丈夫」
船の医務室でやるのと同じ様子でテキパキと患者の容態を確認したあと、彼は冷静に所見を述べた。
「ひとまずは落ちついているようです。とはいえ、できるだけ早く適切な場所で適切な処置をしたいところですが」
そう言って彼はうかがうように周囲を見まわした。
水音の響く薄暗い室内。石造りの壁で囲まれたそこは、部屋というよりも洞穴に近かった。
床はひやりとしているが、上着を脱いでいても凍えることはない。外気温との差を考えると、おそらく地下だろう。
地下。そう、地下牢だ。
「やっぱり捕まっちゃったんだね」
悔しさを押しころすように、青年の小づくりな顎がうごいた。
「すみませんでした。僕がもっと注意していれば、こんなことにはならなかったのに」
噛みしめられた白い唇。そこにあるのは恐怖ではない。純粋な怒りだった。
「怖くは、ないの?」
「めずらしいことではありませんから。この海で生きるかぎりは」
彼の口調は平静だった。
海の水は塩辛い。そんなあたりまえのことを語っているかのような凪いだ声だった。
彼の怒りはただ、この状況を回避できなかった自分自身にのみ向けられている。
そうわかった瞬間、頭からいっせいに血が下がっていくような感覚をおぼえた。胃ではないところからくる、渦を巻くような吐き気。
きもちわるい。
「イチルさん!」
気つけのように肩を叩かれて、視界に色がもどった。目の前には心配そうな顔がある。
「大丈夫ですか?」
「ごめん。ちょっとめまいがして」
「すこしでもおかしなところがあったらすぐに言ってくださいね」
「あはは、めまいの原因はきっとこの強烈なカビ臭さだよ」
冗談めかしてそう言うと、彼はまたほっと息をついた。色を取りもどした唇から、私はそっと目をそらした。
「それにしても、人の気配がまったくないね。見張りのひとりやふたり、いてもおかしくないと思うんだけど」
「怪我人と非力な子ども、まず逃げられるはずがないと踏んでいるんでしょう」
『非力な』というところでウィックは若干声をうわずらせた。ひどく悔しそうだ。
せっかくなので、こちらも無い胸を張っておくことにした。
「怪我人じゃなくて、非力な怪我人ね。怪我があろうとなかろうと、ぶっちゃけ変わらないんだなこれが。あっはっは」
ウィックは「笑いごとじゃないですよう」とすねたように口をとがらせた。
「さて。私たちはこれからどうするべきだと思う?旅慣れた先輩として、ウィックの意見が聞きたい」
年下に判断を丸投げするのはとてもなさけないことだが、こういうときこそ経験がものをいう。
ウィックは表情を正して私のほうを見た。
「イチルさんはクルーの皆さんとは違います。彼らのような体力はありませんし、ウイルスや細菌に対する抵抗力も低い。そして何より、貴方は貴方が思っている以上に弱っています。不衛生な環境で長く過ごすのは、あるいは、致命的かもしれません」
ウィックの視線は今もひっきりなしにずくずくと疼く私の腿に向かっていた。
「だからこそ、無闇に動くのは反対です。たとえじわじわと消耗していくリスクを負ったとしても、今ここで可能性の低い脱走策を強行して残り少ない体力を使いきってしまうよりはいい。こうして殺されず、囚われるに留まっているからには、何らかの利用価値があると認識されているはずです。せっかくの利を失うことは避けたい」
扱いにくい捕虜の価値はいちように低い。脱走の目論見が露呈した時点で、末路はおして図るべしだろう。
助けを待つべきです、と彼は冷静に結論づけた。
私は息を吐いた。
「さすがだね。ウィックと一緒でよかった」
目が覚めたような思いだった。
暗い牢屋のなか、いつどうなるかわからない恐怖とたたかう。一刻も早く逃げだそうとがむしゃらに行動しているほうが、気持ちのうえではどれほど楽かわからなかった。
実際に、ポーンショップ島で海軍の船に捕まったときも、ドナン・ドゥイックの館に捕われたときも私はそうしてきた。
勇気があったのではない。むしろ耐えて待つ勇気がなかったからこそ、そうせずにはいられなかったのだ。
とまどい顔のウィックの前で、えへ、と頭をかいた。
「つまり私ひとりだったら、今ごろはまちがいなく、無茶やって逃げだそうとしてたってことね」
ウィックはぽかんと私の顔を見つめたあと、「やっぱり」と笑いだした。薄暗い牢獄には不似合いな明るい笑い声がひびいた。
「レッド・フォースのクルーであれば皆知ってます。イチルさんのそういうところ」
「いつも迷惑かけてごめんね」
クスクスといまだ笑いを残す彼は、憑き物の落ちたようなすっきりとした顔で首を横に振った。
「いいえ。そういうイチルさんだからこそ、船長も皆さんも貴女のことを大切に思うんです」
ぴちょり、ぴちょり、と滴りつづける水音を数えること数時間。
いつしか浅い眠りに入っていた私をたたき起こしたのは乱雑なブーツの靴音だった。
ウィックと視線を交わす間もなく、格子の隙間から複数の瞳がのぞいた。
暗がりで獣のように光る黄ばんだ目。粘つく視線におもわず身を縮めると、傷んだダミ声がガッガッ、と聞き苦しい音を立てた。
それが人の笑い声だと気づいたのは、蹴破るような乱暴さでドアが開かれたあとだった。
小さな出入り口をくぐるようにして男が三人入ってくる。無遠慮な視線を振りはらうように顔をそむけると、顎をつかまれて無理やり前を向かされた。
染みついたアルコールと酸化した汗のきつい臭い。耐えられずに顔をしかめると、何を勘違いしたのかふたたびガッガッ、とあの笑い声がした。
「カシラが呼んでらぁ。来い」
案山子でもひろい起こすように無造作に腕をつかまれる。足の痛みにうめくよりも先に、ウィックがその手を弾いていた。
「無闇に動かさないでください!怪我人なんです!」
それに対する男たちの反応はあきらかにまともなものではなかった。
「ああ?」
やつれた頬をポリポリと掻いたあと、のろくさく顔を見あわせる。先頭にいたひとりが剣の柄に手をかけて気だるそうにうなった。
「もう一回言ってみろ、クソガキ」
「怪我がひどいので動かさないでくださいと言ってるんです」
普段とは真逆の険しい声ではねつける。
男たちの目に狂気に似た剣呑さが宿るのを見て、私は慌てて彼らのあいだに割って入った。
「大丈夫です。ちゃんと歩けますから」
噛みつかんばかりのいきおいで男たちを威嚇していたウィックも、今にも剣を抜かんばかりだった男たちも、いったん動きを止めてこちらを見た。
ガチガチにかじかんだような指で、手のひらを思いきり握りこむ。集まる視線が分散しないうちに先をつづけた。
「手をわずらわせないように歩きますから、彼がついてくることを許してください。彼は医者なんです」
海賊たちがウィックの言うことを聞きいれるとは到底思えない。
だが、ウィックは何をされようと決して私のそばを離れないだろう。私が患者であるかぎり、彼が私を差しだすことはない。
その時、彼の身に何が起こるか、考えただけでもおそろしかった。
「医者ぁ?」
男の声が洞穴にこだました。ぎゅっと身を小さくして、次の反応を待つ。
罵声か嘲笑か、もしくは。
結果からいうと、私の覚悟は空振りした。男たちは不思議と私たちに対して何らのアクションも取らなかったのだ。
海賊たちは視線を交わし何ごとかをささやきあったあと、私たちふたりを牢獄の外へと連れだした。
そこは広間だった。
正確には、広間だった場所だろう。
天井はすべて崩落し、その残骸とおぼしき塊が現代アートのオブジェのような形であちらこちらに突きたっていた。足元のタイルは片端から剥がれひび割れ、四方の柱と壁は千年前の遺跡もかくやというありさまである。
もとは大規模な建造物の一部であったのだろうその場所は、今や何のまとまりもない空間へと成りさがっていた。
視線を持ちあげれば、頭上には薄灰色の寒空。崩れた柱のあいだをぬうように、ちらちらと細かな雪が舞いおりてくる。
せめて晴れていればよかったのに。
「なかなかイカした城だと思わねぇか?レディの好みにはあわねぇかもしれねェが」
耳障りな声が私を現実へと引きもどした。
灰色に死んだ廃墟。だがそこは決して静謐な場所ではなかった。
はっはっ、と荒く吐かれる息。むせかえる体臭。黄色い目から放たれるにごった視線。
獣のそれと何ら変わらない気配は、だが実際には周囲を取りかこむ男たち―― 三十人を超える海賊の群れが発するものだった。
彼らは歯の隙間から羽虫が立てるような不快な音を出した。
笑っているのだ。
頭の冗談を、ではなく、ここに立っている私たちのみじめさを。
「下の村でお前らのことを見かけた奴がいてよ。医者なんだってな、お前」
海賊の頭は、黒ずんだ指で私をさした。びくりとした私たちのうしろで、ここまで連れてきた海賊のひとりがウィックを小突いた。
「かしらぁ。それが、医者はこっちの細っこいガキだそうですぜ」
「ああン?聞いた話と違うじゃねえか」
怪訝そうな声を出した海賊の頭に、私は慌てて口をはさんだ。
「本当です!この子は医者です。私の傷の手当をしてくれたのも彼なんです」
ウィックの価値をわかってもらえるよう、必死でうったえる。
下の村で治療しているところを見られてさらわれたのならば、海賊たちには医者を必要とする目的があるはずだった。
利用価値があるかぎり、身の安全は守られる。
何でもいい。とにかくまずはこの場を無事にやりすごす。
「おい、さっきこいつらの話を持ってきた野郎!」
胡乱な目で私たちを眺めていた頭だったが、急に子分の群れに向かって呼びかけた。
痩せた若い男がひとり、群れの中から押しだされてくる。
私はおもわず唇を噛んだ。
彼は、私とウィックが村で子どもとぶつかったとき、その様子を見ていた男だった。
青い顔をした海賊は、頭の前でおどおどと弁明をした。
「いや、あのときはそんなふうには見えなかったんでさあ。それに普通、こんなガキが医者だなんざ―― 」
人生の分かれ目は、ある日、あるとき、突然にやってくるものだ。好むと好まざるとにかかわらず。
―― この瞬間、私の世界は、一変した。
そのはじまりは、『ぐしゃ』とトマトが潰れるようなあっけない音だった。
「あーもう、そういうのはいいから」
頭の中が、完全に真っ白になった。
今、何がおこった?
「ほんと使えねえなあ。報告は正確にしなきゃあ、ダメだろうが。恥かかせやがって」
海賊の頭は、会社で上司が部下を軽く注意するような感じで言って、頭をつかんでぶらさげていた若い海賊を放りなげた。
十メートルほど飛ばされて壁に激突した男は、風であおられた案山子のようなあっけなさで、血溜まりの中に倒れこんだ。
べちゃん、と赤いペンキが壁にはねた。
瓦礫が邪魔になって、男の身体は見えない。
しかし、彼はもう二度とは起きあがってこなかった。
息をのんだウィックが走り寄ろうとして、次の瞬間には背後から殴り倒されていた。
うめき声を残して、ウィックは気を失った。
「おいおい、なに勝手に逃げようとしてんだ。元はといえば、お前のせいでああなったんだろうがよ。ややこしい見た目しやがって」
瓦礫の間からじわじわ染みだして、となりの流れと合流する。川がつくられていく。
赤い川。そういう景色が目に映っている。だが、映っているだけだ。それがどういうことなのか、いつまでたっても、うまくのみこめなかった。
「どいつもこいつも使えねえ」
気づけば、頭の顔がすぐ目の前にあった。
「医者ってやつは人の怪我は治せるくせに、自分の身は守れないバカな奴らなんだよなあ。一匹いれば便利かと思ったんだが、こんなガキじゃ数日も保たねえ。なしだ、なし。お嬢ちゃんもそう思うだろ?それくらいしか使い道のねえヤツが、そんなこともできねえんだったら生きてたって仕方がねえ。弱いヤツは強いヤツのいうことをきかなきゃならねえ。ましてや、逆らうなんて死んでもしちゃいけねえんだよ」
ひゅん、と風を切る音がした。
一瞬後、頬に冷たいような熱いような感覚をおぼえて、私はゆっくりと手をのばした。
指先がぬるりとすべる。
心臓が、冷たい予感に震えた。
顔の前に持ってきた手は、真っ赤な何かで濡れていた。
「……え?」
呆然とする間もなく、髪をつかまれて、無理やり顔を上げさせられた。
「利用価値があれば殺されない。痛い目にも遭わない―― まさか、そんなつまらねえこと、考えてねえよなあ?」